【336】2026/3/22 主日礼拝 『キリストについてのことば』 ローマ人への手紙<10:17> 斉田基牧師
先週のメッセージで、希望の力について、みことばを語りました。
私たち希望の神であり、目標であるイエス様に目を留め続けさせる力、そして、イエス様のように、私たちを歩み続けさせる力・・・それが、希望の力です。
希望とは、いつまでも残るものです。ですから、このことさえ何とかなっていれば、まだ、希望があったのに、もうこうなってしまっては、希望がないと言うなら、それは、希望ではありません。
希望とは、イエス様ご自身です。私たちが、希望であるイエス様に目を留めるときに、希望の力が私たちに与えられます。
希望の力は、イエス様と言うゴールに向かって、イエス様のように歩み続けさせる力です。
どんな問題や困難があっても、目標に向かって、歩み続けさせる力・・・この希望の力がなければ、誰もイエス様のように歩み続けることができません。
一生涯、イエス様と共に歩み続けた人はみな、この希望の力をいただいていました。
そのように、希望の力をいただいて、イエス様に目を留めて、歩み続けていると、信仰が与えられ、喜びと平安が溢れます・・・希望は目標をセットさせ、信仰は目標をゲットさせるものです。
いつまでも残るもの、信仰、希望、愛・・・これらすべてが、イエス様に目を留めているときに、私たちに与えられます。イエス様を見ていると、希望が湧き上がり、信仰が湧き上がり、愛で満たされます・・・イエス様に目を留めてさえいればいいのですが・・・どうすれば、イエス様に目を留めることができるでしょうか・・・神のことばに目を留めることです。
ヨハネの福音書 1章1節
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネの福音書 1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
人となって私たちの間に住まわれた神のことば・・・イエス様に目を留めることは、神のことばに目を留めること・・・しかし、神のことばに目を留めることが、イエス様に目を留めることだと、悟らなければ、信仰が湧き上がって来ません。
使徒の働き 28章26-27節
『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
聞くには聞いても悟ることができない原因、神のことばに目を留めることが、イエス様に目を留めることだと悟ることができない原因は、心が鈍くなって、心の目と耳が閉じているから・・・逆を言えば、心の目と耳が開きさえすれば、悟ることができる。
心の目と耳が開くとき、聖書を通して、イエス様が、私に語りかけてくださる、と、悟ります。
心の耳が開かれると、聖書のことばとしてではなく、イエス様の口から出る一つ一つのことばとして聞けるようになる。
人は、パンだけで生きるのではなく、聖書のことばによって生きる、のではなく、神の口から出ることばによって生きます。
私に、いのちを与え、私を生かすことばは、聖書のことばではなく、神の口から出ることばです。・・・だからこそ、イエス様は、聖書のことばを聞く人はとは言わず、いつも、わたしのことばを聞く人は、わたしのことばにとどまる人は、わたしのことばを守る人は・・・と言われました。
聖書のことばを、聖書のことばとして聞くのではなく、イエス様のことばとして聞く・・・イエス様の口から、今、私に直接、語りかけてくださる、神のことばとして、聞くときに、心の耳が開かれて、聞くことが実現します。
17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
信仰は聞くことから始まりますが・・・聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する・・・信仰が始まるということは、何となく、分かりますが、聞くことが実現するとは、どういう意味でしょうか。
聞くことが実現するとは、心の耳が開かれることです。今まで、聞くには聞くが決して悟ることができなった人が、キリストについてのことばを聞くときに、聞いて悟るようになることです。
キリストについてのことばを聞くなら、聞くことが実現する・・・心の耳が開かれる。
キリストについてのことばを聞くなら、聞いて悟り、信仰が始まる。
それでは、キリストについてのことばとは、何でしょうか。
ヨハネの福音書 1章 17節
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
キリストについてのことばとは、イエス・キリストが、私たちのために実現してくださった恵みについてのことばです。・・・この恵みのことばを聞くとき、私たちの心の耳は開かれます。
イエス様が、私たちのために実現してくださった恵みとは、何でしょうか。
ヨハネの福音書 1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ことばが、人となって、私たちの間に住まわれた・・・神であるイエス様が、人となって、私たちのところに来てくださる前までは、祝福されるか、どうかは、私たち次第でした。
律法を守り行っていれば、祝福されるけど、従わなければ、のろわれる・・・自分が従っていれば、祝福されるけど、従わなければ、自分の人生はダメだ・・・これが、律法主義であり、宗教です。
自分がどれだけ努力したか、どれだけ達成したかによって、祝福を受けるか、どうかが決まる・・・自分次第・・・自分次第というのが、律法主義です。
しかし、自分次第では、私たちは、誰一人、救われなかったからこそ、イエス様が、私たちと全く同じ人となって、私たちの代わりに、イエス様が、すべてを成し遂げてくださった・・・かつて、自分次第であったことを、イエス様次第に変えてくださった・・・これを恵みと言います。
イエス様の恵みによって、私たちが救われるかどうかは、イエス様次第です。
イエス様の恵みによって、私たちが祝福されるかどうかは、イエス様次第です。
・・・ただし、イエス様を主とするならです。イエス様を自分と主とする者は恵みを受け、救われます。イエス様を自分の主人として、受け入れるとき、私たちは、自分次第の人生をやめて、私たちの主人であるイエス様次第の人生を始めることができる。
自分が、自分の主人である限り、自分のしたことは、自分で責任を取らなければなりません。自分次第の人生です。
しかし、イエス様を自分の主人として、受け入れるなら、しもべである私がしたことのすべての責任を、主人であるイエス様が取ってくださる。
それだけではなく、イエス様は、主人であったにもかかわらず、しもべである私と全く同じ人となってくださり、私の代わりにすべてを成し遂げてくださった・・・主人であるイエス様が努力し、達成したことを、私が達成したことにしてくださる。
・・・これが、恵みです。これが、イエス様が私たちのために実現してくださった恵みです。
・・・この恵みのゆえに、私は祝福されています。私次第ではなく、私の主であるイエス様次第で、祝福されています・・・これが、キリストについてのことばです。イエス様が私たちのために、実現してくださった恵みのことば・・・それが、キリストについてのことばです。
イエス様が私のために実現してくださった恵みによって、もはや、自分次第ではなく、イエス様次第にしてくださったんだ・・・この恵みのことばを素直に受け入れると、私たちは、恵みの上にさらに恵みを受けます。
ヨハネの福音書 1章16節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
私たちは、恵みのことばを、子どものように素直に受け入れましょう。恵みのことばを素直に受け入れるとき、恵みの上にさらに恵みを受けます。
努力して、頑張って、勝ち取ろうとするのではなく、恵みのシャワーを浴びるようなイメージで、リラックスして、聞く方が、恵みを受け入れやすいです。
聞けば、恵みを受ける・・・ということは、今、恵みのことばを聞いている私は、今、恵みを受けているんだ・・・イエス様、感謝します。
・・・子どものように、素直に、受け入れるとき、恵みを受けます。
キリストについてのことばを聞けば、心の目と耳は開かれる・・・イエス様、今、聞いている私の心の目と耳を開いてくださる、と、感謝します・・・子どものように素直に受け入れるとき、心の目と耳が開かれていきます。
恵みのことばを聞くなら、私の今日は、私次第ではなく、イエス様次第になる・・・イエス様、感謝します。・・・子どものように素直に、受け入れる、と、
今日、このことが、どっちに転んでも、イエス様次第だから、大丈夫・・・イエス様、すべてを働かせて、益としてくださることを、感謝します。私は、今日も、イエス様、あなたに信頼して、あなたについていきます。・・・感謝と信仰をもって、一日を始めることができます。
しかし、恵みのことばを聞かなければ、私の今日は、私次第だと思ってしまいます。
自分次第だと思う心、それは、自分は自分のものだと思う心です。自分の主人が自分だと思う心が、自分次第だと思わせるのです。
しかし、私たちの主人は、イエス様です。私たちは、イエス様のものです・・・イエス様のものである私たちの人生は、イエス様次第です。
しかし、キリストについてのことばを聞かなければ、心の目と耳が閉じたままです。
主人であるイエス様が見えない・・・主人であるイエス様が見えないと、私は、私を自分の主人にするしかないので、自分次第の一日を始めることになってしまうのです。
ですから、キリストについてのことばを聞いて、一日を始めましょう。
17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
キリストについてのことばを聞いて、心の目と耳が開く、と、イエス様を見えるようにされます。
キリストについてのことば聞くとき、イエス様の口から、私の今日についてのことばを聞いて、イエス様次第の一日を始めることができます。・・・これがディボーションです。
ディボーションの時間は、ただ聖書を読んでお祈りする時間ではありません。
イエス様と一対一で、個人的に出会い、親密な交わりを持つ時間です。
イエス様と顔と顔を合わせて、イエス様の口から出る一つ一つのことばを聞く時間、それがディボーションの時間です。
聖書から、神様のことを勉強しえ、願い事を言う時間ではなく、イエス様とのリアルな交わりを体験する時間であり、イエス様の口から出ることばを聞くことによって、神のみこころを行う力と知恵を受け取る恵みの時間です。
イエス様、愛します。イエス様、今、あなたが、私に語りかけてくださる、ことばに従います。・・・そのように、イエス様を愛し、従う心で、ディボーションの時間を持つとき、ますます、恵みのことばが聞こえて来るのです。
皆さん、想像してみてください。
今、キリストについてのことばを聞いています。心の目と耳が開かれます。
今、あなたの前に、イエス様が立っておられます。あなたの前に立っておられるイエス様は、愛をもって、優しく、あなたに語りかけ、あなたに必要な癒し、満たし、力すべてを与えてくださいます。
そのように、イエス様とのリアルな交わりを体験する、ディボーションをしてから、一日を始めるとき、イエス様次第の一日を始めることができます。
今日から一週間だけでも、自分次第ではなく、イエス様次第の一週間を生きるとき、来週、私たちは、どうなるでしょうか・・・この希望をもって、一週間、イエス様と共に歩みましょう。
必要なことは、ただ一つです。キリストについてのことばを聞くだけです。
聞けば、心の目と耳が開きます。聞けば、信仰が生まれます。聞けば、イエス様次第の人生を歩むことができます。
イエス様、聞かせてくださって、感謝します。イエス様、聞く私の心の目を開いてくださり、感謝します。イエス様、聞く私の人生を、イエス様次第の人生に導いてくださることを感謝します・・・感謝をもって、キリストについての恵みのことばに、耳を傾けましょう。
この恵みのことばを、私たちに聞かせるために、イエス様は、天から下って、私たちの所まで来てくださいました。
私たちが頑張って、天まで聞きに行く必要はありません。イエス様は、もうすでに、私たちのところに来てくださいました。
イエス様は、今も、私たちに恵みのことばを語りかけてくださいます。子どものように素直に、聞いて受け入れるなら、恵みの上にさらに恵みを受けます。
今、恵みのことばを、自分に対するイエス様のことばとして、聞きましょう。
あなたの目の前に、今、イエス様は立っておられます。イエス様は、あなたを愛するゆえに、あなたに、語りかけてくださいます。
黙示録3:20
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

