【339】2026/4/12 主日礼拝 『神の力が働く祈り』 ヤコブの手紙<5:15~16> 斉田基牧師
15-16節
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
ここでは、信仰による祈りと、正しい人の祈りという、二つの祈りが出て来ますが、この二つの祈りは一つの祈りです。・・・正しい人の祈りは、信仰による祈りです。・・・ですから、正しい人が信仰を働かせて祈ると、神の力が働き、病んでいる人を救う、ということです。
ローマ人への手紙 1章17節
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
正しい人、すなわち、義人は信仰によって生きます。すなわち、義人にとって、信仰は、前に進ませるエネルギー、ガソリンのようなものです。
車はガソリンによって、進みます。義人は信仰によって進みます。
義人は、信仰によって力を得て、前進するので、神のことばを聞く度に、「アーメン。アーメン。アーメン。主イエスよ。その通りです。神のことばは、私にも、必ず、実現します。」と、信仰の力を受けて、前に進みます。
義人にとって、神のことばを聞くことによって始まる信仰が、前に進ませる力です。
義人は信仰によって生きますが、罪人は肉の欲のままに生きます。すなわち、罪人にとっては、自分の欲望が、前に進ませる力です。
義人にとっては、信仰が力ですが、罪人にとっては、信仰は、自分の欲望を束縛する鎖のようなものです。
ですから、罪人が信仰に生きようとするなら、自分の欲望を抑えなければなりません。自分の欲望を抑えて、信仰に生きよう、信仰に生きようとするので、疲れます・・・ついには、我慢できなくなって、爆発します。
だからこそ、信仰によって生きようとする前に必要なのは、イエス様が、私を義人としてくださった救いの良い知らせ・・・福音の恵みを信じることです。
福音には、神の義が啓示されていて・・・とあるように、イエス様が私たちを救ってくださった良い知らせ・・・福音のみことばを聞くと、信仰が始まります。
私のために、イエス様が、どんな良いことをしてくださったのか、イエス様のおかげで、私はどんな良いものにされたのか・・・この良い知らせを、知れば、知るほど、信仰の力を受け、信仰から信仰へと進ませるのです。
ローマ人への手紙 5章18-19節
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
一人のイエス・キリストの義の行いによって、すべての人が義と認められ、永遠のいのちが与えられます。・・・一人のイエス・キリストの従順によって、主イエスを信じ、受け入れた私たちは、義人とされました。
イエス様が私のためにしてくださった義の行い、イエス様が私の罪のために、十字架の死に至るまで、神のみこころに従われた、イエス様の従順によって、イエス様を信じ、受け入れた私は、義人とされた・・・この神のことばを、そのまま受け入れるとき、信仰が、私の力になります。
罪人の私として、みことばを聞くと、信仰は、私の欲望を束縛する鎖になります。
しかし、イエス様の恵みによって義人とされた私として、みことばを聞くと、「アーメン。主イエスよ。その通りです。神のことばは、私にも、実現します。」と、信仰が、私の力になります。
罪人として、みことばを聞くと、ああ、きっと、神様も、こんな私の祈りには答えてくださらない・・・そのように、自分を罪人と思い込んでいると、信仰が働きません。
自分を罪人だと思い込んでいる私の思いが、真理ではありません。真理は、神のことばだけです。聖書を神のことばが、何と言っているのかを、信じることが、大切です。
自分は罪人だと思う、自分の思い込みを信じるのではなく、聖書が、何と言っているかを信じる、聖書信仰が大切です。
聖書が、イエス様を信じ、受け入れた私は、イエス様と一つにされた義人だと言うなら、「アーメン。主イエスよ。私を義人にしてくださって、感謝します。イエス様、私のうちに住んでくださって、感謝します。」と、聖書をそのまま受け入れるとき、信仰が、私の力になります。
聖書は、イエス様が罪人の私たちと一つになって、十字架で死んでくださり、私たちと共に復活してくださったことによって、私たちを、イエス様と同じ神様の子ども、義人にしてくださったと、語っているので・・・そのまま、受け入れることです。
イエス様のおかげで、義人とされた恵みを受け入れないまま、ただ、信仰によって、生きよう。信仰によって生きよう。と、するなら、調子が良い時はよくても、調子が悪い時、罪を犯してしまうとき、私たちは、どうしても、自分のことを罪人だと思います。・・・自分が罪人だと思い込んだ瞬間、私たちは、信仰の力を失います。
自分が罪人だと思い込んだ瞬間、神のことばを聞いても、「アーメン。主イエスよ。神のことばは実現します。」と言えなくなります・・・罪人に実現するのは、のろいと死の裁きです。・・・自分が罪人だと思い込んだ瞬間、神のことばが実現してもらっては、困るようになるのです。
だからこそ、自分が自分のことをどう思うかではなく、聖書が、自分について、何と言っているかを、そのまま、受け入れることが大切です。
私が正しいことを行えば義人になり、罪を犯せば罪人になる。私の行い次第で、罪人になったり、義人になったりする・・・そんなことを、聖書は、言っていません。
私の行いとは関係なく、もし、私が、イエス様を、救い主として、受け入れるなら、イエス様の義の行いのゆえに、私は義人とされる・・・これが、聖書が言っていることです。
しかし、多くの人は、聖書が言っていることよりも、過去に自分が犯した罪、今、自分が犯している罪などを見て、いや、私は、まだ、罪人です、と言います。
これは、聖書信仰ではなく、自分の言葉を信じる、自分信仰です。
イエス様を信じ、救われた人が、罪人だと、言っている聖書のことばは、一つもありません。
聖書が何と言っているか、だけを、信じる人は、たとえ、自分が罪を犯したとしても、イエス様が、その罪のために、ご自分の死をもって償ってくださったことのゆえに、私は赦しを受け、義人とされた・・・聖書が言っていることを、そのまま、受け入れます。
聖書が何と言っているか、だけを信じるとき、罪を犯した時にも、イエス様の十字架の赦しの恵みによって、義人とされた私の祈りには、神様が答えてくださる、という、信仰によって祈ることができます。
だからこそ、聖書に書かれている、神のことばを、そのまま受け入れて、信じることが、大切です。神のことばに、つけ加えることなく、省くことなく、そのまま受け入れるとき、私たちは、神のことばを悟る恵みを受けます。
聖書に書かれている通り、「イエス様の十字架の死と復活によって、私はイエス様と一つにされた義人なんだ」と、そのまま、受け入れるとき、私たちは、信仰によって生きるようになります。義人は、信仰によって生きるからです。
ある牧師先生は、中学生の頃から、ポルノ中毒に悩まされていました。
牧師になったのに、結婚もしたのに、やめることができない。
信仰だ。祈りだ。悔い改めだ。思いつくこと、すべてやりました。・・・それでも、やめられない。
深刻に悩みました。自分の努力では、どうにもならなかったので、カウンセリングまで受けましたが、それでも、やめられなかった。
そんなときです・・・彼は、聖書が何と言っているかを、そのまま、受け入れる、恵みのメッセージを聞きました。聖書を事実、その通り、神のことばとして、受け入れる、恵みのメッセージを聞いて、聞いて、聞いたとき、彼の内側に変化が起こり始めました。
恵みのみことばを聞く度に、信仰が湧き上がって来るのです。
それまで彼は、罪を犯す度に、自分は罪人だ。自分は、まだ、罪人だと思い込んでいました。
ですから、罪を悔い改めて、祈りったり、努力することによって、罪を犯さないようにしよう、正しい人になろうと頑張っていました。
・・・しかし、聖書は、彼が頑張る必要はないのだと・・・彼が頑張っても、どうにもならなかったからこそ、イエス様が彼のために全部、してくださったのだと言うのです。
イエス様が、罪人の彼と一つになって、十字架で死んでくださり、彼とともにとよみがえられたことによって、今や、彼は、イエス様と一つにされ、義人とされた・・・
恵みのみことばを聞けば聞くほど、聖書が何と言っているかを、そのまま、受け入れる信仰が彼のうちに湧き上がって来ました。
それまで、彼は、聖書ではなく、自分ばかりを見ていました。自分の行いによって、今日は良い人、今日は罪人・・・そのように自分次第の信仰、自分信仰で生きていました。
しかし、聖書のことばを、そのまま、受け入れれば、受け入れるほど、
「アーメン。アーメン。アーメン。主イエスよ。その通りです。イエス様がご自分の死によって償ってくださったのは、私の過去の罪だけでなく、現在の罪、未来の罪、すべての罪の赦しのためでした。
イエス様のおかげで、私のすべての罪は赦されました。イエス様のおかげで、私はイエス様と一つにされ、今や、イエス様が私のうちに生きてくださる。イエス様、感謝します。」
・・・そのように、聖書のことばを、そのまま受け入れる度に、イエス様に対する、感謝と信仰が湧き上がるようになりました。
皆さん、彼は、聖書のことばを、そのまま受け入れることによって、それまで、あらゆる手を尽くしても、やめることができなかった中毒から、解放されました・・・彼は、ただ、聖書が何と言っているかを、そのまま、受け入れただけです。
聖書が、何と言っているかを、そのまま受け入れるとき、神のことばを悟る恵みを受けるのです。
かつて、彼が、自分は罪人だと思い込んでいた時には、彼のうちに、罪の力が力強く働きました。彼のうちに働く罪の力があまりにも強くて、やめることができなかった・・・しかし、聖書が言う通り、イエス様の十字架の死と復活によって、イエス様と一つにされた、今や、イエス様が私のうちに生きておられるという、聖書信仰が与えられたとき、彼は、罪の力から、解放されました。
聖書が言う通り、イエス様のおかげで、イエス様と一つにされた義人だという聖書信仰が与えられたとき、信仰の力が、彼のうちに働くようになりました。
神のことばを聞く度に、「アーメン。アーメン。アーメン。主イエスよ。その通りです。イエス様が私のうちに生きておられるので、神のことばは、私にも、必ず、実現します。」
そのように、神のことばを聞く度に、彼のうちに信仰の力が働き、彼は信仰から、信仰へと生きるようになり・・・そのときから、彼が、病人に手を置いて祈ると、癒しが起こるようになりました。
15-16節
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
皆さん、彼は、自分の行いによって、罪人になったり、正しい人になったりする、自分次第の信仰をやめることができました。その代わりに、イエス様が、彼のために何をしてくだったかによって生きる、イエス様次第の信仰に生きるようになりました。
それは、彼が、聖書が何と言っているかを、そのまま受け入れる恵みのメッセージを聞いて、聞いて、聞いたときに、聖書の神のことばを、そのまま信じる、聖書信仰が与えられたからです。
私たちも、聖書が何と言っているかを、そのまま受け入れましょう。
信仰は、神のことばを聞くことから始まります。
いや、家族が、私について、こう言っているから、私はこういう人だと言うなら、それは、家族の言葉信仰です。
いや、私は、過去に、こんなことをしてしまったから、いや、私は今もこうだから、私はこういう人だと言うなら、それは、私の言葉信仰です。
そうではなくて、聖書の神のことばが、私について、こう言っているので、私は、こういう人です。・・・この聖書信仰を持ちましょう。
人が何を言ったとしても、神のことばが、こうだと言うなら、アーメン。主イエスよ。その通りです。と、神のことばに生きることを選ぶ。
たとえ、自分が、そうだ、と、思えなくても、神のことばが、そうだ、と、言うなら、「アーメン。主イエスよ。その通りです。」と、神のことばに生きることを選ぶ・・・これが、信仰を働かせて、生きることです。
信仰は、働かせるとき、大きな力があるのです。
15-16節
信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
正しい人が信仰を働かせて祈ると、大きな力があります。
この力とは、ダイナマイトの力です。ダイナマイトの力は、働かせて、爆発させなければ、何の力もありません。
信仰も同じです。信仰は働かせなければ、何の力もないのです。
どうすれば、信仰を働かせることができるでしょうか。
信仰は、神のことばを聞くことから始まります。
信仰を働かせるとは、神のことばを思い巡らすことです。神のことばを思い巡らす・・・それは、自分の心に、神のことばを聞かせ続けること・・・信仰が始まり続けること・・・信仰が働き続けることです。
義人が信仰を働かせて祈ると、大きな力がある・・・すなわち、イエス様の義の行いによって、義人とされた私たちが、神のことばを思い巡らして祈り、信仰を働かせると、大きな力がある・・・私たちは、神のことばを思い巡らして、信仰を働かせて、祈りましょう。
信仰による祈りによって、大きな力が働くまで、神のことばを思い巡らして、祈りましょう。

