【333】2026/3/1 主日礼拝 『力を受ける信仰』 マルコの福音書<5:25~34> 斉田基牧師

 

34節
 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

イエス様は、この女性に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
イエス様が、「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われた、彼女の信仰とは、どんな信仰だったのでしょうか。
27-30節
 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
  「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
  イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

イエス様のうちから力が出て行ったとあるように、彼女の信仰は、その信仰によって、神様の力を受けることができる信仰でした。
彼女が信仰によって受けた神の力は、彼女の心に平安を与えるだけではなく、彼女の病気をも癒しました。

今日、私たちにも、彼女のように、心にも、体にも、神の力が働く信仰が与えられることを主イエスの御名によって、祝福します。

彼女は、どのようにして、神の力が働く信仰を持つようになったのでしょうか。
彼女は、イエスのことを聞き、とあるように・・・彼女は、このときまで、イエス様に、直接、会ったことがありませんでした。・・・彼女は、人から、イエス様のことを聞いただけで、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」という信仰を持つようになった・・・ということです。

皆さん、彼女は、神の力が働く信仰を手に入れるために、弟子たちのように、イエス様から直接、弟子訓練を受けたわけではありませんでした。
また、イエス様に会って、「ああ、イエス様は、信頼できるお方だ」と、自分で確かめたので、その信仰を持つようになったわけでもありませんでした。

彼女は、この時まで、イエス様に会ったことがありませんでした。彼女は、ただ、イエス・キリストについてのことばを、人から聞いただけでした。
ローマ人への手紙 10章17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

イエス様についてのことばを聞いたとき、彼女は、その信仰を持ったのです。しかし、イエス様についてのことばを聞いた人すべてが、その信仰を持ったわけではありませんでした。
彼女の聞き方が、他の人とは、違ったということです。

ですから、もし、彼女のような聞き方をするなら、私たちも、彼女のように、神の力が働く信仰を持つようになります。
今日、初めて、イエス様についてのことばを聞く人でも、彼女のように聞くなら、神の力が働く、信仰を持つことができます。

彼女は、イエス様についてのことばを聞いたとき、「ああ、イエス様は、あの人に良くされたんだ。」・・・と、他人事として聞いたのではなく、「あの人に良くしてくださったイエス様は、私にも良くしてくださるかもしれない。」・・・そのように、自分のこととして聞きました。

彼女は、あの人に働いたイエス様の力は、私にも働くかもしれないと、思ったとき、そのことを、何度も、思い巡らし始めました。

あの人の病気を癒してくださったイエス様は、私の病気も癒してくださるかもしれない。・・・いや、イエス様なら、きっと癒してくださる・・・いや、むしろ、イエス様の衣にふれるだけでも、私は救われる・・・
そのように、彼女は、イエス様についてのことばを、何度も、思い巡らすことによって、聞くことから始まる信仰が、ますます、強くされたのです。

彼女は、イエス様は癒してくださると、漠然と、信じただけではなく、それを何度も思い巡らしながら、イエス様は、どんな方法で、癒してくださるだろうか。こうかな。こうかな。いや、こうかもしれない。そのように、イエス様についてのみことばを、何度も思い巡らす中で、
「あの方の衣に触れれば、私は救われる」という具体的な信仰の行いが示されました。
そして、示された通り、イエス様の衣に触れたとき、彼女は、その信仰によって、神の力を受け癒されました。

みことばを漠然と信じるのではなく、彼女のように、何度も思い巡らすことによって、神の力が働く信仰を受け取る時間が、ディボーションの時間です。

ディボーションの時間には、主は、今日、私に、どんな方法で、このみことばを実現してくださるのかということを、思い巡らすことが大切です。
そのために、私は何をしたらいいですか、主よ、私に分かるように、教えてくださいと、祈りながら、何度も、みことばを思い巡らしながら、主から、教えてもらうことに集中することが大切です。

ある姉妹は、小学生のときに救われて間もなく、ディボーションの大切さを教えてもらいました。
彼女のお父さんは、すぐに手が出る、足が出る、木刀まで出る人でした。・・・彼女は、いつもあざだらけでした・・・
両親が喧嘩すると、ご飯も食べることができませんでした・・・さらに、エスカレートすると、真冬でも、夜中でも、関係なく、家から追い出されました。
その頃の彼女のディボーションノートに書かれた、祈りの課題の多くは、「自分を愛せるようにしてください」でした。
・・・彼女は、みことばを思い巡らして、祈ることを通して、神様の愛を体験し、神様の力が働く信仰を持つようになりました。

彼女のように、ディボーションノートを作ると、祈りに答えて、神様が私の人生にしてくださる恵みが、ますます、はっきりと見えるようになります。

中学生になった、彼女は、日曜日に教会に行こうか、行かないかで、悩みまました。
教会に行くのは彼女だけで、家族から反対されていました。特に父からは、「おまえは洗脳されている。おまえが反抗的なのは、教会のせいだ」などと、激しく反対されました。
元気な時はともかく、部活で疲れたり、嫌なことがあったりすると・・・こんなに大変な思いをしてまで、教会に行かなければならないのか、と思いました。

それで、彼女は、「神様、今日は、教会に行きたくないです。」と正直に言って、祈りました。すると、祈ると、行きたいという思いが与えられてしまう・・・しかし、彼女は行きたくない・・・それで、「神様、どうしたらいいですか?教えてください」と祈って、聖書を開くと、詩篇のみことばでした。

そこには、「行け」、「行くな」というような、直接的な言葉は、ありませんでした。しかし、みことばを思い巡らして祈った中学生の彼女は、ディボーションノートに次のように書きました。

教会には何のために行くのか・・・1 人で祈るよりもみんなで祈った方が、神様は喜ぶし、祈りも聞いてくださる。1人で礼拝するよりも、神様の家族で礼拝する方が、神様は、どれほど喜ばれるのか、ということを、今日、この御言葉から教えられました。
そして、次の日のディボーションノートには、昨日、教会に行けて本当によかった。神様、感謝します。と、書かれていました。

彼女は、みことばを思い巡らして、祈る中で、神様は、彼女に、「教会に行きなさい」と命じるのではなく、彼女が、自分から進んで、教会に行くことができるように、彼女の心を整えて、やさしく導いてくださいました。

そのように、彼女は、ディボーションの時間に、神様に励まされ、愛される体験をしました。
みことばを思い巡らして、祈ることを通して、神様と会話することを学びました。
自分が祈ること以上に、彼女の祈りを聞いてくださるイエス様に集中することを学びました。自分でみことばを読む以上に、みことばを教えてくださるイエス様に集中することを学びました。
次第にディボーションの時間だけでなく、生活の中でも、イエス様と会話するようになりました。
彼女は、誕生日やクリスマスなど、お祝いの日が嫌いでした。お祝いの日には、必ずと言っていいほど、親が喧嘩したからです。
高校の卒業式の日にも、朝から勃発し、父は卒業式に来ませんでした。
周りはみんなは、両親に祝われて、幸せそうに見えました・・・なぜ、うちだけは、こうなのか、と、怒りが込み上げてきました。

彼女の友だちには、親が嫌いで、家出した友だちもいました。
卒業したら、自分も、家出てしまおうかとも思いました。

家に帰りながら、彼女は祈りました。
神様、こんな状況、嫌です。親と仲良くできない状況も嫌です。何よりも、イライラして、神様から、心が離れている私の状況も嫌です。
この怒り、どうすればいいですか。神様、どうか、私の心を治めてください。私はどうしたらいいですか。神様、教えてください。

そのとき、神様は、明確にみことばで答えてくださいました。
『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまで(赦しなさい)。』(マタイ18:22)

聖書を開いてもいなかったのに、ここまで明確に、みことばが示されたのは、彼女にとって初めての体験でした。
しかし、彼女は、絶対に赦したくなかった・・・今まで、散々傷つけられた・・・赦せない思いが湧き上がって来ました。

しかし、主は、「親のすべてを赦しなさい。あなたの方が悪くなかったとしても、まず、あなたが変わりなさい。あなたが受け入れなさい。まず、あなたの方から、親に謝りなさい。」
その時、彼女は、人生で初めて、面と向かって、「主よ、無理です。従えません。」と言いました。
「主よ、無理です。だって私、全然、悪くない・・・」
すると、主は、彼女に、親に対して言った悪口、親を敬わなかったことなど、思い起させ、そして、こう言われました。
「わたしは、あなたを赦した。あなたのすべてを赦した。」・・・彼女は、それ以上、何も言うことができなくなりました。

階段を上がれば、すぐに家の玄関でした。
「主よ、分かりました。私も謝らなければならないことは、分かりました。謝ろうとは思います。
でも、向こうの方が悪いんです。せめて、向こうの方から謝ってくれれば、私も謝りやすいです。主よ、そういう風には、できないですか。」

「今、言いなさい。今、言いなさい。あなたから先に謝りなさい。」

「今ですか。今じゃなければいけませんか。」・・・しかし、祈れば祈るほど、どんどん、彼女のうちに、主の思いが湧き上がって来ます。
しかし、自分の思いを見ると、絶対に赦せない。無理。従えない。
しかし、祈ると・・・「今、謝りなさい。大丈夫。わたしに信頼しなさい。わたしの言う通りにしなさい。」

ついに彼女は、降参しました。親のすべてを赦して、一言も責めることなく、ただ、謝りました。
そこから、親子の関係の回復が始まりました。まず、母が救われ、そして、ついには、父が救われました。

皆さん、彼女は、イエス様と会話する祈りを通して、彼女も、彼女の家族の人生も変えられました。
彼女は、みことばを思い巡らして、祈ることで、イエス様と会話することを、日々のディボーションを通して、学びました。

私たちも、日々のディボーションを通して、イエス様と会話することを学びましょう。
ディボーションは難しくありません。
まず、聖書を読んで、小さなことでも、教えられたことを、ノートに書きます。
「忠実」とか、「赦し」とか、一言でいいので、教えられたことを書きます。・・・そして、教えられたみことばを思い巡らしながら、「主よ、従います」と祈るまでが、ディボーションです。

みことばを思い巡らすこと以上に、みことばを教えてくださる主に集中することが大切です。
主から直接、みことばを教えてもらうことが大切です。
主から教えられたみことばを思い巡らしながら、祈るとき、神の力が働く信仰が与えられます。

みことばを思い巡らして、祈るとき、主の声が聞こえるようになります。
そのように、日々のディボーションで、みことばを思い巡らして祈っていると、生活の中で、
「主よ、この思いは、神様からの思いですか?この出来事は、主からのものですか?教えてください。」と、短く祈るだけでも、主の御声が聞こえるようになっていきます。

最初は、主の御声に従うなど、絶対に嫌だと思うことがあっても、
主に教えられたみことばを思い巡らしながら、祈れば祈るほど、主の御声に聞き従って進んだ先にある祝福が見えるようになり、主の御声に聞き従うことが喜びになります。

ですから、主からみことばを教えてもらうための時間、ディボーションの時間を大切にしましょう。
みことばを思い巡らして祈ることに、集中できる環境、主との会話、主との交わりに集中できる環境を整えて、ディボーションの時間を持ちましょう。