【331】2026/2/15 主日礼拝 『忠実な管理者』 ルカの福音書<16:1~13> 斉田基牧師

 

8-9節
 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
  わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

不正な管理人は、不正の富で、人々を助けて、自分のために友をつくろうとしました。それは、主人に、彼の不正がバレて、もうすぐ彼は仕事を失うことになったからです。
ですから、彼は、たとえ、自分が仕事や財産を失ったとしても、自分のことを、本当に助けてくれる友をつくろうとしました。

お金の切れ目は、縁の切れ目と言って、自分を見捨てるような友だちではなく、たとえ、自分が仕事や収入を失っても、自分を助けてくれる人々を確保しようと、彼は、考えました。
彼は、自分の未来について考え、賢く行動しました。

逆に、放蕩息子は、自分の未来について考えて、財産で、人を助けようとはしませんでした。ただ、今を楽しんで、財産を湯水のように使い果たしました。その結果、財産を失った放蕩息子を助ける友は、誰もいませんでした。

不正な管理人が、自分の未来を考えて、不正の富で、人々を助けたことを、主人は、賢く行動したとほめました。また、イエス様も、不正の富で自分のために友をつくりなさい。と言われました。

ですから、不正の富で、人を助けることによって、自分のために、天に富を蓄えること自体は、良いことです。しかし、大切なのは、良いことであっても、その良いことを信仰によって行うことです。みことば通りに、神様を信じて、期待する信仰によって、その良いことを行うことが大切です。
Ⅰテモテの手紙 6章17-19節
 今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、
 善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、
 来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。

富にではなく、神様に信頼して、自分の未来のために、人々に善を行い、喜んで分け与え、天に富を蓄えることは、神様のみこころです。
しかし、大切なのは、みことば通りに、神様に望みを置いて、神様に信頼する信仰によって、行うことです。その信仰を、不正な管理人は持っていませんでした。
不正な管理人が、不正の富で、人々を助け、自分のために友をつくろうとしたこと自体は、賢い行動だったので、イエス様もほめられました。
しかし、不正な管理人には、神様が、彼にすべてを与えて楽しませてくださると、神様に信頼して、神様の報いに期待する、信仰がなかったのです。
彼が人々を助けたのは、人々に助けてもらうためでした。彼は、人々の報いに期待していました。彼は、神様の報いに期待する信仰を持っていませんでした。
へブル人への手紙 11章6節
  信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

信仰がなければ、神様に喜ばれることができません。神様に喜ばれるためには信仰が必要です。
みことば通りに、神様に信頼し、神様の報いに期待する信仰が、今日、私たちに、与えられることを、主イエスの御名によって祝福します。
10-11節
 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。 

イエス様は、最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実だと言われましたが、ここで、イエス様が言われた小さなこととは、不正の富を管理することです。
小さなことである、不正な富を管理することにおいて、忠実な人には、大きなことであるまことの富をも任せられると、イエス様は、言われたのです。

不正な富とは、何でしょうか・・・不正な富とは、死んだら失われる、一時的な富です。天国にまでは持って行くことができない富です。 逆に、まことの富とは、死んでも失われることのない、天国にまで持っていくことができる永遠の富です。

ですから、おおよそ、富と呼ばれているものは、ほとんど、不正の富です。
しかし、その不正の富を忠実に管理することが、小さなことに忠実になることなのです。
今、自分に任せられている、不正の富を、信仰によって、忠実に管理するなら、主は、まことの富をも任せてくださいます。ですから、私たちは、今、自分たちに任せられている富を、信仰によって、忠実に管理しましょう。

富というと、お金のことばかりを思い浮かべるかもしれません。お金も富の中の一部ではありますが、それがメインではありません。
事実、神様が一番最初に、私たち人間に、任せてくださった富は、お金ではありませんでした。神様が天地をお造りになったとき、お金はお造りにはなりませんでした。
神様が、私たち人間に管理を任せてくださった富とは、神様がお造りになった全世界と、世界に住むすべての生き物でした。・・・神様が私たち人間に任せてくださった富・・・すなわち、自然、動物、植物なども、人間が罪を犯すまでは、永遠に失われないまことの富でした。
ローマ人への手紙 5章12節前半
こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、

本来、神様は、私たち人間をはじめ、世界のすべてのものを、罪のないもの、死によって失われることのないもの、永遠の富、まことの富として造ってくださいました。
しかし、人間が罪を犯したことによって、罪が世界に入り、罪によって死が人間だけではなく、世界のすべての被造物に入りました。
私たちの罪によって、本来はまことの富であった被造物が、不正の富になってしまったのです。

しかし、私たちの罪によって、不正の富になってしまった被造物は、私たちの罪が贖われ、私たちが神の子として現れるときに、被造物も、まことの富として回復されるのです。
ローマ人への手紙 8章19-21節
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

私たちの罪によって、被造物にも死が入り、被造物は、死によって滅びる、不正の富になりましたが、私たちの罪が、イエス様によって贖われたことによって、私たちが神の子として現れるとき、被造物は、滅びから解放され、まことの富として回復されます。
だからこそ、被造物も、私たちが神様の子どもとして現れることを、待ち望んでいるのです。

私たちは、イエス様を信じて、受け入れたとき、神様の子とされました・・・しかし、神様の子とされることと、神の子として現れることは、意味が違います。

神の子として現れるとは、神の子として生きる生き方によって、神の子が証しされることです。
すなわち、私たちがイエス様のように愛に生きる生き方によって、イエス様が証されることです。

私たちは、主イエスを信じた時に、神様の子にされましたが、すぐにイエス様のように愛に生きるようになったわけではありませんでした。
イエス様のように、愛に生きる者として、私たちが変えられていくためには、日々の生活の中で、小さなことに忠実になる、私たちの信仰の従順が必要です。

今、自分に任されている小さなことを、忠実に管理する従順によって、イエス様のように愛に生きる神の子どもとして現わされていくとき、大きなことが任されるようになります。
ですから、私たちは、今、自分に任されている小さなことを忠実に管理しましょう。
自分に任されている、不正の富を、毎日、忠実に管理する者となりましょう。
10-11節
 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。 

最も小さなことに忠実なものは、大きなことにも忠実です。
しかし、自分に任された小さなことを忠実になりたい、と思っても、具体的に、どうすればいいか分からなくなるかもしれません。

そんな時にも、どうしても、必要なことは、ただ、一つだけです。主のみことばに耳を傾け、主のみこころを知ることを祈り求めることです。

ある兄弟は、両親を失い、物乞いをして生活していました。
しかし、ある日、伝道集会で、彼は、主イエスを信じました。その日、彼は、激しく聖霊様に満たされ、イエス様の弟子となる決心をして、人生をささげました。

彼は、物乞いをして貯めた全財産を交通費として使い、教会のある町まで行って、教会に住み込んで、弟子訓練を受けることになりました。

彼が、牧師に、キリストの弟子になりたい、と、お願いしたとき、牧師は、彼に、こう言いました。
「あなたは、今まで物乞いをして来たかもしれません。
しかし、今日から、あなたは神様の子です。もう、物乞いをしてはいけません。」

それを聞いて、彼はショックを受けました。彼は、物心ついた時から、物乞いをしてきました。物乞いをすること以外に、生きるすべを知りませんでした。

しかし、牧師は、「あなたは神様の子どもです。天のお父さんが、あなたを愛し、あなたの必要を満たしてくださいます。あなたは神様の子どもなのですから、人に恵みを求めてはいけません。神様に求めなさい。天のお父さんだけに、恵みを求めなさい。天のお父さんは、子であるあなたを愛しておられます。あなたが求めるなら、天のお父さんは、良いものをいっぱい与えてくださいます。だから、もう、物乞いをやめなさい。」

それを聞いて、彼はショックを受けましたが、それと同時に、内側から、感動が湧き上がりました。「ああ、僕は、もう乞食じゃない。神様の子どもなんだ。僕は、天のお父さんに愛されている、神様の子どもなんだ。」
彼は、みことばを悟る恵みを受けました。みことばを通して、自分が神様の子どもとして愛されていることを悟る恵みを受けた彼は、その日から、小さなことを忠実に管理しました。
その日から、物乞いとして、人に恵みを求めることをやめて、神様の子どもとして、父なる神様に求めることを始めました。
その日、彼は、何も食べることができませんでした。次の日も、その次の日も、そのまた次の日も何も食べることができませんでした。・・・しかし、ついに、6日目に、彼は、神様から、祈りの答えをもらいました。
彼は、みことばによって、自分に示された、ただ一つの小さなことに忠実になることを選び続けたのです。その結果、小さなことに忠実になるなら、主は必ず、報いてくださるという恵みを体験しました。・・そして、彼は、その恵みに、とどまったのです。
「僕は、神様に愛されている、神様の子どもだから、人に恵みを求めるのではなく、僕のお父さんである神様に恵みを求める。」
・・・そのように、必要な恵みをいつも、神様に求めて受け取り、そして、受けた恵みを感謝して、人々と分かち合いました。彼は、自分に任された小さな恵みを忠実に管理したのです。

その結果、収入のなかった彼の必要を、主が満たし続けてくださり、彼は、イエス様のことを伝え続けることができました。
交通手段がなかった彼の祈りに答えて、神様は、バイクを与え、自動車を与え、現在、彼は9つの教会を開拓して、牧会の働きをしています。

彼は、みことばを悟る恵みを受けた時、その恵みにとどまりました。
みことばによって、自分に示された、ただ一つの小さな恵みを忠実に管理しました。
そのとき、彼は、神様の子どもとして現わされていき、イエス様のように愛に生きる者に変えられていきました。

私たちは、主イエスを信じたとき、神様の子どもとされました。しかし、私たちが、彼のように、神様の子どもとして現わされるためには、みことばを悟る恵みを受ける必要があります。
彼のように、イエス様の愛に生きる者に変えられるためには、私たちも、彼のように、みことばの恵みにとどまる必要があります。

イエス様が、私たちの罪のために死んで、よみがえられたことによって、私たちは、今すでに神様の子どもとされました。
イエス様と共に十字架につけられたとき、彼の物乞いとしての人生を、イエス様が終わらせてくださったように、罪を犯してしまう私たちの罪人としての人生を、イエス様が終わらせてくださいました。

イエス様は、彼の物乞いとしての人生終わらせるだけではなく、復活によって、神の子としての人生に導いてくださったように、私たちをもイエス様のように愛に生きる人生に導いてくださる。この恵みを、みことばから悟って、その恵みにとどまるのです。

彼は、みことばによって、自分に示された恵みを忠実に管理しました。多くの人が、彼のように恵みを受けはします。しかし、その後が大切です。私たちは、彼のように、受けた恵みを忠実に管理することを選びましょう。
今この時に、みことばに耳を傾けて、主のみこころを悟ることを祈り求めましょう。