【319】2025/11/16 主日礼拝 『恵みを受ける聞き方』 エレミヤ書<7:1-10> 斉田基牧師
1-2節
主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。
神様は、「礼拝するために来たすべての人に、このことばを叫びなさい。」と命じました・・・ですから、このことばは、礼拝するために来た、私たちに対する、神様のことばでもあります。
3節
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
「あなたがたの生き方と行いを改めよ」・・・
皆さん、「生き方と行いを改めなさい」という主のことばは、どのように聞こえるでしょうか。
・・・聞き方によっては、恵みを受けることもあれば、受けないこともあります。
しかし、少なくとも、神様が私たちに願われていることは、私たちすべてが、恵みを受けることです。だからこそ、イエス様は、私たちに恵みを受けて欲しいと願って、 『聞いていることに注意しなさい。』(マルコ4:24) 『聞き方に注意しなさい。』(ルカ8:18) と言われました。
イエス様が、「聞き方に注意しなさい」と言われたのは、聞き方に注意するなら、恵みを受けることができるからです。・・・それでは、どのように、注意すればよいでしょうか。
まずは、誰が教える、ことばとして聞くかに、注意することです。
同じ聖書のことばでも、律法学者が教えるのと、イエス様が教えるのとでは、全然違います。
もし、神のことばを、律法学者が教えるなら、当然、律法的に聞こえます。
律法学者は、神のことばを、次のように教えるからです。
マタイの福音書 23章2-4節
「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。
また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。
律法学者から、神のことばを教えられるなら・・・「こうしなければならない。ああしなければならない。こうしたらダメ。ああしてはダメ、ダメ、ダメ・・・」 ・・・ああ・・・もう無理です・・・私にはできません。」・・・そのように、重すぎる重荷を負わされることになります。
しかし、イエス様から、神のことばを教えられるなら、イエス様が、その人の重荷を取り除いて、休ませてくださる・・・恵みを受けます。
マタイの福音書 11章28-29節
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
恵みを受ける聞き方は、今、私が聞いている神のことばを、イエス様が、私に、教えてくださっている・・・この信仰で、神のことばを聞くことです。
「今、聞いている、みことばを、私は、イエス様から学びます。」・・・この信仰で、「イエス様、どうか、教えてください。」と祈りながら、みことばを聞くことです。
自分で聖書を読むときも、「イエス様、私は、今、あなたから、学びます」・・・この信仰で、「イエス様、どうか、私に教えてください。」と祈りながら、聖書を読みます。
これが、注意すべき一つ目のことです。・・・もう一つは、私が、誰のように聞いているかに注意することです。・・・神のことばを、律法学者が聞くように聞くなら、大変なことになるからです。
例えば、4人の友人が、イエス様なら、病気で寝たきりの友だちを癒してくれると信じて、イエス様の前に連れて行こうとしましたが、大勢の人のために家に入ることさえできませんでした。
それで、4人の友人は、屋上に上って、屋根をはがし、床のままで、友だちを、イエス様の前に吊り下ろしました。
それを見た、イエス様は、彼らの信仰を見て、喜ばれ、「子よ。あなたの罪は赦された。」と言って、病気を癒してくださいました。
病気の友だちを大切に思う4人の友人の友情、また、長年の病気の苦しみから自由にされて喜び、さらに、「子よ。あなたの罪は赦された。」という恵みに満ちたイエス様のことばを聞いたなら・・・皆さんだったら、どうしますか?
「ハレルヤ!本当に良かったね。神様、素晴らしいね!」と喜んでいる人たちと一緒に喜んで、「私たちの神様は最高に素晴らしい。」・・・神様を賛美したくなるでしょう。
しかし、この出来事をそばで見聞きしていた律法学者は、「罪を赦したりする、このイエスという奴は、神を冒涜している。」 そのように、批判し、裁く思いになりました。
神のことばを律法的に聞くなら、恵みを受けることはできません。律法的に聞くなら、イエス様のことばを聞いても、裁き、批判する思いになってしまう。
ですから、神のことばを聞くときは、律法的に聞かないように気をつけましょう。律法的に聞くと、重すぎる重荷になったり、裁き、批判する思いになったりします。
聞き方に注意するとは、神様が、私にこのように聞いて欲しいと願われる通りに聞くことです。自分が聞きたいように聞くのではなく、神様が、このように聞いて欲しいと、願われる通りに聞くことです。
自分が信じたいように信じるのではなく、神様が、このように信じて欲しいと願われる通りに、神のことばを信じることです。
神は愛です。愛そのものである神様のことばは愛のことばです。神様が私たちに語られることばは、すべて、私たちを愛する故に、語られる愛のことばです。
そして、神のことばは、愛のことばというだけではなく、イエス様ご自身でもあります。
ヨハネの福音書 1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
人となって、私たちの間に住まわれた神のことば・・・それがイエス様です。イエス様は、恵みに満ちています。恵みに満ちたイエスが、神のことばです。
ですから、神のことばを、ただ聞くのではなく、このことばは、恵みに満ちたイエス様だと信じて、神のことばを聞くとき、恵みを受けます。
ヨハネの福音書 1章16-17節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
恵みとまことは、イエス様によって実現したとあるように、ただ、聖書を読むのではなく、聖書をイエス様として受け入れるとき、イエス様が、恵みを実現してくださる。
イエス様を受け入れた私たちに、聖書で約束されている恵みの約束、祝福の約束を、イエス様が実現してくださる。・・・これが、みことばを聞いて悟る、ということです。
みことばを聞いて悟るとき、イエス様が、みことばを私に行わせてくださる。
しかし、悟らなければ、イエス様が私にみことばを行わせてくださることが分からないので、自分で、みことばを行わなければならないと律法的に考え始めます。そして、「こうしなければならない、ああしなければならない」 と、自分で、自分に重荷を負わせます。
しかし、みことばを聞いて悟るなら、イエス様がみことばを、私に行わせてくださる・・・イエス様、感謝します。一体、どうやって、このみことばを私に行わせてくださるのでしょうか・・・このみことばが、私の人生に実現するなんて、最高に素晴らしい恵みです。
・・・そのように、期待しながら、イエス様と、お祈りで会話するようになります。
ですから、みことばを聞いて悟ることが大切です。それは、すなわち、神のことばを、今も生きているイエス様と信じて、心に受け入れることです。
へブル人への手紙 4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神のことばは生きています・・・神のことばは、生きておられるイエス様です・・・そして、神のことばには力があります・・・力ある神のことばを受け入れるとき、その神のことばの力で、神のことばを行わせてもらえるのです。
だからこそ、恵みを受ける聞き方とは、神のことばを、イエス様として受け入れることです。
恵みに満ちたイエス様として、神のことばを受け入れるとき、恵みの上にさらに恵みを受けます。
・・・ですから、神のことばをイエス様として受け入れることができるまで、神のことばにとどまりましょう。
聖書を読んで意味が分からないとき、神様、これは、どういう意味ですか。今日も、あなたは私に何かを語ってくださっているはずですが、よく分からないので、教えてください。・・・弟子たちのように、何度も、何度も、イエス様に聞いて、教えてもらうことです。
・・・群衆は、意味が分からなくても、教えてもらおうとしませんでした・・・しかし、弟子たちは、分からなければ、ある程度、納得できるまで、イエス様に教えてくださいとお願いして、教えてもらいました。・・・これが、神のことばにとどまること・・・弟子として聞くことです。
ヨハネの福音書 8章31-32節
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
神のことばにとどまるなら、真理を知る・・・真理とはイエス様です。・・・ですから、神のことばにとどまるとき、私たちは真理なるイエス様を知り、イエス様が私たちを自由にしてくださる・・・だからこそ、神のことばがイエス様であることを知るまで、祈りながら、神のことばにとどまる・・・これが、弟子として聞くことです。
イザヤ書 50章4節
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
弟子として聞くとは、神のことばにとどまって聞くことであり、
祈りによって、神のことばとの会話が成り立つほど、神のことばにとどまって、祈ることです。
「イエス様、みことばは、こう言っていますけど、本当ですか。現実問題として、無理です。不可能です。・・・・でも、あなたのことばですから、実現すると信じます。
しかし、どうすれば、このみことばは実現するのでしょうか。・・・私には理解できません。イエス様、どうか、私に教えてください。
・・・・このみことばを実現するために、私に何を行わせてくださいますか。
イエス様、教えてください。・・・え、今日、このことをするのですか。え、あの人にですか?・・・本当ですか!・・主よ、私の、この思い、この考えは、本当に、あなたからのものですか。私の勘違いではないでしょうか。本当に、間違いないですか。
主よ、分かりました。もう降参します。これが、あなたのみこころだと信じます。
しかし、主よ、私が、これを行うとき、大切なものを失ってしまうかもしれません。
主よ、それでも、私は、あなたのみこころに従うことを選びます。
どうか、主よ。私を助けてください。私が、最後まで、あなたのみこころに従うことができるように、私を励まし、慰め、力を与えてください。」
そのように、イエス様との祈りの会話が成り立つまで、神のことばにとどまりましょう。
神のことばによって祈る、イエス様との交わりを通して、私たちは、恵みの上にさらに恵みを受けます。
祈りが、イエス様との会話になるまで、神のことばにとどまるとき、聖書のすべてのことばが、愛のことば、恵みのことばになります。・・・今日のみことばもそうです。
3節
イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
8節
見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。
10節
そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。
神様は、生き方と行いを改めないまま生活する人に、役に立たない偽りのことばを頼りにしていると言いました。・・・偽りのことばとは、「生き方と行いを改めないままでも、私たちは救われている」ということばです。
・・・ちょうど、これと同じことを、バプテスマのヨハネが次のように言いました。
マタイの福音書 3章7-8節
ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
生き方と行いを改めることは、悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。
悔い改めにふさわしい実を結ばないまま、「私たちは救われている」という人に対して、
「それは、偽りだ。あなたは、迫りくる神の怒りから逃れることはできない。だから、悔い改めにふさわしい実を結んで、あなたがたの生き方と行いを改めなさい。」 と言ったのです。
これを聞いて、「ああ、私は、生き方と行いを改めることができない・・・もうダメだ」とは、思わないでください。・・・それは、イエス様が願われる聞き方ではありません。
私たちがすべきことは、悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。悔い改めにふさわしい実を結ぶと、生き方と行いを改めることができる・・・必要なのは、実を結ぶことです。
みことばを聞いて悟るなら、実を結びます。・・・ですから、悔い改めについての、みことばを聞いて悟るなら、悔い改めにふさわしい実を結んで、生き方と行いを改めることができる・・・これが、恵みを受ける聞き方です。すなわち、みことばを聞いて悟ることです。
多くの人は、律法学者のように、聞いたみことばを、自分で行わなければならない、と、思って、聞くので、
ああ、私が、頑張って、生き方と行いを改めなければならない。私が、こうしなければ、ああしなければと言って、自分に重荷を負わせます。
しかし、みことばを聞いて悟ると、私の生き方と行いを、イエス様が、私に改めさせてくださる。
皆さん、律法的に、神のことばを聞いても、信仰は生まれません。
信仰は、聞くことから始まりますが、聞くことは、キリストのことば・・・すなわち、恵みに満ちたキリストのことばとして、聞くときに、信仰は始まります。
聖書を読むだけでは、恵みに満ちたキリストのことばとして聞くことが難しいときがあります。
だからこそ、祈りましょう。・・・祈りが、神のことばとの会話になるまで、恵みに満ちたイエス様との会話になるまで、神のことばにとどまって、祈りましょう。
祈りによって、恵みに満ちたイエス様と会話し続けていると、私たちの思いや考えが、イエス様と同じ思いや考え方に変えられていきます。
私たちが、イエス様のように思い考えるようになれば、なるほど、ますます、みことばを聞いて悟り、実を結ぶようになります。
ですから、今週は、特に、互いに励まし合って、神のことばと会話する祈り、イエス様と会話する祈りにとどまりましょう。そのために、互いにとりなし祈り合いましょう。
私たちすべてが、今、私の祈りを、イエス様が聞いてくださっている、という恵みを受けることができるように・・・
イエス様が、祈りに答えて、神のことばを教えてくださる恵みを受けることができるように、
ただ、教えてくださるだけでなく、神のことばを行う力も、喜びも、イエス様が与えてくださったという、恵みを、私たちみなが受けることができるように、互いのために、とりなし祈りましょう。

