【314】2025/10/12 主日礼拝 『神の啓示』 マタイの福音書<16:13-19> 斉田基牧師

 

 

15-16節
 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
  シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

イエス様は、神の子・キリストである・・・すなわち、イエス様は、私の神様であり、私の救い主である・・・この真理が、イエス様を信じる私たちの信仰の土台であり、教会の土台です。
この真理を、私たちに明らかに啓示してくださるお方は、父なる神様です。
17-18節
 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
  そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

ペテロは、イエス様は神の子、救い主であるという真理を告白しましたが、その真理を、ペテロに明らかにしたのは、血と肉をもった人間ではなく、父なる神様だと、主イエスは言われました。
父なる神様が明らかに啓示してくださったイエス様についての真理・・・この真理こそが、教会の土台です。

イエス様が、「この岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われた、この岩とは、ペテロと言う血と肉をもった人間のことではありません。
教会の土台となる、この岩とは、父なる神様が、使徒ペテロに明らかに啓示してくださったイエス・キリストの真理です。・・・ペテロという人間が土台なのではなく、神様が、使徒ペテロに、啓示してくださったイエス・キリストの真理こそ、教会の土台であり、私たちの信仰の土台です。

人から聞いたイエス様ではなく、神様から啓示されたイエス様を知ることが必要です。
人々は、イエス様について、バプテスマのヨハネだ・・・いや、エリヤだ・・・いやいや、エレミヤだと・・・など、いろいろ言っていましたが、
イエス様は、弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞かれました。
それは、人間が、イエス様について証する人間の証しではなく、神様が、イエス様について明らかに啓示してくださった、イエス様の証しこそが、信仰の土台となるからです。
Ⅰヨハネの手紙 5章9節
  私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。
 
父なる神様が、神の御子イエス様について証されたことが、神様の証しです。
皆さん、自分の目で見て、体験したイエス様以上に、父なる神様が証されたイエス様を、信じ、受け入れることが必要です。
自分の目で見たイエス様、自分で体験したイエス様を信じるだけでは、不十分なのです。
私たちは、物事を、自分の見たいように見ます。自分が信じたいように信じます。
例えば、私に10人の知人がいて、その10人、一人ひとりに、斉田基という人は、「どういう人だと思いますか」と聞くなら・・・「ああ、あの人は、こういう人だと思います。」「いや、そんな人ではなく、こんな人だ。」・・・そのように、10人がみな、私に対して、全く同じ印象、全く同じ評価をすることはないでしょう。

同じイエス様を見た人たちも、バプテスマのヨハネのような人だ、とか、エリヤのような人だ、とか、いやいや、エレミヤのような人だ・・・など、イエス様に対する印象や評価は違いました。

たとえ、私たちが、今、自分の目でイエス様を見て、体験したとしても、それによって、イエス様を正確に知ることができるわけではありません。・・・正確に知るためには、神様から、イエス様がどんなお方か、を、啓示してもらう必要があります。

神様が啓示してくださったイエス様こそが、真理です。
ペテロは、神様からイエス様を啓示してもらったので、イエス様の真理を知ることができました。
ペテロと、同じようにイエス様の弟子となり、イエス様を自分の目で見て、体験した弟子たちであっても、神の啓示を受け取らなかった弟子たちは、イエス様に、つまずきました。
ヨハネの福音書 6章66-68節
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。
 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

この時、多くの弟子たちがイエス様につまずきました。
弟子たちは、イエス様の、何につまずいたのでしょうか・・・イエス様のことばに、でした。
このとき、イエス様は、福音の奥義を話していました。その奥義とは、イエス様と一つにされる十字架の奥義でした。
イエス様が、十字架のことばを話すのを聞いた、多くの弟子たちが、「こんなひどい話は、聞いていられない。」と言って、イエス様のことばにつまずきました。

しかし、そのように、多くの弟子たちがつまずいた、イエス様のことばを、ペテロは、永遠のいのちのことば、と、言ったのです。
イエス様のことばが、多くの弟子たちには、ひどい言葉に聞こえても、ペテロには、永遠のいのちのことばに聞こえた・・・同じ場所、同じ時間に、同じことばを聞いたにもかかわらず、なぜ、こんなにも違ったのか・・それは、神の啓示を受け取ったか、受け取らなかったかの違いです。

皆さん、同じ聖書を読んで・・・神の恵みを受ける人もいれば、何も感じない人もいます。同じメッセージを聞いて・・・救われる人もいれば、つまずく人もいます。・・・この違いも、神の啓示を受け取ったか、受け取らなかったかの違いです
神の啓示を受け取る人は、聖書のみことばを読んで、ああ、こういう意味かなぁ、そう言う意味かなぁと、解釈する必要がありません。神様が啓示してくださった、みことばの真理を、ただ、素直に信じて、受け入れます。解釈は必要なくなります。

しかし、神の啓示を受け取らなければ、聖書のみことばを解釈し始めます。
神の啓示を受け取らなかった弟子たちは、イエス様のことばを、自分で解釈し、間違って理解したので、ひどい言葉に聞こえたのです。

ですから、聖書を読むとき、神の啓示が必要です。神様から、啓示を受け取らなければ、神のことばを、自分で解釈し始めてしまいます。
Ⅱペテロの手紙 1章20-21節
 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。 
 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

聖書の神のことばは、神様に動かされた人たちが、神様から、啓示を受けて語った神のことばです。・・・私たちも、神様から、啓示を受けるなら、みことばの真理を知ることができます。

神様から、啓示を受け取って、みことばの真理を知ったペテロは、イエス様に、「あなたは生ける神の子キリストです。」と、確信をもって、断言することができました。
ペテロのように、神の啓示によって、真理を知った人には、信仰の確信が与えられます。

真理は、一つです。解釈なら、いっぱいあります。イエス様は、バプテスマのヨハネだと思う。いや、エリヤだと思う。もしかすると、エレミヤかもしれない・・・これは解釈です。しかし、真理は、イエス様は、生ける神の子キリストです。

また、真理は、変わらないものです。時代、国、文化、環境、人種、老若男女などに影響されて変わってしまうなら、それは真理ではありません。
「イエス様は、私のすべての罪のために身代わりになって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた。イエス様こそ、私の救い主、私の神です。」と、みことば通りに、心に信じて、口で告白する人は、みな、救われます。例外はありません。

・・・この真理は、どんなに時代が変わっても、国が変わっても、その人が良い人でも、どんな極悪人でも、すべての人に対して、変わらない真理です。この真理を信じるなら、誰でもみな、救われます。
ですから、真理を知った人は、揺るがされない信仰の確信を持つことができます。真理は変わらないので、「ああ、あの人にはそうでも、私にはそうではないかもしれない・・・」と、不安になる必要はありません。あの時の、あの状況では、大丈夫だったけれども、今の、この状況ではダメかも・・・」と、心配する必要もありません。いつでも、どこでも、誰に対しても、真理は変わらないからです。
ですから、真理を知る人は、信仰の確信を持つことができます。
まぁ、信仰の確信にも、いろいろあるかもしれません。
パリサイ人が教える信仰の確信、カルトが教える信仰の確信、自分を信じる信仰の確信など・・・・えっ、その確信、大丈夫? と思うような、確信もあるかもしれません。
しかし、この時のペテロの確信は、土台が違いました。・・・自分の熱心さ、自分の悟り、自分の理解などを土台とした確信ではなく、神様が啓示してくださった、イエス様の真理を土台とした確信でした。・・・神様が啓示してくださる真理が、信仰の土台です。

神様が啓示してくださらなければ、私たちは、真理を知ることができません。
しかし、神様が啓示してくださるとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします。
真理が私たちに与える自由とは、みことば通りに生きることができる自由です。

主イエスを信じた人は、みことばに従いたいけれども、従えないという、現実に苦しんだことあるはずです。しかし、真理は、その現実の束縛から私たちを自由にし、みことば通りに生きる自由を与えます。

今年6月、ある牧師が、ステージ4の癌の宣告を受けました。
彼は、牧師でしたが、国際的な会社のCEOでもありました。
家庭では、夫であり、父親でした。多くの責任を任されていた彼が、末期癌の宣告を受け、緊急手術をし、舌を6センチ切除しました。
ただ、声が出なくなるだけでも辛いものです。しかし、牧師であり、CEOでもあった人の声が出なくなる・・・それは、どれほど、辛いことでしょうか。
しかし、彼を心配して、お見舞いに来た人たちは、みな励まされました。
彼は、恐れてなどいなかった。失望してなどいなかった・・・むしろ、神様の恵みに感謝し、声にならない声で、主を賛美していました。自分のことよりも、むしろ、人のため、兄弟姉妹のため、主の働き人のために、祈っていました。
失ったものの大きさを見て、嘆くのではなく、今も与えられている恵みに感謝していました。自分のいのちにもまさる主の恵みに感謝しながら、今、自分に与えられている使命、人々の救いのため、教会のため、働き人のために祈る、使命に心を尽くしていました。

皆さん、彼は、本当は失望しているけど、大丈夫な振りをしていたわけではありません。・・・死という現実の前では、隠そうとしても、隠しきれないものがあります・・・苦しみや絶望は、その人が見せかけなのか、本物なのかを、試し、明らかにします。
彼を励まそうとして来た人たちが、彼を見て、逆に励まされました。・・・彼のうちから溢れ出る祈り、賛美、平安は、神様から与えられているものだ、と、感じることができたのです。
彼のことをよく知る友人の牧師は、大きな手術を受けなければならなくて、不安になっている人がいると、彼のことを話して、次にように、励ますそうです。
「彼を見てください。彼が神様の祝福です。生きた神様の祝福の証しです。
この祝福は、あなたのためにも用意されています。
あなたもイエス様を信じるなら、この祝福を受け取ることができます。」
皆さん、彼は、今も、闘病生活の中で、死という現実の前にしながら、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する・・・みことばに生きています。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい・・・このみことばを知っている人は多いです。口ずさんでいる人もいます。
しかし、この、みことば通りに生きる人は多くありません。・・・絶望、痛み、死などの、現実が鎖となって、私たちを束縛し、みことば通りに生きることを邪魔するからです。

なぜ、彼は、みことば通りに生きることができるのでしょうか。・・・真理が彼を自由にしたからです。
彼は、自分で、聖書を読んで、みことばを知っただけでなく、神様から啓示されて、みことばの真理を知り、真理が彼を、現実の束縛から自由にしたからです。
ヨハネの福音書 8章31-32節
 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

皆さん、もし、みことば通りに生きたいと願うなら、私たちは、真理を知る必要があります。
ですから、真理を知るために、神様から、啓示を受け取りましょう。
神の啓示とは、神様が、イエス・キリストについて証された、神様の証しです。
Ⅰヨハネの手紙 5章9-12節
  私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。
 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。
  その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。
 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

イエス様を信じる人は、神様の証しを信じる人です。神様の証しとは、神様が、神の御子イエス様を私たちに与えるほどに、私たちを愛してくださった。イエス様を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つこと・・・これが、神様の証しです。神様は、あなたを愛しています。イエス様を与えるほどに、神様は、あなたを愛しています。・・・この神様の証しを、信じて、受け入れる人は、だれでも、イエス様を持っています。

神様の証しを、本当に信じる必要があります。・・・私はイエス様を持っている・・・私のうちにイエス様が今も、生きておられる・・・この神様の証しを、本当に信じる必要があります。
・・・まぁ、本当に信じると言っても、信じます、信じます、信じます、という、私の信じる力によって、信じることができるわけではありません。
私は、イエス様が私のうちにおられることを、信じる、信じる、信じると、言い続けていれば、いつかは、イエス様の声が聞こえて来るというわけでもありません。
神様が、ペテロに啓示してくださったように、私のうちに生きておられるイエス様を、神様が、私に啓示してくださるとき、イエス様の声が聞こえて来ます。
イエス様の声を聞きたいと、自分で頑張っていたときには聞こえなかったけれども、神様が啓示してくださった瞬間、イエス様の声が聞こえて来ます。
イザヤ書 50章4節
 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。

神様が、約束してくださった通り、
私が聞くのではなく、神様が、私の耳を開いて、聞かせてくださる。・・・この信仰をもって、ディボーションの時間を持つとき、神様から、啓示を受け取ります。

ディボーションの時間は、神から、啓示を受け取るための時間です。
神様が、みことばの真理を、私に啓示するための時間を、神様にささげること、それが、ディボーションの時間を持つことです。

ディボーションの時間は、私が読みたいように聖書を読む時間ではなく、神様が、私のうちに生きておられるイエス様を、私に啓示してくださるのを、期待しながら、待ち望む時間です。

神様が、イエス様の真理を啓示してくださるまで、祈りとみことばにとどまるとき、私たちは真理を知り、真理は私たちを自由にします。

今週、一週間、神様から、啓示を受け取って、真理を知り、真理によって自由にされた皆さんが、みことば通りに生きる恵み、イエス様と共に生きる恵みに、満たされることを主イエスの御名によって祝福します。