【311】2025/9/21 主日礼拝 『この宝』 Ⅱコリント人への手紙<4:5-10> 斉田基牧師
6-7節
「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
神様は、神の栄光を知る知識によって、私たちの心を照らしてくださいました。
イエス様を信じて、受け入れた私たちのうちには、神様を見えるようにしてくださる光が輝いています。神様がどういうお方なのかを、私たちに教えてくださる光が輝いています。
その光とは、イエス様です。イエス様を信じ、受け入れた私たちのうちで、イエス様が私たちを照らす光となって、神様がどういうお方なのかを、私たちに見えるようにしてくださいます。
イエス様が光であり、宝です。私たちは、イエス様という宝を、土の器の中に入れています・・・この土の器とは、地のちりで造られた私たちのからだです。私たちが死ぬと、からだは、土に還ります。私たちのからだは、土の器です。
そう言うと、私たちは土の器で、イエス様が宝であり、輝く光だと思うかもしれません。
実は、そうではありません。私たちは輝かない、価値のない土の器ではありません。
イエス様は、「あなたがたは土の器です」と言うのではなく、「あなたがたは、世の光です。」と言われました。つまり、イエス様は、土の器という、私たちのからだが、私たちの本体なのではなく、私たちの体のうちにある私たちの霊が、私たちの本体であり、私たちの霊は、世の光だと、言われたのです。
皆さん、人間には、体と霊があります。厳密には、からだ、たましい、霊なのですが、今日は、目に見える肉体と、目には見えない霊で分けて考えましょう。・・・私の体から、私の霊が離れると、私の体は死んで、土に還ります。しかし、私の霊は生きています。私の意識は、死んで滅びる私のからだにあるのではなく、私の霊とともに、私の意識もあります。
ですから、私の本体は、肉体にあるのではなく、霊にあります。土の器である私の体が、私の本体なのではなく、私の体の中にある私の霊が、私の本体です。
ですから、土の器の中にある宝とは、私たちの霊のことでもあります。
先ほど、この宝は、イエス様だと言いました。そして、今、この宝は、私たちの霊だとも言いました。どちらが正しいでしょうか・・・両方とも正しい・・・すなわち、主イエスを信じ、受け入れた私たちは、霊において、イエス様と一つにされた、神様の子どもです。
イエス様が、十字架で死んで、よみがえられたのは、私たちをイエス様と一つにされた神様の子どもにしてくださるためでした。
ですから、もし、イエス様の十字架の死と復活は、私のためであったと信じるなら、その人は、霊において、イエス様と一つにされた神様の子どもです。
そう言われても、私は弱く、失敗し、間違うこともある・・・自分がイエス様と一つにされた神様の子どもとは思えない・・・そのように、思うかもしれません。
しかし、そう思うのは、土の器を見ているからです。私の体という土の器ではなく、その中にある私の霊、イエス様と一つにされた私の霊を見る必要があります。
私の本体は、体ではなく、霊です。・・・弱く、足りない私、間違ったり、罪を犯したりする私は、霊の私ではなく、肉の私です。
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか・・・これは、肉の私についてのことです。
多くの人が、毎日のように考えていることは、肉の私についてのことです。霊の私についてはほとんど考えません。そのように、肉の私についてのことばかり考えるので、まるで、肉の私が、自分の本体であるかのように感じてしまうのです。
しかし、私たちの本体は、肉の私ではなく、霊の私です。肉の私は、欠けだらけです。間違ったり、罪を犯したりします。しかし、驚くことに、イエス様と一つにされた霊の私は、罪を犯しません。
Ⅰヨハネの手紙3章6
キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
Ⅰヨハネの手紙3章9
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
神から生まれた者は罪を犯さない・・・罪を犯すことができない・・・この罪を犯すことができない私とは、聖霊様によって新しく生まれた、霊の私です。霊の私は、イエス様と一つにされているので、罪を犯すことができない。イエス様が罪を犯すことができないので、イエス様と一つにされた霊の私も、罪を犯すことができない・・・しかし、肉の私は罪を犯すことができます。
ですから、肉の私に従うなら、罪を犯します。しかし、霊の私に従うなら、罪を犯さない。
私たちは、肉に従うか、霊に従うかを、選ぶことができます。
イエス様と一つにされた霊の私に従って生活することが、キリストにとどまることです。
そう言われても、霊の私に従うとか、よく分からない・・・簡単に言えば、霊の私に従うとは、イエス様のために生きることを選ぶことです。
ローマ人への手紙 14章7-9節
私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
肉の私は、自分のために生きます。しかし、イエス様と一つにされた霊の私は、イエス様のために生きるのです。
ですから、肉の私に従って、自分のために生きれば、生きるほど、私たちは、罪を犯します。そして、肉の私に従えば従うほど、肉の私が、自分の本体だと感じてしまうのです。
逆に、霊の私に従って、イエス様のために生きれば、生きるほど、本当に霊の私はイエス様と一つにされている、と、実感し、ますます、イエス様から力を受けるようになります。
ある男性は、聖書を読んでいたとき、イエス様が十字架の上で、
「父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのか、分かっていないのです。」
と、祈られた祈りは、イエス様が自分のために祈ってくださった、と、実感しました。
・・・そして、「イエス様は、本当に、私の罪のために、十字架にかかって死んでくださった。よみがえってくださった。イエス様は、私の主だ」と、みことばを悟る恵みを受け、その日、彼は、イエス様を、信じ、受け入れました。
イエス様を信じ、受け入れた瞬間、真っ暗だった彼の世界に光に満ちたそうです。
彼は、イエス様に約束しました。「僕の人生は、イエス様のものです。これからは、イエス様のために生きます。」・・・それまで、一年以上、引きこもっていた彼は、すぐに外に出ました・・・イエス様を伝えるためでした。
その後、彼は2ヶ月後に、教会で、水のバプテスマを受けることになるのですが、その教会のバプテスマのための準備クラスの聖書の学びを、学んで行く中で、聖霊のバプテスマについて教えられました。
それで、彼は、牧師先生に聞きました。「先生、聖霊のバプテスマを受けたら、受けたと分かりますか?」・・・「分かりますよ。」・・・「どうして分かりますか?」・・・「いろいろありますが、一つは、異言で祈ることです。」・・・「異言で祈るって、どんな祈りですか?」
すると、牧師先生は、異言で祈ってくれました・・・その祈りを聞いて、彼はこう言いました。
「先生、実は、先月、伝道に行こうとしたとき、限界を感じて、もう、どうしようもなくなって、床を叩きながら、祈りました。『神様、どうか、僕に、あなたとの約束を守らせてください』・・・泣きながら叫んで、祈っていたとき、急に、口から自分の言葉でない言葉が出て来ました。それで、僕は病気かもしれない。脳の病気にかかったのかもしれないと思って、病院に行こうと思っていました。」
それで、牧師先生は、「兄弟、今、その祈りを祈ることができますか?」
「はい。いつでも、祈ることができます。」・・・彼の祈りを聞いて、牧師は、「兄弟、兄弟は、聖霊のバプテスマを受けていますよ。」と言われました。
皆さん、彼は、イエス様を信じたその時に、「僕の人生はイエス様のものです。これからは、イエス様のために生きます。」と、神様に約束しました。
そして、彼は、その約束を守るために、毎日、イエス様を伝えようと努力しました。・・・誰かに会って、チャンスが会ったら、伝えようと言うのではなく、イエス様を伝えるために、出かけて行って、伝える人を探して、イエス様を伝えようとしました・・・しかし、ついに、限界が来たのです。
なぜでしょうか・・・彼は、肉の私の力で、イエス様を伝えようとしていたからです。
イエス様を伝える力は、肉からではなく、霊から与えられる力です。
しかし、彼には、まだ聖書の知識もなく、聖霊も、聖霊のバプテスマも知らなかったので、彼は自分の持てる力、彼の肉の力で、イエス様を伝えることしか分からなかった。
そして、彼の肉の力が尽きたとき、彼は聖霊の力を受けました。彼が聖霊様の力を受けることができたのは、イエス様と伝えるために、力を尽くしていたからです。彼が、自分のためではなく、イエス様のために力を尽くすことを選んでいたからです。
自分のためではなく、イエス様のために、力を尽くすとき、肉の私の限界が、聖霊の力を受ける始まりとなります。
ですから、大切なのは、イエス様のために生きることを選ぶことです。
イエス様が私のために生きてくださったように、私もイエス様のために生きることを選ぶこと・・・まず、最初に、イエス様が、私のために生きてくださったことを信じ、受け入れることです。
十字架の死に至るまで、私のために生きてくださったイエス様、私のために死んで、よみがえられたイエス様を、私の主として受け入れるとき、霊の私が、イエス様のために生きるのです。
そして、肉の私の限界の時が、霊の私に、聖霊様の力が現わされる時になるのです。
8-10節
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
四方八方から苦しめられるのは、私たちの肉です。しかし、私たちの霊は窮することはありません。肉は、途方にくれます。しかし、霊は行き詰りません。肉は迫害されても、霊は見捨てられることはありません。肉は倒されても、霊は滅びません。私たちの肉は、イエス様の死を帯びますが、私たちの霊はイエス様のいのちに満ちあふれます。
私たちは、肉の私に従うのか、霊の私に従うのかを選ぶことができます。肉に従うなら、死にます。しかし、霊に従うなら、聖霊様が、私たちの死ぬべき肉の体さえも生かしてくださいます。
どうやって、霊に従うのでしょうか・・・肉体の感覚ではなく、霊の感覚に従うことによってです。
2023年9月30日、ある牧師は、新しく開拓した教会で、初めて礼拝する日の前日の土曜日、
朝目覚めたとき、ベッドの中で横わっていましたが、横わっていたにも関わらず、頭の中がぐるぐると回っていました。
立ち上がろうとすると、体が斜め傾いて、倒れてしまいました。自分で立ち上がることができない・・・その様子を見た妻は、救急車を呼びました。人生初の救急車でした。
検査結果、突発性めまい症と診断されました。・・・救急の医者は、土日は、耳鼻科が休みなので、月曜日まで入院して、月曜日に紹介状を出しますから、耳鼻科で診察を受けてください。と言いました。
しかし、彼は、「あの、申し訳ありませんが、私は牧師です。」・・・「それが、どうかしましたか?」
「私は牧師で、明日は日曜日です。私は、午前と午後に礼拝のメッセージをしなければなりません。ですから、私は帰ります。」
「いや、あなたは、救急車で、運ばれて来たんですよ。あなたは、帰れませんよ。」
「大丈夫です。みんな、私のために祈ってくれています。あなたの責任にはしませんから。何
が起こっても、すべて自己責任にしますから。とにかく、明日の礼拝のために、帰ります。」
そう言って、自宅に帰ると、心配してくださった教会の働き人から、「明日の礼拝のメッセージを代わりましょうか」と連絡が来ました。・・・しかし、彼は、返信しませんでした。
妻からも、「いい加減、はっきりしたらどう。代わってもらうなら、早く言わなきゃだめよ。」・・・そう言われても、彼は、一切、答えませんでした。
実は、そのとき、彼は決心していました。肉の感覚に従って、判断しないという決心でした。
・・・彼は、肉体の感覚、すなわち、五感から入って来る情報に基づいて判断することをやめて、霊の感覚から入ってくる情報に基づいて判断すると、決心していました。ですから、彼は、祈りとみことばによって、神様と一緒に時間を過ごすことに心を尽くしました。
新しい場所で、最初の日曜日の礼拝に牧師がいなかったら、どうなるのか・・・考えない。
もし明日の朝、起きたとき、また、倒れてしまったらどうしよう・・・心配しない。
朝になってから、やっぱり、メッセージを代わってくださいと頼んだら、頼まれた方も困るだろう・・・そのように心配したり、考えたりするのは、霊の私ではなく、肉の私だと・・・イエス様と一つにされた私の霊は心配するのではなく、主に信頼するのだと・・・
霊の私は、すべてを働かせて益としてくださる主に信頼して、ただ、主の導きに従うことに心を尽くすのだと・・・
彼は、「私が何とかしなきゃ、人に迷惑がかかる、この状況を何とかしなきゃ・・・そのように肉の私で、考えることをやめて、・・・神様は、この状況で、何をしてくださるのか・・・神様は、今、この状況で、私にどうして欲しいのか」・・・そのように、神様に集中することに心を尽くしました。
日曜日の朝、彼は目を覚まし、教会に行って、午前と午後のメッセージを語りました。それだけではありません。その日、10月1日から11月6日まで、奉仕の働きで埋っていたスケジュールのすべてを、彼は、1日も休むことなく、働き続けることができました。
彼は、国内を巡回し、海外宣教にも行き、すべてを終えて、11月7日に休みを取ったそうです。
神様は、彼を完全に癒してくださいました。・・・ただ癒すだけではなく、主の働きをするための力を与え続けてくださいました。そのように、神様が、彼に力を与え続けることができたのは、彼が、肉の感覚ではなく、霊の感覚に従うことを選び続けたからでした。
皆さん、神様の力は、外側の肉体から働くのではなく、内側の霊から働きます。
エペソ人への手紙 3章16節
どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
内なる人、これが、私たちの霊です。神様は、聖霊様によって、私たちの霊に働きかけることによって、私たちに、力を与えてくださいます。
イエス様と一つにされた私たちの霊が、聖霊様の働きを受ける場所です。私たちの霊が、神の力を受ける場所です。霊に従うとき、私たちは、神様の力を受けます。
皆さん、私たちは、イエス様を信じたとき、聖霊様によって、新しく生まれました。イエス様と一つにされた神様の子どもとして新しく生まれたのは、私たちの霊です。
私たちの霊が、新しく生まれる前までは、私たちには、肉の体の感覚しかありませんでした。五感から入って来る情報で判断して行動するしかなかったのです。
しかし、霊において、新しく生まれたとき、私たちは霊の感覚を感じるようになりました。
・・・霊の感覚とは、霊である神様を感じる感覚です。すなわち、神様は何をしてくださるのか、神様は、どう思われるのか・・・祈りとみことばによって、神様から直接教えてもらえるようになりました。
そのように、神様が教えてくださる情報によって、判断し、行動することが、霊の感覚に従うことです。
私たちは、霊の感覚に従うことも、肉の感覚に従うことも、どちらも選べます。
肉の感覚に従うなら、今まで通りに生きることになります。
私が何とかしなければ、あの人に迷惑がかかってしまう。私が、この状況を何とかしなければ・・・そのように、人や感情や現実の状況に振り回され続けます。
しかし、霊の感覚に従うなら、すべてを働かせて益としてくださる主に信頼して、ただ、主の導きに従うことに心を尽くすことができます。
イエス様と一つにされた私の霊に従うなら、私たちは、神の力を受けて、もはや、自分のためではなく、イエス様のために生きることができます。
今日、この時間、イエス様のために生きることを決心して祈りましょう。
イエス様のために生きるとは、イエス様が、いのちを捨てるほど、愛した人々の救いのために生きることです。
イエス様、今週、あなたのために生きるためには、私は具体的に何をどうしたらよいでしょうか。教えてくださいと祈りましょう。

