【307】2025/8/24 主日礼拝 『神の家族』 エペソ人への手紙<2:17~22> 斉田基牧師
19節
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
主イエスを信じた私たちは、みな、神様の子どもであり、神様の愛で、互いに愛し合う神様の家族です。
神の家族が分かると、天のお父様とイエス様が分かります。
家族が分かると聖霊様、天のお父様、イエス様の交わり、神の愛の交わりが分かるようになります。家族が分かると教会が分かります。
教会は、ただ、週に一回、集まって、礼拝することが、教会ではありません。
教会は、神様の家族である私たちです。
神様の家族には、一つのビジョンがあります。神様のビジョンです。
その一つのビジョンに向かって、私たちは、みんなで助け合いながら、歩んで行きます。
しかし、この世においては、多くの家族が、ビジョンを持っていません。
家族全員で、この方向に向かって行こう、という、ビジョンがないので、同じ屋根の下で生活し、一緒に食事をし、会話をしますが、それぞれ自分の行きたい方向に向かって行きます。
気がついたときには、「ああ、何のために自分たちは、結婚したんだろう」・・・子どもがいるにもかかわらず、何のために、家族をしているのか、分からなくなり、家族の崩壊が始まる・・・よくある話です。
しかし、神様の家族である、私たちには、一つのビジョンがあります。神様から与えられたキリストのビジョンがあります。・・・それは、私たち全員が、一人も漏れることなく、イエス様のように生きる神様の子どもに成長して、互いに愛し合い、仕え合う神様の家族になるというビジョンです。
聖書は、イエス様のように生きる神様の子どもを、イエス様の弟子と言います。
ですから、次のイエス様のみことばこそ、私たちに与えられた神様のビジョンです。
マタイの福音書 28章18-20節
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
イエス様は、弟子たちには、命じておいたとあります。イエス様は、弟子たちには命じましたが、群衆には、教えました。
イエス様が、弟子たちには、命じられた理由は、弟子たちは、イエス様に命じられることを、イエス様に愛されることとして、受け取ることができたからです。
イエス様の弟子たちは、訓練によって、従順の性質が身についていました。
聖書の従順は、性質です。従順という性質を身に着けた弟子には、イエス様に従うことが当たり前のことになっていました。・・・それどころか、従うことが喜びでした。
大変な思いをしながら、頑張って従って行こうというのは、従順を身に着ける前の段階です。
従順を身に着けた弟子たちにとって、イエス様に命じられることは、イエス様に愛されること、イエス様に従うことは、イエス様を愛することでした。
ですから、命令を、愛として受け取ることができる弟子たちには、イエス様は命じましたが、愛として受け取ることができない群衆には、イエス様は、命じるのではなく、教えました。
弟子たちも最初から、弟子だったわけではありませんでした。彼らも、最初は群衆の一人でした。・・ ・彼らは、ある時点から、弟子になりました。その時とは、イエス様が、本当に良いお方であることを知った時でした。
「ああ、このお方なら、信頼できる。この方は、最善以下のことを私になさることはない・・・イエス様は、私にとって本当に良いお方・・・そのようにイエス様を知ったとき、弟子になりました。
ですから、聖書を読むと、イエス様に出会った人たちが、「イエス様、あなたについて行かせてください。」と、自分から、お願いしています。
彼らは、イエス様が、本当に良いお方だと体験したので、ついて行きたくなったのです。
彼らは、イエス様のそばにいることが、最高の幸せだと信じました。・・・それが弟子です。
マルコの福音書 3章14節
イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、
イエス様が、十二弟子を選ばれた第一の目的は、宣教をさせるためではなく、ご自分のそばに置くためでした・・・今も、同じです。
イエス様が、私たちを弟子とするという時、その第一の目的は、私たちに何かをさせることではありません。まず、私たちを、イエス様のそばに置くため・・・何のために、イエス様は、私たちをそばに置きたいのでしょうか。
ヨハネの福音書 13章1節
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
過ぎ越しの祭りの前のこと・・・次の日には十字架で死ぬ・・・もう時間がほとんどない・・・これが最後だと、知ったイエス様は、最もしたかったことを、しました。
イエス様が最もしたかったことは、実は、それまでも、イエス様が、心を尽くして、して来たことでした。・・・それは、それまでも愛してきたように、彼らを最後まで愛し尽くすこと・・・でした。
イエス様は、生ける限り、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、神を愛し、そして、人を愛して、仕え続けた愛のお方でした。
ですから、イエス様のそばにいた弟子たちは、イエス様に愛されて、愛されて、愛され続けた人たちでした。・・・だからこそ、イエス様の次のみことばの意味がよく分かりました。
ヨハネ13:34-35
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。
イエス様のそばで、愛されて、愛されて、愛され続けた弟子たちには・・・「わたしがあなたがたを愛したように」・・・の意味がよく分かりました。
イエス様の愛は、喜んで犠牲を払う愛でした。イエス様に出会う前までは、体験したことのない愛でした。それまでも、彼らを愛してきたイエス様は、彼らを最後まで、実に十字架の死に至るまで、愛されました。
イエス様の愛は、罪人の私を救うために、喜んでいのちまで犠牲にしてくださった愛す。しかし、その愛は、ただ、死んで終わってしまった、いのちのない死んだ愛ではなく、力のない愛ではなく、死人の中から復活された力ある愛です。
イエス様の愛は、信じる私たちに、罪を赦しを与えるだけではなく、復活のいのち、神様のいのちを与え、私たちを神様の子どもに生まれ変わらせる力ある愛です。
この、今も生きている、力ある愛を、みことばから悟らなければ、その愛を受け取ることができません。・・・「ああ、イエス様は、私を愛してくださっているかもしれないけれども、私には、イエス様のように、人を愛する力はない」・・・そのように思ってしまいます。
しかし、みことばを聞いて悟るなら、今も生きている、力ある愛を受け取ることができます。イエス様が愛してくださったように、人を愛することが喜びになります。・・・みことばを聞いて悟る人のことを、イエス様の弟子と言います。・・・群衆は、みことばを聞いても悟ることができませんでした。しかし、弟子たちは悟ることができました。
イエス様のビジョンは、私たちを弟子とし、また、弟子である私たちが弟子を育てることです。
すなわち、私たちが、みことばを聞いて悟り、イエス様の力ある愛を受け取って、その力ある愛で、互いに愛し合う神様の家族を、世界中に増やして行くことです。
ある主婦は、家の教会と呼ばれる、少人数の交わりを通して、みことばを聞いて悟りました。この力ある愛を受け取った彼女は変えられました。
彼女には、高校生になる息子がいましたが、その息子は、学校によく遅刻をする子でした。
一回や二回なら我慢できても、10回、20回、30回と続くと、「早く寝ないから起きられないんじゃ
ない。しっかりと時間を管理しなさい」と言いたくなるでしょう。
しかし、みことばを聞いて悟ったとき、力ある愛を受け取ったとき、彼女は変りました。
遅刻すると、非難もせずに、車で送ってあげます。片道45分・・・つまり往復一時間半・・・主婦にとって忙しい朝の時間に、寝坊した息子を、一言も責めることなく、何十回も送ってあげる・・・
そんなことをしたら、子どものためにならないでしょう・・・と普通は、思うかもしれません。
しかし、イエス様の力ある愛を受け取った彼女にとって、その45分の時間は、息子を愛して、仕える時間になりました。母親と息子の貴重な交わりの時間、恵みの時になったのです。・・・反抗期はなくなりました。
イエス様の弟子になった母親のいる家庭は居心地のよい家庭に変りました。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます・・・みことばが実現する家庭になりました。
彼女は、頑張って、愛の人、赦しの人になろうと努力したわけではありませんでした。
ただ、彼女は、イエス様を信じていました。そして、イエス様のみことばを聞いて悟りました。ただ、イエス様を信じるというのではなく、みことばを通して、イエス様のことも、もっと深く知りました。・・・私は、イエス様に赦されている、私は本当に愛されている・・・イエス様の力ある愛を、受け取っただけでした。
彼女は、愛そうとして愛する人になったのではなく、愛されて、愛されて、愛する人に変えられました。多く赦されたので、多く愛する者になったのです。
彼女が、この力ある愛を、知った場所、みことばを聞いて悟る恵みを受け取った交わり・・・それが、神の家族の交わり・・・小グループ、属会とも呼ばれる、イエス様の弟子たちの交わりでした。
皆さん、週に一回の礼拝だけでは、どしても受け取り切れない、たくさんの恵みがあります。
大人数ではなく、小人数の交わりでなければ、隣の人が、どういう人なのか・・・その人の人生がどれほど変えられたのか・・・その人が、どうして、そのような生き方ができるようになったのか・・・小人数の交わりでなければ、見ることができない、聞くことができない、たくさんの恵みがあります。
ある家庭では、小さな子どもたちが本当に喜んで、神様を賛美します。
どんな子育てをしたら、そのように子どもたちが成長するのか・・・小人数の家の教会の交わりの中で、実際に、子どもたちの様子や、親がどのように子どもに関わっているのかを見ることができ、そして、本人に、直接、聞くことができます。
子どもにとって、大人の礼拝はつまらないから、子どもは、子どもが楽しめる別の場所に連れて行った方がいいという人もいます。しかし、その親は、礼拝で、主と交わる恵みを体験しました。そして、主は大人も子どもも差別されることなく、礼拝を通して、喜びと楽しみを与えてくださると、みことばによって、悟りました。
ですから、その親は、礼拝が始まるまでの時間に、子どもたちに、みことばを聞く耳が開かれるためにはどうしたらいいか、賛美の楽しさを味わえるように育てるためには、子どもたちにどう接したらいいか・・・祈り求めました。
とにかく、愛するわが子にも、賛美の楽しさを教えたくて、仕方がなかった。
それで、まずはその子の目線に行って、一緒に遊んであげるところから始めました。
子どもたちが走り回ったら、自分も走り回って、そして、今度は、子ども抱っこしながら走り回って・・・気づいたときには、抱っこしている親が、いつのまにか賛美していて、その賛美に子どもも巻き込まれて行く・・・そして、いつの間にか、子どもたちも一緒にジャンプして賛美している・・・それを何度も繰り返していくうちに、子どもたちは自分から喜んで賛美するようになったと言います。
また、ある教会学校の先生は、みんなで賛美しよう。礼拝しようと、言っても、一緒にできない子、落ち着きがない子を、どうしたらよいかと、悩みました。
その時、示されたみことばは、放蕩息子でした。お父さんは、罪を犯した息子が、まだ、ボロボロの状態のままでも、1番いい服を着せて、愛しました。
それで、その先生も、みことばで示された通り、子どもたちを愛することにしました。
まずは、落ち着きのない子と言う自分の意識を変えて、子どもは落ち着きがないものだ・・・この子は、元気がある子、エネルギッシュで神様の力を宿している子と言って、ほめることにしました。
そして、落ち着きのある子は、落ち着きのある子で、褒めました。
おお、イエス様の足元で聞いていたマリアのように、1番良い方を選んでいるね・・・励ましました。
実は、いつも座っている子どもたちも、心の中では、結構、我慢していて、葛藤している・・・たまに、我慢できなくなるときにも、ここでは、褒められて、愛されて、励ましてもらえる。・・・そのように、とにかく、愛して、励まし続けた結果、子どもたちの礼拝に喜びが溢れるようになりました。
もちろん、この先生は、行く行くは、みんなマリアにしたいという、ビジョンをもって、子どもたちを育てていました。・・・子どもたちをイエス様の弟子として育てるという方向性もなく、ただ、子どもだから仕方がないと諦めることなく、また、どうして子どもがそのようにしているのか、理解しようとすることなく、「何で、そんなことするの!何で、でききないの!」と、怒るのでもなく、イエス様の弟子、すなわち、神様の家族として育てるというビジョンをもって、愛し、励まし、育てました。
皆さん、先ほど分かち合った親であれ、教会学校の先生であれ、彼らについての話を、言葉で聞いているだけでは、どうしても、伝わり切らない恵みがあります。
彼らに会って、会話して、交わりを持つとき、実際に、彼らがどのように、子どもたちに接しているのか・・・子どもたちを愛し、励まし、仕えるときの彼らの態度、表情、言葉、また、子どもたちの態度や様子・・・皆さん、実際、彼らのように愛し、仕えることは、犠牲が伴います・・・しかし、彼らを見ると、その犠牲が喜びであることが伝わってきます。
愛の犠牲は、喜びなんだと、彼らと交わるときに、彼ら自身から、その喜びが伝わって来ます。
ああ、本当に、幸せな生き方とは、彼らのように、犠牲を払って愛に生きる生き方なんだと、
彼らのうちに今も生きておられるイエス様のように、犠牲を払って愛に生きる人生こそ、最高の人生なんだと、交わりの中で、みことばを聞いて悟る恵みを受けることができます。
これが、家の教会です。小グループ、属会とも呼ばれる、少人数で、愛し合い、励まし合い、仕え合って、みことばを分かち合う交わりです。
先月の修練会で仕えてくださった、とりなしチームの方は、属会の交わりを通して、ある家庭の5歳のお子さん、脳性麻痺で、立つこともできない子が、いつも賛美している姿に感動させられ、その子の癒しのために、とりなし祈っていたときに、深い悔い改めに導かれ、聖霊様に満たされました。
また、今月、サマースクールで仕えるために来てくださった宣教チーム・・・主日礼拝では、踊りを踊ってくださった姉妹も、同じ属会の姉妹が、流産をされたとき、彼女のためにとりなし祈っていたときに、聖霊様のバプテスマを受けたそうです。
皆さん、属会の交わりは、神様の恵みを体験する、神の家族の交わりです。
神様の愛で、互いに愛し合い、祈り合い、仕え合う交わりです。
まだ、神様の愛がよく分からない人も、神様の愛を体験する恵みの交わりです。
まだ、イエス様を知らない人も、イエス様に出会う恵みを体験する交わりです。
もうすでにイエス様を知っている人も、ますます深くイエス様を知って、イエス様のように生きる神様の子どもとして成長させられる交わり・・・それが、神の家族の交わりです。
主イエスのいのちの犠牲によって、救われた私たちは、神様の家族です。もうすでに、力ある愛で愛されている神様の子どもたちです。
神様が、私たちに、神様のビジョンを与えてくださいました。そのビジョンを実現する力を受ける交わり、神様の愛を体験し、その愛で互いに愛し合う交わり・・・それが家の教会の交わりです。
主イエスの御名によって、二人三人が集まる交わりは、神様の家族の交わりです。
親子でも、神の家族の交わりを始めることができます。
このイエス様のビジョンをもって、私たちが、一人も漏れることなく、イエス様の恵みを受けて、イエス様のように生きる神様の子どもとして成長するために、家の教会、小グループ、属会の交わりを始めていきましょう。

