【304】2025/8/3 主日礼拝 『礼拝者』 ヨハネの福音書<4:23~24> 斉田基牧師
23節
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
私たちは、今も、礼拝を、神様にささげていますが、・・・礼拝とは何でしょうか。
礼拝とは、こういうものだというイメージが、それぞれ違うかもしれません。
しかし、イエス様は、・・・私たち人間が、ではなく、神様が、求めている礼拝というものが、あると言われました。
まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。・・・今がその時・・・ということは、それまでとは、違う礼拝を、今は、神様が、求めておられるという意味です。・・・それまでは、神様に、羊や牛などのいけにえをささげて、礼拝しました。
しかし、今や、羊や牛のいけにえによってではなく、霊とまことによって礼拝する・・・すなわち、霊的ないけにえによって、礼拝する時が来た。
24節
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
神様は、霊ですから、私たちも霊によって礼拝しなければならない。すなわち、神様は、私たちの霊、私たちの心を見ている。
・・・旧約の時代は、神様は、礼拝者たちに、牛や羊などを焼いて、ささげさせました。
しかし、神様は、牛や羊のバーベキューが好きなわけではありません。
神様は、礼拝をささげる礼拝者たちの心を求めておられます。
ですから、心もなく、ただ動物のいけにえをささげて、礼拝していた人たちに、神様が、「もういらない。そんな礼拝は、もうささげるな。」と言われたことがありました。
また、カインとアベルが、ささげものを、神様にささげたとき、神様が喜んで受け入れられたのは、アベルのささげものでした。
なぜ、アベルのささげものだけが神様に受け入れられたのか・・・心です。
神様は、創世記の初めから、礼拝する人の心を見ておられます。今も、神様は、礼拝をささげる私たちの心、私たちの霊を見ておられます。
今や、神様は、霊とまことをもって礼拝する礼拝者を求めておられます。
神様が求めているのは、礼拝というよりも、礼拝者、です。
神様は、私の礼拝よりも、礼拝者とされた私自身を喜んでくださる。
父なる神様は、あなたの行いよりも、神様の子どもとされた、あなた自身を、愛し、求めておられます。
ですから、主イエスを信じる信仰によって、神様の子どもとされた私たちは、霊的ないけにえによって、主を礼拝します。
旧約の時代には、動物のいけにえが、神様に受け入れられたとき、いけにえの上に、神様の火が下りました。
同じように、私たちの霊的ないけにえが、神様に受け入れられると、聖霊様の火が私たちの上に下ります。それは、力強い主の臨在です。
主の臨在の中には喜びがあります。主が、私たちを喜んでおられるので、主の臨在が臨むと、私たちも喜びに満たされます。主の喜びが私たちの力です。
ですから、大変な問題の中で、主を賛美しながら、主に目を向けていると、なぜか、問題が、もはや問題ではなくなって、不思議な、平安と喜びが溢れて来る・・・そのような経験をされたことがあるかもしれません。
今は、とても賛美などできない・・・苦しみの中で、それでも、賛美することを選んで、ささげた賛美のいけにえ・・・そのいけにえが、主が受け入れられると、聖霊の火が下り、臨在が臨みます。
ですから、もし、私たちが、神様が、受け入れられる霊的ないけにえをささげるなら、聖霊の火が下り、主の臨在の中で、私たちも喜びに満たされます。
皆さん、主に受け入れられる霊的ないけにえをささげましょう。霊的ないけにえとは・・・ざっくり言うと、賛美、祈り、そして、互いに愛し合うことです。
しかし、賛美をして、賛美の歌を歌ってはいても、何故か、喜びもなく、心が虚しい・・・そのようなことがあったかもしれません。・・・それは、何かしらの理由で、神様と心が通い合う交わりが持てなかったからです。礼拝とは、神様との交わりです。
神は、霊ですから、神様を礼拝する、私たちも、私たちの霊によって、礼拝するときに、神様とのリアルな交わりを持つことができます。
ローマ人への手紙 12章1節
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
あなたがたのからだを神に喜ばれる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたにふさわしい礼拝です。別訳では、それこそ、神に受け入れられる、あなたがたの霊的な礼拝です。
すなわち、私自身を、いけにえとして、神様にささげる・・・それこそが、神様に受け入れられる霊的な礼拝だと言う意味です。
もし、私自身が、霊的ないけにえとして、神様に受け入れられるなら、受け入れられた私といういけにえの上には、聖霊の火が下ります。主の臨在が臨みます。
・・・ですから、皆さん自身が、霊的ないけにえとして、神様に受け入れられるとき、皆さんの行くところに、主の臨在が臨むようになります。・・・皆さんの家庭に、職場に、移動中でさえも、皆さんを通して、主の臨在が臨むようになります。
旧約でも、いけにえをささげる礼拝者であった祭司の働きは、主を愛し、主に仕え、そして、人々に主の臨在をもたらす働きでした。
同じように、主イエスを信じて、霊的ないけにえをささげる礼拝者とされた私たちが、主を愛し、主に仕えるなら、私たちを通して、人々に主の臨在がもたらされます・・・すなわち、私たちの行く先々で、愛する家族が、友人が、主に出会い、救われるようになります。
ですから、大切なことは、私たちが、霊的な礼拝者となることです。
主イエスを信じても、私たちの体は、人間の体です。しかし、主イエスを信じたとき、私たちの霊が、神様の子どもとして、全く新しく生まれ変わりました。・・・もうすでに、私は、霊的に神様と交りを持つ者に生まれ変わった・・・この真理を悟らなければ、神様との交わりを持つことができない。
神様の霊と、私の霊が交わるのでなければ、私が、どんなに賛美の歌を歌っても、ただのカラオケです。
どんなに断食して祈っても、祈りが神様との霊的な交わりであるという、真理を悟らなければ、ただのダイエットで終わります。
神様は、霊なので、神様と交るためには、霊において新しく生まれ変わる必要がある・・・どうすれば、生まれ変わることができるでしょうか。・・・イエス様を信じるだけです。
みことば通り、イエス様を信じる信仰によって、神様が、私を、神様の子どもとして生まれ変わらせてくださった・・・このみことばの真理を悟るだけです。
みことば通りに、イエス様を信じる信仰によって、私たちは、本当にリアルな神様との交わりを持つ神様の子どもとされます。・・・みことば通りにイエス様を信じることが、始まりです。
みことばには、イエス様は、「初穂として死者の中からよみがえられ」(Ⅰコリント15:20)たとあります。それは、イエス様が、死者の中から復活された、一番最初の方だと言う意味です。
では、イエス様に生き返らせてもらったラザロは、どうでしょうか。・・・エリヤやエリシャが生き返らせた人たちはどうでしょうか・・・彼らは、よみがえったのではなく、生き返りました。
・・・生き返ると、よみがえるとは、意味が違います。・・・よみがえるとは、全く新しいものに生まれ変わると言う意味です。
Ⅱコリント人への手紙 5章17節
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これは、誰でも、イエス・キリストを信じて、キリストのうちにあるなら、その人は、キリストが全く新しいものに生まれ変わったように、キリストのうちにあるその人も、全く新しいものに生まれ変わったという意味です。
しかし、イエス様は、世界が始まる前からおられた神様です・・・永遠に変わることのない神のことば・・・イエス様は、生まれ変わる必要のなかったお方でした。
しかし、それにもかかわらず、なぜ、イエス様は、新しく生まれ変わってくださったのでしょうか。
・・・私たちのためです・・・イエス様が、本当に、私たちの罪を背負ってくださったからです・・・罪人である私たちと、イエス様が一つになってくださったからです。
神であるイエス様は、本来、死ぬことができないお方でした。しかし、イエス様が死ぬことができたということは・・・イエス様が、罪を犯したか、あるいは、本当に、私たちの罪を背負ってくださったかの・・・どちらか、です。
Ⅱコリント人への手紙 5章21節
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
父なる神様は、罪を知らない方、イエス様を、私たちのために罪とされた・・・実にイエス様は、私たち罪人と一つになって、死んでくださった・・・だから、私たちのために、生まれ変わってくださった・・・イエス様が生まれ変わったので、イエス様と一つにされた私たちも生まれ変わった・・・イエス様と同じ神様の子どもとされた・・・このみことばの真理を信じる信仰によって、私たちの霊は、神様の子どもとして生まれ変わりました。
ですから、信仰が必要です。・・・信仰です。みことばを聞いて悟ることによって、みことば通りに信じる信仰が必要です。
信仰によって、私たちは、神様との霊的な交わり持つ、真の礼拝者として生まれ変わりました。
同じように、信仰によって、私たちは、神様に受け入れられる霊的ないけにえをささげます。そのとき、そのいけにえの上に聖霊の火が下り、主の臨在が臨みます。
霊的ないけにえとは、賛美、祈り、そして、互いに愛し合うことです。ですから、私たちが、ただ愛し合うのではなく、信仰によって、霊的ないけにえとして、互いに愛し合うとき、そこに、聖霊の火が下り、主の臨在が臨みます。
もちろん、私たちが、ただ家族で愛し合って仲良くすることも、神様は喜んでくださいます。
しかし、それ以上に、もし、私たちが、信仰によって、神様を認めた上で、神様が喜んでくださるから、家族で愛し合う・・・そのとき、神様は、それを、霊的ないけにえとして、受け入れてくださる。
信仰によって、神様を認めて、コップ一杯の水を上げたり、優しい言葉をかけてあげたりすることさえ、神様は、それを霊的ないけにえとして受け入れてくださる・・・「ああ、神様は、私が、こうすることを喜んでくださる」・・・この信仰によって、愛し合うとき、ますます、嬉しくなっていきます。・・・それが、神様に喜ばれる霊的ないけにえだからです。
本当に、霊的ないけにえをささげるときに、聖霊の火が臨み、主の臨在が臨みます。
・・・信仰によって、愛し合うとき、主の臨在の喜びが、私たちに臨みます。・・・主の喜びが私たちの力です。・・・ですから、信仰によって、愛し合いましょう。・・・イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合いましょう。
・・・何よりもまず、最初に、イエス様に愛されることが必要です。ですから、もし、イエス様の愛が分からなくなったなら、もう一度、みことばから、イエス様が私を愛してくださっていることを、信仰によって、受け取ってください。
神様は、私たちが、すべての恵みを、信仰によって、受け取ることができるようにしてくださいました。
イエス様が、私を愛してくださっているという恵みも、信仰によって、受け取ります。・・・努力して、何かをしなければ、受け取れないものではありません。・・・ですから、素直に、みことばを信じる信仰によって、イエス様の愛をいっぱいに受け取りましょう。
そのように、信仰によって、イエス様に愛されている恵みを受け取るとき、同じ信仰を働かせて、人を愛するようになります。
・・・だからこそ、聖書のみことばを読むとき、素直に信じる信仰によって読むことが大切です。
皆さん、聖書を読むとき、聖書をただの本だとは、思わないでください。
聖書のみことばは、霊であり、いのちです。この本の背後には、イエス様の霊がおられます。
聖書を読むときに、今、イエス様が、私に語ってくださる・・・この信仰をもって読んでください。
イエス様が、目の前にいる、この信仰をもって、聖書を開くとき、イエス様とリアルな会話が始まります。この信仰で、聖書を読むとき、みことばが、本当に、心に刺さるようになります。
ある二十代のクリスチャンの男性は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」 ・・・このみことばを、信じ難しく感じていました。
彼は、3年前にイエス様を信じて救われ、最初は、イエス様のことを熱心に両親に伝えました。
神様が、自分の人生をどんなに変えてくださったか。この祝福を両親に伝えたい。
家族にも、神様に愛さる喜びを知って欲しいと願って、祈って、祈って、いろんなアプローチで伝道しましたが、全然、伝わりませんでした・・・「宗教は、絶対に嫌!そんな話は、もう聞きたくない」 そのように言われ続けて、伝えようとすれば、するほど、関係が悪くなりました。
彼自身も、相当傷ついて、両親と同じ食事の席に座るだけで、背中に痛みを感じるようになり、素直に話しをすることもできなくなりました。
そんなある日、聖書のメッセージを聞いていたとき、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」このみことばが、心に刺さりました。
それまで、彼は、何をしたら、家族は信じるだろう、どうすれば救われるだろう・・・そのように、伝道の仕方とか、何かをすることばかり求めていました。
・・・しかし、そのとき、主イエスを信じなさい・・・そうすれば、救われる・・・本当に、信じた私も、私の家族も救われる・・・この恵みを、素直に受け取ろう。
・・・イエス様を信じて、私自身に救いの恵みを受け取ったのと同じように、家族の救いの恵みも、素直に受け取ろう。・・・その時、彼は、素直に信じて受け入れました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という、みことばを、みことば通りに信じて、受け入れました。
現実的には何も変わっていません。とても救われそうにない・・・そのような自分の思いも、すべてを脇において、ただ、みことばを素直に信じ、その恵みを受け取入れたとき、何が起こったでしょうか・・・まず、彼の心が癒されました。
両親との関係が悪くなって、心が傷ついていたときには、感じられなかった、両親の自分に対する愛に気づかされました。傷ついて、感じることができなかった時も、実は、私は両親に愛されていた・・・心が癒された彼は、両親に会いたくなりました。
お父さんと、お母さんと話がしたい・・・何かを伝えるためではなく、ただ、一緒に会話を楽しみたい・・・
家に帰ると、お父さんとお母さんと一緒にいるだけで、彼は何かすごく愛されていると感じて、感謝が溢れて来て、この感謝を伝えたいと思いました。
そして、父の日になって、「お父さん、今まで、色々、お父さんに助けてもらったけど、全然、気づいていなかった。これ自分で働いて稼いだお金です」・・・そう言って、プレゼントすると、本当に喜んでくれました。
その時に、「お父さん、お父さんの健康のために祈ってもいい」と聞くと、初めて、お父さんが「いいよ」と言ってくれたので、祈りました。それだけではありません。
なんと、そのとき、お父さんは、イエス様を信じ、受け入れました。そして、その1ヶ月後、先月のことですが、お母さんも、イエス様を信じて、受け入れました。
・・・これらのことの始まりは、彼が、みことばを、みことば通りに、素直に信じて、受け入れたことから始まりました。
皆さん、聖書はただの本ではありません。みことばは、ただの文字ではありません。
この文字の背後に、イエス様の霊がおられます。聖書を読む度に、イエス様が、聖書を通して、私たちに語りかけます。
聖書を本として読んで、頭に知識を増やすのではなく、イエス様とリアルな交わりを持ちまょう。
毎日、聖書を読むときに、イエス様が私の前に立ってくださっている。
この聖書を開くときに、イエス様が私に語りかけてくださる・・・信仰をもって、期待して、読んでいると、「あ、ここは・・・」というところが与えられます。
読んでいるところ全部、ここも、ここも、ここも、そのようにする必要はありません。
読んでいくと、「あ、ここは・・・」という風に、教えてくださいます。
そして、イエス様が、教えてくださったことに対して、「イエス様、教えてくださって感謝します。私は今日、教えられた通り、このことを行います。助け導いてください。」
・・・そのように、具体的に何をどうするかまで、イエス様と会話し始めたときから、私の人生は変わり始めました。
皆さん、今、この時間、イエス様と会話しましょう。みことばを通して、イエス様と会話して、お祈りしましょう。

