【300】2025/7/6 主日礼拝 『いつくしみに満ちた愛』 マタイの福音書<7:21~23> 斉田基牧師
21-23節
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
イエス様は、天国に入ることができない多くの人がいると言われました。
そして、天国に入ることができない人の多くは、自分は天国に入ることができると思い込んでいると言うのです。・・・なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。
ある牧師は、教会で、20年以上、忠実に仕えていました。
いつも聖書を手に持ち、みことばに精通し、この世から距離を置き、熱心に祈り、熱くメッセージを語りました。多くの人が、彼の信仰を尊敬していました。
しかし、心の奥底では、何かが彼を蝕んでいました。それは、虚しさでした。本人を含め、誰も気づかなかった、虚しさが、静かに彼の心を蝕んでいました。
それにもかかわらず、彼は、自分の信仰に何の疑問も感じませんでした。自分が最善を尽くしているなら大丈夫だという、間違った確信を持って、信仰生活をしていました。
しかし、時が経つにつれ、彼の心は、どんどん冷たくなり、聖霊様との交わりを失い、自分でも気づかないうちに、彼は、宗教の専門家になっていました。
ある日曜日、彼は、いつものように熱くメッセージを語っていました。
教会は、満員で、活気に満ちていました。
彼は、きよさと、裁きについて語り、また、罪に満ちた世界の中で、教会がきよさを保つことについて、語りました。人々は、熱心に耳を傾けていました。
まさに、その時、メッセージの途中で、彼は、胸に激しい痛みを感じ、その場で倒れました。
彼の意識は、体から離れて、全てを上から見ているようでした。兄弟たちが、彼を蘇生させようとしている姿、妻が涙を流している姿が見えました。
突然、説明できない力に引き寄せられ、気づいたときには、今まで体験したこともない深い闇の中にいました。
その闇の中で彼を見つめる存在を感じました。
その存在の前には、自分が、肉体的にも、精神的にも、裸であると感じました。それと同時に、私は、まだ、このお方の前に立つ準備はできていないという思いに押しつぶされそうでした。
彼のあらゆる思い、考えが明らかにされました。彼の行いの陰に隠れていた高ぶりが明らかにされました。その時には、肉体の痛みはなくなっていましたが、魂が激しく痛みました。永遠に取り返しがつかない後悔という痛みでした。悔いても、悔いても、どうにもならない心の痛みでした。
しかし、その時、光が来ました。その光は、単に彼の周りを照らす光ではなく、彼の内側、心も、魂もすべてを刺し通し、照らし、明らかにする光でした。
その光は、彼のうちから、あらゆる宗教心を消し去り、痛み、恐怖、孤独、全てを消し去り、その代わりに、彼のうちに、温かさ、いのちと平安を与えました。
その光は、イエス様でした。疑いの余地はありませんでした。しかし、彼がメッセージで教えて来たイエス様とは全く違いました。・・・人を戒める厳しい裁判官ではなかった・・・彼の心の奥底まで、すべてを見通す目で見つめられても、イエス様から感じたのは、深いあわれみと優しさでした。そこには、裁きや批判は少しもありませんでした。
彼の痛み、涙、恐れ、全てを知ったうえで、それでも、イエス様は彼を愛しておられることが、彼には分かりました。
このお方には、何も隠す必要がない。このお方は、ありのままの私を受け入れ、愛してくださる・・・全ての仮面をはぎ取る、圧倒的な愛で、彼は満たされました。
彼はただ、ただ、イエス様の前で泣いていました。すると、非難するためではなく、何かを示すために、イエス様は、彼に語ってくださいました。その声は、耳に聞こえるような声ではなく、彼のたましいに、彼の存在のすべてに響き渡るように聞こえる声でした。
「あなたは、わたしについて語ったが、わたしを知らなかった。あなたは神の国について知っていたが、そこに入ることはなかった。」
そのとき、彼は悟らされました。イエス様との距離を作っていたのは、自分であったこと・・・彼がイエス様と一緒に生きるのを邪魔していたのは、彼自身であったこと・・・信仰生活を空しくしていたのは、彼の自己中心であったこと・・・悟らされました。
そのとき、イエス様は、「あなたのように生きる人の最後を見なさい。」と言われました。
多くの顔が見えました。教会の兄弟姉妹たちでした。自分の行いによって生き、信仰生活を送りながらも、新しく生まれ変わることがない人たち・・・彼らの宗教心が、まるで、牢獄のように彼らを捕らえているにも関わらず、彼らは、その牢獄の中で、自由を感じていました。
しかし、実際は、彼らの宗教心が、彼らを、十字架から遠ざけていました。・・・彼らの最後は、言葉にできないほど、悲惨でした。
イエス様は、再び、語られました。
「新しく生まれることは、行いによって起こるのではなく、心で起こる。多くの人が、わたしを知っていると思っているが、彼らは、心に、わたしを受け入れようとはしない。」
イエス様のことばは、既然としていましたが、そこには批判や裁きはなく、ただ、いつくしみと悲しみがありました。・・・その時、イエス様は、次の聖書のみことばを語られました。
21-23節
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
このみことばは、今まで、彼が、メッセージで、人を脅すように、何度も語ったみことばでした。しかし、今や、このみことばは、彼自身に語られていました。彼のたましいは震えました。
そのとき、イエス様は言われました。
「戻って来なさい。本当に新しく生まれ変わるために戻って来なさい。」
イエス様のことばには、愛が満ちていました。その愛に、彼の心は、打ち砕かれました。イエス様が、もう1度チャンスを与えてくださったのは、彼に何か良いところがあったからではなく、ただ、ただ、イエス様の一方的な恵みとあわれみでした。
彼は、肉体の痛みとともに病院で目を覚ましました。医者は、何の障害もなく、以前と同じように回復するなんて、奇跡だと、いいました。
しかし、もはや、彼は、以前の彼ではありませんでした。かつて、彼のうちにあった、人からの賞賛を求める心は死んでいました。
今まで暗記して来た祈りの言葉は、あまりにも空しくて、もう彼は、以前のように祈ることはできませんでした。彼のあまりの変わりように、妻は心配して、「何があったのか」と尋ねました。
しかし、その時の彼には、答えることができませんでした。妻が霊的に尊敬していた夫であり牧師であった彼が、実は、道を踏み外していたと言うことができず、ただ、ただ、静かに泣きました。
その時の彼は、とにかく、心の底から静寂を求めました。ただ、静かに、神様の声を聞いていたい。誰にも邪魔されないところで、ありのままの自分で、ただ、イエス様の声を聞く方法を学びたい・・・切に願い求めました。
そんな彼に、イエス様は、再び、語りかけてくださいました。・・・聖書を通してでした。彼には、聖書のみことばが、全く新しいことばに聞こえました。・・・次のみことばを読んだとき、彼は、その場で、泣き崩れました・・・このみことばを、本当の意味で理解したからです。
Ⅱコリント人への手紙 5章17節
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
もう、彼は、以前の彼ではありませんでした。
かつての彼は、自分は知っている、答えを持っている、と思っていました・・・しかし、本当は何も知らなかった・・・聖書を読めば読むほど、主が、新しく教えてくださる・・・主よ、もっと知りたいです。主よ、教えてください。ますます、飢え渇いて、主の前で、跪いて祈るようになりました。
彼は、こう語っています。
「かつての私のように、救われたと思い込んでいる信仰深い人が、大勢います。彼らの最後は、あまりにも悲惨です。
しかし、イエス様は、そんな私に、新しく生まれ変わるチャンスを与えてくださいました。
そのチャンスを、イエス様は、あなたにも与えてくださいます。
しかし、お願いします。どうか、私のように、恐ろしい思いをしないでください。
今、すぐ戻って来てください。本当に新しく生まれるために、戻って来てください。」
皆さん、あなたは、イエス様を信じて、新しく生まれましたか。この質問は、他の誰でもなく、自分自身のために問いかけてください。
私は、救われたと思い込んでいるだけの信仰深い人ではないだろうか・・・果たして、私は、本当に、間違いなく、イエス様を信じて、新しく生まれた、神様の子どもなのだろうか・・・そう自分に問いかけて、不安になるとき、その不安を、自分で何とかしようとしないでください。
・・・それは、宗教です。自分で何とかしようとすること、それが宗教です。
信仰と宗教は違います。イエス・キリストの信仰は、私が何とかしようとするのではなく、イエス様が何とかしてくださったことを信じ、受け入れることから、始まります。
私たちが、自分では、どうすることもできないからこそ、イエス様が、私たちのすぐ近くまで来てくださり、私たちの代わりにすべてを成し遂げてくださった。それを、信じ、受け入れることから、信仰が始まります。
ですから、不安を、自分で何とかしようとしないで、すぐ近くまで来てくださったイエス様を、心に受け入れてください。その時、不安は消え去ります。
イエス様は、いのちの光です。私の思い、私の考え、私の心の奥底まで、すべてを刺し貫き、照らし、明らかにする光です。光であるイエス様を心に受け入れるとき、不安、恐れ、孤独、あらゆる闇が消え去ります。
イエス様は、すべての闇を照らし、明らかにする光です。私たちが隠して来た罪も、恥も、汚れもすべてが明らかにされます。しかし、それと同時に、すべての罪は赦され、すべての汚れは洗いきよめられ、私のすべてが愛されていることを体験します。
・・・なぜなら、私たちの救い主イエス・キリストは、いつくしみに満ちた愛、そのもののお方だからです。
テトスへの手紙 3章4-5節
しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。
救い主である神のいつくしみと人に対する愛・・・このいつくしみに満ちた愛・・・私たち人に対するいつくしみに満ちた愛こそ、イエス・キリストです。
イエス様が現れたとき、すなわち、イエス様が私に出会ってくださったとき、私は救われました。
イエス様に出会うなら、救われます。いつくしみに満ちた愛そのものであるイエス様に出会うなら、罪も、恥も、汚れもすべてが消え去り、愛される喜びで満たされます。
どうすれば、イエス様に会えるでしょうか・・・信じるだけです。イエス様を信じるだけです。
あなたに対するイエス様の愛を信じてください。あなたがイエス様を求める以上に、イエス様があなたを求めてくださっています。あなたは、イエス様に愛されています。
あなたが、自分では、自分を救うことができないからこそ、イエス様は、あなたのすぐ近くまで来てくださり、あなたが救われるために必要なすべてのことを成し遂げてくださいました。
イエス様は、今も、あなたのそばにおられます。
ですから、そばにおられることが感じられなくても、「イエス様、私に出会ってください。イエス様、私を救ってください。」・・・祈ってください・・・イエス様は、あなたの祈りを聞いて、答えてくださいます。
イエス様は、今も、待っておられます。・・・あなたを待ってくださる愛なるお方です。
強制することなく、愛を持って、招き続け、あなたが自分から、求めることを、待ってくださるお方です。脅し、傷つけることなく、むしろ、癒し、安心させ、平安を与えてくださる愛のお方です。
あなたを愛するイエス様は、あなたが求めるなら、必ず、出会ってくださいます。
イエス様を求める場所は、教会でなくてもいいです。自分の部屋でもいいです。教会でなければ、会ってくださらないお方ではありません。
大切なのは、心です。「イエス様、会いたいです。私に会ってください。私を救ってください。私を愛で満たしてください。」・・・祈ってみてください。
そして、聖書を読んでください。聖書を通して、私たちは、イエス様の声を聞くことができます。イエス様を信じる信仰をもって、聖書のみことばを聞くなら、イエス様は、その人に分かるように語りかけてくださいます。
皆さん、イエス様は、信じる人にだけ語りかけるのではなく、信じない人にも語りかけています。イエス様は、信じる人も信じない人も、すべての人を愛しています。
しかし、信仰をもって、聖書のみことばを聞く人の耳は開かれます。ですから、信仰をもって聞く人は、聖書を通して、イエス様の声が聞こえて来るのです。
ローマ人への手紙 10章17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
今、この時間、共に、素直な心で、イエス様に祈り求めましょう。
「イエス様、イエス様に会いたいです。
私に会ってください。私を救ってください。私を愛で満たしてください。
イエス様が、私の罪のために、十字架で死んでくださり、よみがえられたこと、
私の救い主となってくださったことを信じます。
イエス様を信じます。イエス様を、私の主として、心に受け入れます。
イエス様、私の人生を導いてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

