【297】2025/6/15 主日礼拝 『主にあって忠実に仕える』 創世記<45:1~8> 斉田基牧師
1節
ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。
ヨセフは、十年以上も、会うことができなかった兄弟たちとの再会のゆえに、自分を制することができなくなりました。
皆さん、実は、この兄弟たちは、かつて、ヨセフを奴隷として売った兄弟たちでした。
兄弟たちの中で、父親に特別に愛されていたヨセフを、兄弟たちは、殺意を覚えるほどに、激しく妬み、ついに、奴隷として、売ったのです。
しかし、奴隷にされたヨセフは、神様によって、引き上げられ、エジプトのナンバー2になっていました。・・・そのヨセフのところに、かつて、ヨセフを裏切り、ヨセフの人生をメチャクチャにした兄弟たちが、やって来ました。・・・そのとき、ヨセフは、自分を制することができなくなった・・・
皆さん、自分の家族や友人など、自分の近くにいた人たちの中で、
あの人さえいなければ、私の人生は、こうはなっていなかった・・・あの人のせいで、私の人生は台無しになった・・・という人がいたとして・・・もし、その人に復讐する力とチャンスが来たとするなら、どうしますか。
2-3節
ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは声をあげて泣きました。そして、「私は、ヨセフです。」と、兄弟たちにカミングアウトしました。兄弟たちは、驚きました。まさか、自分のたちが奴隷として売った弟が、エジプトのナンバー2になっているとは、考えもしませんでした。
4節
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
ヨセフは兄弟たちに、「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです」と言いました。すなわち、あの日、あの時、兄弟たちが、自分にどんなことをしたのかを、ヨセフは、この時も、しっかりと覚えていました。・・・しかし、このように言えるのは、本当に、赦したからです。
5節
私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。
「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください」・・・これは、「もう赦した」と言う意味です。
しかし、ヨセフは、「もう赦したので、私を奴隷に売ったことで、心を痛めないでください」と言ったのではなく、
「あなたがたが私を奴隷に売ったことを、神様が用いて、いのちを救うために、私をここに遣わされた・・・だから、もう心を痛めないでください。」と言ったのです。
ヨセフにとっても、自分を裏切り、人生をメチャクチャにした、兄弟たちがしたことを、赦すことは簡単ではありませんでした。しかし、そのことさえも、神様が、自分を、そして、家族を救うために用いてくださった・・・この神様の救いを知ったとき、心から赦すことができました。
6-8節
というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。
神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。
ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
ヨセフは、私がエジプトに来たのは、あなたがたが私を奴隷として売ったからではなく、神が、大いなる救いのために、私をお遣わしになったからだ、と・・・
私が苦しんだ、あの苦しみは、神様が、私を用いて、大いなる救いを実現するために、私を訓練するための、苦しみだった、と・・・
私の苦しみには、意味があった。あの苦しみがちっぽけに思えるほど、大いなる救い・・・その救いをヨセフは知ることができました。・・・ヨセフが、この大いなる救いを知ることができたのは、苦しみの中にあっても、主のみことばにとどまり続けたからです。
詩篇105篇17-19節
主は一人の人を彼らに先駆けて送られた。 ヨセフが奴隷に売られたのだ。
ヨセフの足は 苦しみのかせをはめられ その首は 鉄のかせに入れられた。
彼のことばがそのとおりになるときまで 主のことばは彼を練った。
神様は、ヨセフを用いるため、苦しみのかせの中で、ヨセフを訓練しました。
苦しみの中にあっても、主から離れないで、主のみことばにとどまり続ける、主にあって忠実に仕える者として、主は、ヨセフを訓練されました。
皆さん、もし、あの人さえいなければ、あの人のせいで、私の人生は台無しになった・・・私はこんなにも苦しんでいるというなら・・・その苦しみは、救いのために用いられる苦しみです。
神様が、ヨセフを用いて、大いなる救いを実現したように、神様は、あなたを用いて、家族を救うため、多くの人を救うために、苦しみによって、あなたを訓練されます。
主にあって、私たちの苦しみは無駄にはなりません。主を愛し、主の計画に立ち返るなら、自分の過失による苦しみであろうが、どんな苦しみであろうが、すべてが益となります。
神様は、救いのために、苦しみによって私たちを訓練されるのです。
へブル人への手紙 5章8-9節
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
イエス様は、私たちの永遠の救いのために、苦しみによって従順を学ばれました。
イエス様に従う私たちも、苦しみによって従順を学び、苦しみによって訓練されます。
皆さん、イエス様が受けた苦しみも、ヨセフが受けた苦しみも、その苦しみを引き起こしたのは、神様ではなく、人です。さらに言えば、人を背後で操っている悪魔です。
苦しみを引き起こすのは悪魔です。神様ではありません。しかし、神様は、神様の目的のために、その苦しみを許されることがあるのです。
悪魔は、苦しみによって、私たちを神様から引き離して、私たちを殺し滅ぼそうとしますが、神様は、その苦しみを用いて、私たちを訓練し、ついには、私たちを用いて、多くの人を救われます。
しかし、苦しみさえも用いて救ってくださる神様から、途中で離れてしまうなら、苦しみは、救いをもたらすものではなく、悲しみと不幸をもたらす苦しみになってしまいます。
ヨセフは、苦しみの中でも、最後まで、主から離れませんでした。それは、ヨセフが、苦しみの中でも、一日、一日、主にあって忠実に仕えることを選んだからです。ヨセフは、何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、忠実に仕えました。
コロサイ人への手紙 3章22-23節
奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
奴隷として売られたヨセフは、まず、エジプトで、ポティファルという人の家で、主にあって、忠実に仕えました。
主は、主にあって忠実に仕えたヨセフを祝福されたので、ヨセフは、その家のナンバーワンの奴隷に引き上げられました。
そのように、人生が良くなり始めたと思った矢先に、なんと、ヨセフは、無実の罪で、牢獄に入れられてしまいます。
無実であったにも関わらず、奴隷よりも酷い、第一級犯罪者としての牢獄生活を強いられるのです。・・・しかし、何と、ヨセフは、それでも腐ることなく、その牢獄で、主にあって忠実に仕えました。
清く正しく一生懸命に生きていたのに、何も悪いことをしていなかったのに、不当な苦しみに襲われ続ける・・・そんな私を慰めてくれる家族はそばにいない。・・・むしろ、家族に裏切られたことが、私の不幸の始まり・・・しかも、牢獄にいるので、教会にも行けない。
話を聞いてくれて、励ましてくれて、祈ってくれる兄弟姉妹もいない。希望を与える聖書のメッセージを聞くこともできない。そのような状況でも、ヨセフは腐りませんでした。
ヨセフは、その牢獄の中でも、主にあって忠実に仕え続けました。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように忠実に仕えました。
主は、そのように、不当な苦しみの中でも、主にあって忠実に仕えることを選んだ、ヨセフを祝福してくださったので、ヨセフは、その牢獄の中でも、引き上げられて、ナンバー1になりました。
主にあって、忠実に仕えることを選ぶ人を、主は、必ず、引き上げてくださいます。
最終的に、ヨセフは、エジプトの王の夢を解き明かすことによって、第1級犯罪者の入る牢獄から、エジプトのナンバー2にまで、引き上げられました。
そして、ヨセフは、それから世界を襲うことになる、7年間に渡る世界的な食料難から、自分を救うだけでなく、家族も、エジプトの国も、周りの国々をも、救うために、神様に用いられました。
もし、ヨセフが、不当な苦しみのゆえに、主から離れてしまっていたなら、その苦しみは、ヨセフに悲しみと不幸をもたらす苦しみで終わっていました。
しかし、ヨセフが、その苦しみの中にあっても、一日、一日、主に信頼することを選び、主にあって忠実に仕えることを選び続けたからこそ、主は、ヨセフを祝福し続けることができ、どんな苦しみの中でも、主はヨセフを引き上げ続けることができ、ついには、ヨセフを用いて、家族も、国々さえも救うことができました。
皆さん、もし、過去のトラウマ・・・あの苦しみさえなければ、ということがあったとしても、
神様のもとに行きさえするならば、神様は、その苦しみさえも用いて、あなたを祝福することができます。
しかし、神様のもとに行かなければ、苦しみは、悲しみと不幸をもたらすものだけのものとなり、この苦しみは、あの人のせいだ。あのことさえなければ・・・という、苦々しい思いを引き起こし続けます。
しかし、このことを覚えてください。神様が、敢えて、その苦しみをあなたに許されたということは、それは、それだけ、あなたは、神様に信頼されているということです。
神様は、あなたを愛しているからこそ、その苦しみを遥かに越えた祝福と、救いのために、あなたを用いたいと、願っておられます。
しかし、神様が、そのように、あなたを用いるためには、訓練が必要です。
イエス様でさえ、私たちの救いのために、苦しみによって従順を学ばれました。
私の家族が救われるためには、私は訓練される必要があります。主にあって忠実に仕える訓練です。
忠実に仕えて行くなら、必ず、主が引き上げてくださる日がやってきます。そのとき、すべてが感謝に変ります。
人から受けた傷も、良いことも、悪いことも、すべてに意味があったことが分かるようになります。主にあって忠実に仕えて行くなら、何か、意味もなく、苦しんで、傷つけられて、それで終わりにはなりません。・・・ああ、この苦しみは、この大いなる救いのためだったのかと分かる時が来ます。
そのために、一日、一日、今日という日に、主にあって忠実に仕えること、ヨセフのように、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、忠実に仕え、主にとどまります。
ある男性は、主イエスを信じて、一日、一日、主にあって忠実に仕えた結果、主に祝福され、職場でも引き上げられました。
高速道路や橋を建設する作業所の所長になりました。
そのような職場では、ほとんどの場合、神道式で、安全祈願をしなければなりません。しかし、主イエスを信じた、彼は、一切、それをしませんでした。
むしろ、神棚を飾るところには、イエス様のこの降誕のお人形を飾りました。
神様も、主にあって忠実に仕えることを選んだ彼を祝福してくださり、なんと、彼が所長になってから、ずっと無事故で、表彰され続けました。
ところが、ついに、今回は、安全祈願をするようにという、お達しが、上から来てしまった。
彼はどうしたでしょうか。・・・彼は、今まで、主にあって、忠実に仕えることを選んで来たように、その時にも、主にあって忠実に仕えることを選びました。
「私は、クリスチャンなので、それはできません」と答えました。
そして、教会の兄弟姉妹たちみんなにも、そのことを分かち合って、祈ってもらいました。
すると、何と、キリスト教式で、安全祈願をすることになりました。前代未聞でした。
彼の教会の牧師夫妻と、祈ってくれた兄弟姉妹も一緒に参加し、短い時間ではありましたが、
なぜ、イエス様にお祈りをすると聞かれるのか、イエス様こそが、天地の造り主であり、本当にイエス様が愛してくださっているということを、牧師が、大胆にメッセージされました。
今や彼を通して、救いが起こっています。
これらのことは、彼が、一日一日、主にあって忠実に仕えることから始まりました。毎日、主にあって忠実に仕えることを選ぶことによって、主の恵みと祝福を体験しました。
・・・ああ、今日も、主は、この恵みを与えてくださった。主よ。感謝します。ああ、主は、今日も、このことを守ってくださった。ああ、今日も、主は、このことで、祝福してくださった。主よ。心から感謝します。
一日、一日、今日という日に、主にあって忠実に仕えることによって、主の恵みを体験し、主に信頼するなら、失望させられることがない、信仰が与えられました。
それゆえ、いざという時にも、主にあって忠実に仕えることを選んだのです。
私たちも、一日、一日、今日という日に、主にあって忠実に仕えることを選んでいきましょう。

