【290】2025/4/27 主日礼拝 『岩の上に』 マタイの福音書<7:24~27> 斉田基牧師

 

24-25節
 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

イエス様のことばを聞いて、それを行う者は、岩の上に自分の家を建てる賢い人のようであり、聞いても、行わない者は、砂の上に家を建てる愚かな人のようだ、と、言われていますが、
イエス様は、何を教えたくて、このように言われたのでしょうか・・・みことばは聞くだけではダメだから、ちゃんと、行いなさいということを教えたかったのでしょうか・・・そうではありません。

ここで、イエス様が、一番、教えたかったことは、岩の上に土台を据えることです。
岩の上に土台を据えたなら、洪水に襲われても、倒れない。しかし、据えていなければ、倒されてしまう。

ですから、一番大切なことは、岩の上に土台を据えること・・・すなわち、救いの岩であるイエス様に土台を据えることです。
家の土台を、岩の上に据えると、岩と家が一体となり、一つになります。同じように、私の土台を、イエス様の上に据えると、私とイエス様が一つになる・・・ですから、イエス様と、あなたが一つにされることが、何よりも大切だということを、イエス様は、教えているのです。

イエス様と一つにされるために、みことばを聞いて行うことを選びなさいと言うのです。
しかし、みことばを行う、私の行いによって、イエス様と一つになることができると言う意味ではありません。・・・みことばを聞いて、行うとき、私たちの心は貧しくなって、イエス様を、切に求めるようになると言う意味です。

今日、読んだ、マタイの福音書7章のみことばは、イエス様が、5章から語り始めた、メッセージの結論です。そのメッセージの中で、イエス様は、物凄いことを語っています。
マタイの福音書 5章27-28節
 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。

実際に行動して、罪を犯さなくても、心の中で、罪を犯したいと思うだけで、すでに、心の中で罪を犯している・・・これだけでも、みことばを守なんて無理だと思いませんか。・・・しかし、まだまだあります。・・・「敵を愛しなさい。あなたを傷つけ、苦しめる人を祝福しなさい。あの赦せない人を、赦しなさい。・・・極めつけは、神様が完全であるように、あなたも完全でありなさい。」

・・・皆さん、そのように、不可能にしか思えない、みことばの命令を聞いて、それでも、みことばを行おうと思いますか。
ああ、このみことばは、絶対に無理・・・このみことばなら、行えるかもしれない・・・そのように、選んで、みことばを行うことは、実は、行わないことと、同じだと聖書は言います。・・・聖書で、みことばを行うということの意味は、すべてのみことばを行うことです。

そんなの絶対に無理・・・そうです。実は、イエス様は、私たちに、自分では、みことばを行うことができないことに、気づいて欲しい・・・私には絶対にできないけれども、イエス様が助けてくださるならできる。・・・だからこそ、私には、イエス様が、必要であることを悟って欲しい。

ですから、このメッセージを語ったイエス様の目的は、私たちにみことばを行わせることではなく、イエス様の助けがなければ、みことばを行うことができないことを、私たちに悟らせること・・・イエス様なしでは生きられないことを悟って、私たちの心が貧しくされることです。
・・・イエス様なしでは生きられない。イエス様の助けなしでは、何もできないという、心の貧しさを、私たちに与えるために、イエス様は、このメッセージを語られました。だから、メッセージの一番最初に、イエス様は、こう言われたのです。
マタイの福音書 5章3節
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

心の貧しい者は幸いです・・・すなわち、イエス様なしでは生きられない人は幸いです・・・なぜなら、イエス様は、そのように、イエス様を求める人たちのものだからです。
イエス様の助けなしでは、何もできない人は幸いです。その人は、イエス様の助けを受けて、どんなことでもできるからです。

この心の貧しさは、みことばを聞くときに与えられます。自分がみことばを行うことができた時ではなく、自分には絶対に行うことができないみことばを、それでも、へりくだって聞き続けるとき、心の貧しさが、与えられます。
ですから、イエス様を信じる心で、みことばを聞き続けることが大切です。
イエス様は、一番、大切な神様の命令は、申命記に書かれている次の命令だと言われました。
申命記 6章4-5節
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

皆さん、ここで、神様は、何を命じていますか・・・「聞きなさい」そして、「愛しなさい」という二つの命令があるように、見えますが・・・実は、原文では、命令形で命じられているのは、一つだけです。「聞きなさい」だけです。・・・ですから、ここは、「聞きなさい。そうすれば、あなたは、主を愛するようになる」という意味になります。
聞きなさい。とは、聞き続けなさい。という意味です。・・・ですから、一番大切な命令は、「主のみことばを聞き続けなさい。そうすれば、あなたは、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛するようになる」ということです。
えっ、聞くだけでいいんですか?・・・でも、やっぱり、聞くだけではなく、愛する努力も必要でしょう・・・そうかもしれません・・・しかし、大嫌いな人を、好きになろうと努力すれば、好きになることができるでしょうか。・・・愛せない人を、愛そうと努力すれば、愛せるようになりますか・・・もちろん、ある程度までは、愛せるでしょう・・・しかし、神様が求めている愛は、いのちを捨てる愛です。努力するなら、敵のためにいのちを捨てるほど、愛せるようになるでしょうか。

神様が、私たちに命じているのは、愛しなさいではなく、聞きなさいです。主のみことばを聞き続けなさい。そうすれば、主を愛するようになると、神様は、約束してくださっています。
申命記30:6
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。

このみことばの主語は、あなたの神、主です。すなわち、あなたの心に割礼を施してくださるのは、主です。
あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、主を愛するようにしてくださるのも、主です。
そして、あなたが主を愛することによって、生きるようにしてくださるのも、主だというのです。

皆さん、私たちが、「愛しなさい。愛しなさい。愛しなさい。」と、どんなに命じられたとしても、私たちには、愛することができないことを、主は、ご存じです。だからこそ、主が、私たちを愛することができるようにしてくださいます。

主が、私たちに命じていることは、聞くことです。主のみことばを聞き続けることです。
ただ、聞くのではなく、私をお造りになった全能の神様が、今、私に語りかけてくださる、神のことばとして聞くことです。
神のことばを聞き続けるなら、あなたは、愛を知ります。・・・神は愛です。神は、あなたを愛しているから、神のことばを、あなたに語り続けます。
Ⅰヨハネの手紙 4章10節
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神のことばを聞き続けるなら、神の愛を知ります。私を救うために、すべてを犠牲にしてくださったイエス様の愛を体験します。
私のために死んでよみがえられたイエス様、不可能を可能にしてくださったイエス様の愛に満たされるとき、もう、私にできるか、できないかは、関係なくなります。

主が、私に語りかけてくださるなら、どんなみことばでも、従うことを選ぶようになります。
今も、私のうちに生きておられるイエス様が、私に命じてくださるなら、不可能なみことばでも、従うことを選ぶようになります。
ですから、主のみことばを聞き続けて、神の愛にとどまり続けることがいのちです。

Ⅰヨハネの手紙 4章16章
 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

主のみことばを聞き続け、愛のうちにとどまるなら、私たちは神の愛に満たされます。
だからこそ、主は、愛しなさいではなく、まず第一に、「聞きなさい」と命じられました。・・・そうすれば、主を愛するようになるからです。

しかし、時に、私たちは、主のみことばを聞き続けて、主の愛にとどまるよりも、いつの間にか、主のみことばから離れて、自分の愛で愛そうとしてしまうのです。
ルカの福音書 10章38-42節
 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

主のみことばを聞き続けなさい・・・これが第一の命令です。そして、イエス様が言われた、必要な、ただ一つのことも、主の足もとで、主のみことばを聞き続けることです。
しかし、マルタは、今は、主のみことばに聞き続けるよりも、私が主を愛して、私が主をもてなす方が大切だと考えて、行動しました。
最初は、喜んでしていたのですが、どんどん負担を感じていき・・・ふと見ると、妹のマリアが、主の足もとで、幸せそうに、主のみことばを聞き続けている・・・それを目にした、マルタは、イライラしました。何故ですか・・・自分の方が正しいと思ったからです。
聞いているだけのマリアよりも、行いをもって、愛している自分の方が絶対に正しい・・・マリアは間違っている・・・そう思って、主に文句を言いました。

そんなマルタに対して、主は、「マルタ、マルタ」・・・溢れるばかりの愛をもって、語りかけました。・・・聖書で、二度名前を呼ぶ表現は、その人に対する溢れるばかりの愛情の表現です。
この時、マルタは、「マルタ、マルタ」と、自分の名前を呼んでくださる、主のみことばを聞きました。主が、他の誰でもなく、私に語りかけてくださる、今、主は私を愛して、私に語りかけてくださっている。・・・この時、マルタは主のみことばを聞きました。・・・このみことばが、主の口から出た、みことばが、マルタの人生を変えました。その後、マルタは、喜んで仕えるようになりました。

主を愛する自分の行いが、マルタを変えたのではありません。むしろ、主を愛する自分の行いによって、マルタは、妹を批判し、主に文句を言いました。
しかし、そんなマルタに、主は、「マルタ、マルタ」と、みことばを聞かせてくださった。マルタは、はからずも、この時、主のみことばを聞くという、第一の命令を、主にさせてもらったことになります。そのようにして、主のみことばを聞く恵みを受けた、マルタの人生は変えらた。

皆さん、主が、マルタに、主のみことばを聞く恵みを与えてくださったように、今も、主は、あなたに、主のみことばを聞く恵みを与えてくださいます。
主は、あなたを愛しているから、今も、語りかけてくださいます。

ある集会で、メッセンジャーが、メッセージの中で、「主イエスの御名によって、立ち上がりなさい」と語ったとき、突然、一人の男性が立ち上がりました。
彼は、「私は自分の名前が呼ばれるのを聞きました。メッセンジャーが私の名前を呼びました。」というのです。
しかし、メッセンジャーは「いや、私は呼んでいない」と思いましたが、彼は、「あなたが私の名前を呼んだので、私は立ち上がりました。」

・・・皆さん、彼は、誰の声を聞いたのでしょうか・・・彼の名前を呼んだのは、誰でしょうか・・・主です・・・彼は、足の不自由な方でした・・・しかし、彼の名を呼ぶ、主の声を聞いて、立ち上がったとき、癒されました。

また、別のある集会では、歩くことができない女性が、家族に連れて来てもらって、地面に横たわっていました。メッセンジャーが、地面に横たわっている女性について語ったとき、彼女は、それが自分だと分かったと言います。
そこには、何万人もの人がいて、同じような状態の女性が大勢いました・・・しかし、彼女は、「それは、私のことだと分かった。」それで、立ち上って、癒されました。

皆さん、彼らは、メッセンジャーの語る、主のみことばを、メッセンジャーの言葉としてではなく、メッセンジャーを通して、主が私に語ってくださる、みことばとして受け取りました。

メッセージを、メッセージとして聞いていた人は、主が私に語ってくださる、みことばとして、受け取ることができなかった。

皆さん、私たちを救う力は、主のみことばにあります。人生を変える力は、主の口から出るみことばにあります。
マタイの福音書 4章4節
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

神の口から出ることばに力があります。神の口から出ることばです。すなわち、神様と顔と顔を合わせて、神の口から、今、私に語りかける、神のことばに、私を救う力があります。私を癒す力があります。神のことばに、現実を変える力があります。
神の口から出ることば、今、主が、私に語りかけてくださる、みことばを聞くことを求めて、みことばを聞き続けること・・・それが、第一の命令です。

メッセージを聞くときも、メッセージとして聞くのではなく、このメッセージを通して、主が、私に語りかけてくださる、みことばを待ち望みながら、聞き続けることが大切です。

自分で聖書を読むときも、ただ、聖書という本に書かれている文字を読むのではなくて、主は、今も私を愛して、聖書のみことばを通して、私に語りかけてくださる・・・信仰をもって、主のみことばを聞き続ける・・・それが、主の第一の命令に従うことです。

私を救う力あるみことば、現実を造り変える力あるみことばを聞くことを追い求めましょう。
私だけではなく、愛する人々を救う力あるみことばを、主は、今、私に語りかけてくださる、この信仰をもって、主のみことばを聞き続けましょう。