【289】2025/4/20 主日礼拝 『わたしは死んだが、見よ、生きている』 ルカの福音書<19:1~10> 斉田基牧師

 

イエス・キリストは、よみがえられました。今も、生きている救い主です。
死んだ人は、人を救うことはできません。死人が、生きている私たちと関わりを持って、私たちの人生を変えることはできません。
イエス・キリストは、今も、生きているからこそ、私たちを救い、私たちの人生を変えることができます。
黙示録1章18節  真ん中の部分 
 わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。

イエス・キリストは、私たちの罪を赦すために十字架で死なれました。しかし、神様と一緒に生きるいのち、永遠のいのちを、私たちに与えるために、よみがえられました。
死んだイエス様ではなく、今も生きているイエス様が、私の罪を赦し、私を救ってくださった。

生きているイエス様に出会うとき、人生が変えられます。・・・取税人のかしらザアカイが、そうでした。
当時のユダヤの社会において、取税人は、非常に嫌われていました。
取税人は、同じユダヤ人でありながら、ユダヤ人を苦しめ、支配していたローマ人のために税金を取り立てました・・・しかも、取り立てる金額は、取税人が自由に決めることが許されていました。
ですから、税金が一万円でも、二万円を取り立てて、一万円を懐に入れることもできれば、十万円を取り立てて、九万円を懐に入ることさえできました。・・・つまり、取税人というものは、お金に汚くなれば、汚くなるほど、儲かる仕事でした。・・・ザアカイは、その取税人のかしらだったので、・・・当然、人々からは、とても嫌われていました。

・・・そんなザアカイの人生が、変えられた。
「主よ、ご覧ください。財産の半分を貧しい人に施します。脅し取った物があれば、4倍にして返します。」
皆さん、・・・そんなことをしたら、手元に何が残るでしょうか・・・しかし、ザアカイには、もう、何も必要なかったのです・・・イエス様がザアカイのところに来てくださったから。
イエス様が、こんな罪人の私を愛してくださった。こんなに汚れているのに、それでも、イエス様は、ありのままで、私を愛してくださった。

ザアカイにとって、イエス様は、最初は、死んだ人でした。関係において死んだ人、自分とは全く、関係のない人でした。まさか、イエス様が私に関心を持ち、私の名前を呼んで、親しく話しかけてくださるとは、思ってもいませんでした。

ザアカイは、イエス様という素晴らしい方が、もうすぐ、この町に来られると、聞いて、一目、見てみたいと思っただけでした。・・・木に登って、イエス様を見るだけのつもりでした。遠くから見るだけで十分だと思いました。・・・しかし、それは、イエス様には、十分ではなかった。
イエス様は、まっすぐに、ザアカイが登った木の下にまで来られ、言われました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

「ザアカイ、わたしは、もう決めている。わたしの目にはあなたは、高価で尊い。わたしはあなたを愛しているから、わたしはあなたに関わることを、もう決めている。」

このイエス様との出会いが、ザアカイの人生を変えました。
イエス様にありのままで愛されたザアカイは、本当の自分を取り戻しました。
この時、ザアカイは悟りました。もっとお金持ちになれば、幸せになれるわけではなかったこと。
もっと、いい人になれば、愛されるのでもなかったこと。

どんなに悪くても、ありのままで、愛される。無条件に愛される・・・この愛を受け入れたとき、本ザアカイは、本当の自分を取り戻し、本当の幸せを手に入れました。

皆さん、多くの人が、「私は、もっと良い人間でなければならない」という思いに縛られて、本当の自分を隠します。本当の自分を出すのを恐れます。
本当の自分を、正直に出せるのは、それでも、愛されるときです。

たとえ、本当の自分がどんな姿であっても、無条件に愛される・・・ザアカイは、この愛を受け入れました。・・・愛に満ち満ちたイエス様を受け入れました。
イエス様を受け入れるまでは、ザアカイにとって、イエス様は死人でした。関係ない人でした。

かつての私も同じでした。イエス様の愛が分からなかったとき、イエス様は、私にとって死人でした。関係ない人でした。しかし、この愛を知ったとき、人生が変えられました。

それまでは、自分の幸せのために生きていました。しかし、私では絶対にできないぐらい、イエス様が、私を満たし、幸せにしてくださった・・・もう自分のためではなく、イエス様のために生きたい、私を愛し、私を救ってくださったイエス様のために、すべてをささげたい。
・・・イエス様、あなたとあなたが愛してい人々のために生きたいです・・・人生の目的が変わりました。
Ⅱコリント人への手紙 5章14-15節
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

私たちのために死なれたイエス様は、よみがえられ、今も生きています。
しかし、イエス様の愛を知るまでは、イエス様は、私にとって、死人でした。関係ない人でした。

・・・皆さん、あなたにとっては、どうですか。・・・イエス様は生きていますか。死んでいますか。
『わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。』

ザアカイの名前を呼ばれたイエス様は、今日、あなたの名前を呼ばれます。
「わたしは、今日、あなたの家に泊まることにしている。・・・もう決めた。
あなたは、わたしの愛する者だから、遠くにいないで、わたしに近づきなさい。
・・・わたしは、あなたに関わること、あなたを愛することを、もう決めている。」

イエス様の愛があなたを満たし、本当の意味で、あなたを自由にします。
無条件で愛されるからです。

愛されるために、もっと、いい人になる必要がなくなります。
失敗して、愛されなくなる心配もなくなります。

どんなに悪くても、ありのままで、無条件に愛してくださる・・・いのちを捨てた愛で、これ以上ない最高の愛で、愛してくださる、イエス様が、あなたを、本当に自由にします。
今も生きているイエス様を信じ、受け入れるなら、あなたは、本当の自分を取り戻し、本当の幸せを手に入れます。
ヨハネの福音書 1章12節
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

イエス様を信じ、受け入れるなら、あなたは神様の子どもです。神のひとり子イエス様と同じ、神様の子どもです。

もはや、罪を犯して、罰を受け、見捨てられてしまうかもしれない罪人として愛されるのではなく、イエス様と同じ神様の子どもとして、愛されます。
この全き愛が、私たちのうちから恐れを締め出すのです。
Ⅰヨハネの手紙 4章16-19節
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

イエス様を信じ、心に受け入れるとき、神様の愛が私のうちにとどまります。自分が、イエス様と同じ神様の子どもとして愛されていることが分かります。
ですから、たとえ、罪を犯しても、だらしないところがあっても、愛されている・・・絶対に見捨てられることがない・・・イエス様を信じ、受け入れたからです。
今も、私のうちに生きておられるイエス様が教えてくださる。私がイエス様と同じ神様の子どもとして愛されている確信を、イエス様が与えてくださる。全き愛が、恐れを締め出します。

愛されているので、自分の弱さ、足りなさを見せることができる。
絶対に見捨てられることがないので、自分の罪や失敗を正直に話すことができる・・・正直に話す度に、また、赦されて、また、愛されて、「ああ、それでも、私は、愛されている、本当に、私は神様の子どもなんだ」と・・・全き愛が恐れを締め出します。

テストで、いい点数を取ったら、マラソン大会で、10以内に入ったら愛される・・・そのような条件付きの愛ではありません。
勉強ができなくても、運動ができなくても、「あなたは私の愛する子、あなたが私の子であることが私の喜びだ」と、・・・無条件に愛される喜びを知った子どもは、自分がありのままで愛されたように、他の人をありのままで愛するように変えられていく・・それが、神様の家族、教会です。

私は、牧師だから、礼拝でメッセージを語り、みことばを教える立場だから、実は、愚かで、罪を犯し、倒れてしまいやすい弱さがあるというのは、恥ずかしいし、いいところだけを見せようと、思うなら、ずっと、本当の自分を隠さなければならない・・・しかし、無条件で愛されているから、正直に自分を出します・・・そんな私を愛し救うために、死んで、よみがえられたイエス様が、今も、私のうちに生きておられるからです。

たとえ、立派な夫でなくても、立派な父親でなくても、イエス様を信じ、受け入れたから、神様の子どもとされました。無条件で愛されています。
たとえ、素晴らしい妻でなくても、良い母親でなくても、イエス様を信じ、受け入れたから、神様の子どもとされました。ありのままで愛されています。・・・もう何も隠す必要がなくなっていきます。

・・・すると、「ああ、こんな酷い人でも、神様は、この人を愛し、幸せな人生を与えてくださるのか。・・・ああ、こんなに酷い夫でも、神様は、あわれんで、家庭を回復してくださるのか。・・・実は、私も酷いんです。実は、私の家庭にも、こんな問題があります。」
・・・互いに正直に話すことができるようになっていきます。・・・そして、何を聞いても、誰も批判しない、だれも責めない。むしろ、悲しんでいる人と一緒に悲しみ、その悲しみが慰められるように、互いに祈り合う。・・・それが、神様の家族、教会です。

まず、自分が愛されたからです。どうしようもなかった自分が、ただ、イエス様を信じ、受け入れた・・・それだけで、無条件に愛され、変えられました。
・・・だからこそ、「ああ、あの人、クリスチャンなのに、何であんなことするのとか、ああ、あの子は何て我がままなんだ。親の育て方は、どうなっているのか」などと、批判することができなくなります・・・自分がそれ以上に悪い状態であったのに、ありのままで愛されたからです。

ありのままで、愛してくださるイエス様が、私たちのうちに生きておれるので、互いに受け入れ合い、愛し合う・・・それが、神様の家族、教会です。
そのようにありのままで、愛し合うとき、人は変えられていきます。ありのままで愛されたザアカイが変えられたようにです。

そのように、愛し合う愛の源は、私たちのうちに、今も生きておられるイエス・キリストです。
もし、まだ、イエス様を信じ、受け入れていないというなら、今日が、その日です。

今まで、あなたにとって、イエス様は、死んだ人、関係ない人だったかもしれません。
まさか、イエス様が私に関心を持って、親しく私に語りかけ、愛してくださるとは、思ってもいなかったかもしれません。

しかし、ザアカイの名前を呼ばれたイエス様は、今日、あなたの名前を呼んでいます。
「わたしは、今日、あなたの家に泊まることにしている。・・・もう決めた。
急いで降りて来なさい。遠くにいないで、わたしに近づきなさい。
・・・わたしは、あなたに関わること、あなたを愛することを、もう決めている。」

今日、イエス様を自分のうちにお迎えするあなたに、イエス様はこう言われます。
ルカの福音書 19章9-10節
 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」