【288】2025/4/13 主日礼拝 『感覚ではなく、信仰で歩む』 出エジプト記<14:10~18> 斉田基牧師

 

私たちは、来週の復活主日に向けて、大切な人たちの救いを特別に祈っています。
人を救うことができるのは、神様だけです。・・・ですから、救いために祈ることは、神様の救いのわざを、一緒にさせてもらう恵みに与かることです。

しかし、そのように神様と一緒に恵みのわざを行い、神様と一緒に歩むためには、自分の感覚ではなく、信仰で歩むことを選ばなければなりません。なぜなら、神様は困難によって栄光を現されるからです。
17節
 見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。

主は、エジプトの大軍によって、栄光を現されました。イスラエルにとって、エジプトの大軍は、大きな困難でした。・・・神様は、敢えて、その困難によって、栄光を現されました。

もし、現実を見て、自分の感覚で歩むなら、私たちも、イスラエルのように、困難を見る度に、「もうダメだ。こんなことになるぐらいなら、エジプトに帰りたい。」と言いたくなるかもしれません。

現実よりも、みことばを見る・・・自分の感覚よりも、信仰で歩むことを選ぶ・・・現実を見る自分の感覚ではなく、みことばを信じる信仰で歩まなければ、神様の救いのわざを一緒にさせてもらう恵みに歩むことができなくなります。
主イエスを信じて、神様と一緒に歩む人生には、必ず、困難や試練があるからです。
Ⅰペテロの手紙4章 12節
 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

燃え盛る試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけない・・・すなわち、試練が起こることは、当たり前なのだから、「なぜ、試練が起こるのか」と、驚いたり、不思議に思ってはならないと言うのです。

しかも、ただの試練ではなく、燃え盛る試練・・・神様と一緒に歩むなら、物凄いレベルの試練が、当たり前だと言うのです。・・・それでも、神様と一緒に歩みたいと思うでしょうか。

もし、困難を見て、自分の感覚に従うなら、イスラエルのように、「神様を信じて、こんなことになるぐらいなら、信じない方がマシだった」と言いたくなるかもしれません。
だからこそ、現実よりも、みことばに目を留めなければなりません。みことばに目を留めるなら、主は、その困難によって、栄光を現してくださいます。
現実よりも、みことばを見る信仰によって、主と一緒に歩む人にとって、困難は、主の栄光と勝利の材料です。だからこそ、困難を喜んで、主と一緒に歩むことができます。
しかし、自分の感覚で、現実を見るなら、「どうして、こんなことになってしまったのか。どうして、上手く行かないのか。どうして、失敗ばかりするのか。・・・ああ、私が悪かったのか、それとも、あの人が悪かったのか、もしかすると、あのことのせいかもしれない。」
そのように、自分や人や状況から、困難が起こった原因を探し始めます。

困難が当たり前であることを知らないから、困難が起こると、その原因を探します。
しかし、困難が当たり前で、その困難によって神様は栄光を現すことを、みことばから悟るとき、困難が起こる度に、
「ああ、今、私は神様と一緒に歩む正しい道を歩ませていただいている・・・今回も、主により頼んで、この困難を、主と一緒に乗り越えよう。」・・・そのように、みことばを信じる信仰によって、主と一緒に歩むようになります。
しかし、自分の感覚で、現実を見るとき、イスラエルのように恐れてしまうのです。
10-12節
 ファラオは間近に迫っていた。イスラエルの子らは目を上げた。すると、なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか。イスラエルの子らは大いに恐れて、主に向かって叫んだ。
そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」

エジプトの大軍を見て、イスラエルは大いに恐れました。・・・その恐れの故に、「私にかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ。」と言いました。

皆さん、誰かを助けようとした時に、「もう、私にかまわないで。・・・面倒くさいから、やめて!」・・・と言われたことがあるかもしれません。
「私にかまわないで!」・・・と言う、その心は、今、私は本当に幸せだから、今のままでいたいから、かまわないで、という心ではありません。・・・本当は、良くなりたいけど、今の私が良くなるなんて不可能だと、諦めてしまっている心です。

目の前の問題が、あまりにも大き過ぎて、とても解決でないと思い込んでいる・・・頑張っても、無駄になって、がっかりするぐらいなら、今まで通り、問題の中にいる方がマシ・・・そのように諦めてしまっている心です。

イスラエルは、エジプトの大軍を見たとき、「エジプトに仕えさせてくれ」・・・すなわち、「エジプトに帰りたい。奴隷の方がマシだった。」と言いました。
・・・考えられますか・・・つい数日前、神様が、エジプトから救い出してくださったばかりです・・・「主よ、つい数日前、救ってくださったように、今日も、私たちを救ってください。」と、なぜ、祈らないのでしょうか。なぜ、「エジプトに帰りたい。奴隷の方がマシだった。」と言うのでしょうか。

・・・それは、イスラエルの心が、未だに、エジプトの奴隷として、捕らわれていたからです。
体は、奴隷から救い出され、自由にされていました、しかし、心が、未だに、奴隷のままでした。
・・・実に、イスラエルは、荒野の四十年の間ずっと、困難が起こる度に、「エジプトに帰りたい」と言い続けました。・・・困難が、イスラエルの心を明らかにしたのです。

ちょっと前まで、イスラエルは、「ハレルヤ!主は、私たちをエジプトから救ってくださった。」と、喜んでいました。しかし、エジプトの大軍を見たとき、「エジプトに帰りたい」と言ったのです。
私たちも、困難を見たとき、「ああ、こんなことなら、昔に帰りたい。」と、言ってしまうかもしれません。・・・そのように、神様は、困難によって、私たちの心を明らかにされます。
申命記 8章2-3節
 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

神様が、苦しみによって、私たちの心を明らかにされる目的は、未だに、何かに捕らわれ、奴隷にされている、私たちの心を、自由にするためです。
私たちが、主の口から出るみことばで生きることによって、私たちの心を自由にするためです。

主イエスは、「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは、真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」と言われました。・・・主の口から出る、真理のみことばが、私たちを自由にします。
13節
 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。

「恐れてはならない」・・・恐れは、私たちを奴隷にします。
人を恐れると、人目が気になって、したいことができなくなります。
コロナという現実を見て、恐れた結果、多くの人が外出する自由を奪われました。・・・恐れというものは、私たちから、自由を奪い、私たちを奴隷にします。
だからこそ、主は、「恐れてはならない。みことばにしっかりと立ちなさい。」と命じられます。

ですから、困難な時こそ、みことばにしっかり立ちましょう。
もちろん、恐れたくなくても、恐ろしくなることはあるでしょう。恐ろしいという感情がやって来るのは仕方ありません・・・しかし、恐れの感情がやって来たとき、その感情に流されないように、みことばにしっかりと立つことを選ぶことが大切です。
恐れが来たときに、どっちを選ぶか、です・・・現実を見て、恐れる自分の感覚で歩むのか、みことばを見て、信仰で歩むのか。どちらかです。

状況や感情に流される人は、イスラエルのように、「もうだめだ。エジプトに帰りたい。」と思います。しかし、みことばに、しっかりと立つ人は、そこで、みことばを選び始めます。

みことばにしっかりと立つとき、『あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。』という、みことばを確信する心を、神様が、与えてくださいます。

今日、あなたが見ている困難な現実を、もはや永久に見ることはない・・・今まで、長年 しつこく、あなたを苦しめて来た問題・・・家庭の問題、職場の問題、経済の問題・・・もし、問題よりも、みことばを見ることを選び、しっかりと立つなら、今日、あなたが見ている問題を、主が解決してくださり、その問題を、もはや永久に見ることはない・・・と、確信する心が与えられます。

ですから、私たちは、いつもみことばを見ることを選びましょう。
聖書は、本棚に置いておくためのものではありません。聖書のみことばは、毎日、見るためのものです。いつも、聞くためのものです。みことばにしっかりと立つことができるまで、みことばを思い巡らし続ける必要があります。
15節
 主はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。

主は、「前進しなさい」と命じました。・・・考えられますか・・・前進どころか、「エジプトに帰りたい」と言っているイスラエルに、前に進みなさいと言うのです・・・しかも、前に進もうにも、イスラエルの前には、海がありました。イスラエルの前には、イスラエルが前に進むことを邪魔する大きな問題がありました。・・・それでも、主のみことばは、前に進みなさい、と命じました。

多くの人は、問題を解決してから、進もうとします。しかし、主のみことばは、ただ、「前に進みなさい」と命じました。問題があって、自分の感覚では、前に進むことなどできないと思えても、主のみことばに目を留めて、信仰によって、前に進みなさい。と命じているのです・・・なぜでしょうか。

問題が解決してから前に進む、海が分かれる奇跡を見てから、前に進む・・・それは、信仰でしょうか・・・海が分かれる奇跡を見てからなら、信仰のないエジプト人でも前に進みました。

問題が解決してからなら、信仰がなくても、前に進むことができます。
しかし、まだ問題が解決していないとき、海という不可能な現実があるときに、それでも、「前に進みなさい」という、主のみことばに目を留めて、前に進む、それが、信仰です。
しかし、イスラエルには、その信仰がありませんでした。それで、主は、仕方なく、海を分ける奇跡を起こしてくださった・・・見ないで信じる者は幸いです。しかし、見なければ信じることができないなら、見てでも、信じなさい・・・それは、主のあわれみです。
しかし、そのように、問題が解決されてから、「ああ、今、この状況なら、私でもみことばに従うことができる」と言うなら、これからも、ずっと、問題が起こる度に、「エジプトに帰りたい」・・・そのように、心は奴隷のままなのです。
体だけではなく、心が自由にされる必要があります。
問題があっても、不可能な現実があっても、その現実よりも、みことばを見る、信仰によって、イエス様と一緒に歩むのです。
目の前に海があっても、主が「前に進みなさい」と言われるなら、前に進むことを選ぶ、そのとき、私たちは、イエス様が歩まれたように、水の上を歩むようになる。

イエス様は、海を分けませんでした。海があっても、父なる神様のみこころに従って、前に進んだとき、水の上を歩きました。
私たちも、問題の海を解決しなくても、主のみことばを信じる信仰によって、前に進むなら、問題の上を歩くことができます。

皆さん、もし、私たちが、本当に、みことばを信じるなら、主イエスを信じる私たちは、イエス様が行うわざを行います。・・・それは、私たちが、イエス様と一つにされたからです。
イエス様の十字架と復活によって、今や、私たちは、イエス様と一つにされたからです。
ローマ人への手紙 6章5節
 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

十字架と復活によって、イエス様と一つにされたから、私たちは、イエス様が行うわざを行い、イエス様のように生きることができる・・・これが福音です。イエス・キリストの救いです。

イエス様の救いのみわざが、完全だからこそ、私たちの生き方は、イエス様のような生き方に変えられました。これからも変えられ続けます。・・・私の頑張りによって変わるのではなく、イエス様の完全な救いによって、もうすでに、私は変えられたことを信じ、受け入れるのです。

信じるために、イエス様の完全な救いとは、何なのかを知る必要があります。知らなければ信じることができません。みことばから知って、信じる必要があります。イエス様が、他のだれでもなく、私のために、何をしてくださったのかを、みことばから、知る必要があります。

もっと深くイエス様を知って、イエス様がどういうお方なのか、今も、イエス様は何をしてくださっているのかを知ることを通して、ますます、イエス様のような生き方に変えられて行きます。
私のために死んで、よみがえられたイエス様、あなたのために死んで、よみがえられたイエス様が、今も、あなたのうちに生きておられます。

今、イエス様が、私のうちで、何をしておられるのかを、みことばから知るとき、私たちは、イエス様と一緒に生きることを選ぶようになります。

ですから、みことばに目を留めましょう。みことばから、もっと深く、イエス様を知る恵みを受けましょう。・・・今日という日に、みことばに目を留めて、たとえ、不可能な現実があっても、信仰によって、イエス様と共に歩むことを選びましょう。
今週は、特に、愛する人の救いのために、イエス様と一緒に祈りましょう。
私たちが愛する以上に、イエス様は、その人を愛されました。その人のために、いのちを捨てても、その人を愛し、救うことを選ばれたのは、イエス様です。

私のうちに生きておられるイエス様、あなたのうちに生きておられるイエス様が、愛する人のために涙を流して祈っています・・・イエス様と一緒に、祈りましょう。

そして、主が、「今、前に進みなさい。」と示されるなら、たとえ、現実が不可能でも、前に進みましょう。主が示されたこと、実行することを選ぶのです。
そのようにして、みことばを信じる信仰によって、イエス様と一緒に愛する人を救う恵みに歩みましょう。