【279】2025/2/9 主日礼拝 『求め続けなさい』 マタイの福音書<7:7~11> 斉田基牧師
7節
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
直訳すると、求め続けなさい。探し続けなさい。たたき続けなさい。です。
もし私たちのうちに求める飢え渇きがなければ、私たちは、自分から求めることをしません。ですから、私たちのうちには、自分から求める飢え渇きが必要です。
ある農家の息子は、牛の世話を任され、決まった時間に水を飲ませなければ、父親から酷く怒られました。
それで、彼は、なんとかして飲ませようとしましたが、牛は、なかなか、決まった時間に飲んでくれません。
それで、彼は、考えに考えたあげく、塩を持ってきて、牛が水を飲ませる時間になっても水を飲まない時には、舌を引っ張り出して塩を塗ったそうです。
同じように私たちにも、求める心、飢え渇きがないときには、みことばの塩が必要かもしれません。
特に日本の親は、子どもが何か言う前から、「ああ、何々ちゃん、何が欲しいの?あれが欲しいの?これが欲しいの?」・・・子どもが自分から求める前から、与えることがあります。
子どもが、飢え渇いて、自分から求めたときに、与えられた、という経験をする前に、与えてしまうので、自分から求める心が育ちにくい。
私たちには、自分から神様に求める心が必要です、神様ご自身に飢え渇くことが、必要です。・・・なぜでしょうか。
たとえ、食べるもの、着るもの、住む場所があっても、良い車、最新型のスマホがあったとしても、私たちは、満たされないからです。
物質的な豊かさだけでは、決して満たされない、それが私たち人間の心です。私たちの心を完全に満たすことができるのは、神様だけです。
自分から神様を求める心が必要です。・・・しかし、もし、神様に求めているにも関わらず、与えられないとするなら、それは、何故でしょうか。・・・主は言われました。それは、良いものを求めてないから、あるいは、良い動機で求めてないからだと。
ですから、イエス様に良いものを求めるなら、必ず、与えられると、信じて求めなくていけません。・・・もし、求めても、絶対に与えられないと信じるなら、その人は、求めることができません。
イエス様は、必ず、良いものを与えてくださると信じ、期待するから、求め続けることができます。イエス様に祈り求め続けることができます。
もちろん、最初から、神様に飢え渇くことは難しい人もいます。福音を語っても、神の愛を語っても、永遠の命を語っても、無関心な人もいます。・・・そういう時には、牛の舌に、塩を塗ったように、舌を引っ張り出して、みことばの塩を塗る必要があります。
私たちは、地の塩です。私たちが地の塩として役割を果たすとき、人々は飢え渇いて神様を求め始めます。
主は言われました。求めなさい。そうすれば、与えられます。主は、特に何を求めなさいと命じているでしょうか・・・神の国と神の義です。そうすれば、それに加えてすべてを与えてくださる。
神の国は、目には見えません。しかし、イエス様は言われました。
神の国は、ほらそこにあるとかあそこにあるとか目に見える形で来るのではなく、神の国は、あなたがたの内側から始まる。神の国は言葉にあるではなく、力にある。
神の国は、私たちの目には見えないかもしれません。しかし、風も、私たちの目には見えません。目には見えなくても、風が吹くと、風の力で、草木が揺れるから、風があることが分かります。
今、この場所に、風が吹けば、私たちは風を感じ、体験することができます。
同じように、私たちの目には見えなかったとしても、私たちは、神の国の力を感じ、体験することができます。
イエス様を、私の主、私の王として、心に受け入れたときから、私たちは、イエス様が王となって治めてくださる神の国の力を、私たちは、自分の人生で経験し始めました。
私たちの多くは、神の国が、自分のうちにあることを体験したことがあるでしょう。神の王国を治めるイエス様が私のうちに生きておられることを体験したことがあるでしょう。
だからこそ、探し続ける必要があります。神の国が、私のただ中にあるにも関わらず、何を探し続けるのでしょうか。
私たちのうちに、神の国がある。イエス様が私の人生を治めてくださる・・・それがどれほど素晴らしく、恵みと祝福に満ちたことかを体験したからこそ、この神の国が、もっともっと、愛する人たちに、日本に広がって欲しい。私のうちに生きておられるイエス様を知って欲しい・・・そのために探し続けます。
神の国が、愛する人たちに、日本に増え広がること、人々が主イエスを信じて、救われ、次々とイエス様の弟子が育つために、どうすればよいか、その方法を探し続けるのです。
伝道するとき、イエス様のことを伝えようと話しかけても、無視される、嫌な顔をされる、など、何度も経験するかもしれません。
しかし、そういう時にも、私たちは、誰に、求めるべきかを知っています。イエス様です。
動画やテレビに求めません。私のうちに生きておられる、イエス様に求めます。
イエス様だけが、本当の答えを与えてくださいます。
時に、イエス様は、私たちには理解できない方法を教えてくださるかもしれません。しかし、その通りに福音を伝えると、実が結ばれます。
私たちは、あまりにもイエス様以外のものに答えを求めているかもしれません。
しかし、イエス様に祈り求めましょう。イエス様が、必要なことを教えてくださいます。私が探す時、イエス様が、それを見つける方法さえも与えてくださいます。
ですから、まず、イエス様に求める心を受け取りましょう。求める心は、みことば通りにイエス様を信じる信仰によって与えられます。
良いものを求めるなら、イエス様は、必ず、与えてくださる・・・この信仰を、みことばを聞くことを通して、心に受け取りましょう。
みことばを聞くことを通して始まる信仰によって、イエス様に対する、切なる願い、切なる思いを受け取る必要があります。
そのとき、私たちは探し始めます。行動に移します。しかし、行動に移したからと言って、すぐに結果が見えないときに、叩き続ける必要があるのです。
主は言われます。叩き続けなさいです。
私たちができる限りのことをして、祈りながら、みことばを語りながらも、誰も救われない・・・祈っても、願ったことが起こらない。誰も癒されない・・・そういうことがあるかもしれません。
でも諦めてはいけません。
その時、私たちは、門が開かれるまで叩き続けます。門を開いてくださるのは、イエス様です。イエス様が、門を開いてくださるまで、祈り、みことばに耳を傾けながら、門を叩き続けます。
そのように、イエス様に信頼して、祈り求め続けるとき、求める心さえも、イエス様が与えてくださいます。求める心が燃やされて行きます。もっと強くされます。だから、叩き続けることができます。
マタイ9:20-22
すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。
12年もの間、ある女性が長血という病気を患っていました。マルコの福音書を見ると彼女は、できる限りのことをして来たことが分かります。お金が続く限り、たくさんの医者にかかって、治療を受けました。
しかし、良くなりませんでした。それだけではありません。当時、彼女のように血が止まらない女性は、宗教指導者から、汚れてる女性と認定され、罪深い女性と見なされました。
医療機関には全財産を巻き上げられ、その上、一向に良くならない。そのような時間が長く続くと、もう諦めてしまいたくなります。心が折れてしまいます。自己憐憫に陥ってしまいます。
しかし、この女性は、イエス様に希望を見出しました。イエス様のこと聞いた時、彼女は、その衣に触れるだけでも癒されると信じて、イエス様を求めて、出て行きました。
しかし、イエス様が来たその場所には、群衆が集まっていました。イエス様の周りには、大勢の人が壁のように取り巻いていました。
彼女には、病気の症状が続いていました。イエス様に辿り着くには、集まっている群衆をかき分けなければなりませんでした。その群衆の中には、彼女を汚れていると認定した宗教指導者がいたでしょう。白い目で見られるかもしれない。騙されて全財産を取られた医者たちも混じっていたでしょう。
しかし、それでも、彼女は、ただ、イエス様だけを求めて、イエス様だけを信じて、大勢の人々をかき分けて行きました。
彼女は飢え渇いて、イエス様を探し求めただけではなく、諦めずに叩き続けました。
彼女は群衆をかき分け、かき分け、イエス様のすそに触った瞬間に血が止まりました。彼女は叩き続けて開かれる体験をしました。
ある貧しい国で、野外で伝道集会が開かれました。
1月の冬の寒い時期でしたが、そこに集まっていた人たちは、薄い布切れ1枚だけを身にまとって、白い息を吐いて、震えながら、会場に集まっていました。彼らの足はみな、裸足でした。
彼らは、靴を履くことを認められていません。さらには、お金もなく、上着も着ることができない。身に纏っている布切れ1枚とござだけが、一生の財産という人たちが、4、500人集まっていました。
ちょうど、その伝道集会で、この長血の女性が癒されるところの聖書箇所が朗読されました。
現地の言葉で、この長の女性が、イエス様に触れた瞬間に癒されたという聖書のみことばが朗読されました。
それを聞いていた人々の中に、ちょうど同じ病気の女性がいました。
会場に来た時にも、血を流しながら来て、不正出血が止まらなかった女性がいました。
彼女も、なけなしのお金を集めて、治療を受けたけれども、何も良くならなかった女性でした。
彼女は、聖書の朗読を聞いていたときに、血が止まり癒されました。まだ、メッセージも始まっていません。人々に手を置いて祈られてもいません。
会場に来たときには、彼女は、まだ、イエス様を信じていませんでした。何の集会かも知りませんでした。とにかく癒されたければ来なさいと言われたので、来てみたのです。
字も読むことができず、1度も聖書を読んだことなかった彼女が、聖書のみことばを聞いた瞬間、癒されました。
皆さん、イエス様は、「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。」それ以外の何の条件もつけていません。
イエス様が、どういう方かよく分からなかったとしても、イエス様に求め続けるなら、この方に信頼して、探し続けるなら、この方にならできると信じて、叩き続けるなら、それは与えられます。
そのように、イエス様が、してくださることを、私たちは、自分の人生で繰り返し体験する必要があります。
だからこそ、主は、求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。と命じているのです。
1つの扉が開いたとしても、また次の扉に出会います。
一つの壁を乗り越えても、また、次の壁に出会うことがあります。
だから、私たちは、叩き続けます。
今日も、イエス様に向かって求め続けるなら、探し続けるなら、叩き続けるなら、開かれ続けます。
今まで、皆さんの祈りに答えてくださった神様は、これからも、祈りに答え続けてくださいます。信じましょう。
皆さんの祈りは聞かれています。信じましょう。
道は開かれます。あなたの目の前で、海が分かれます。
エリコの城壁は、あなたの前で音を立てて崩れ落ちます。
奇跡は起こります。
ですから、諦めずに、叩き続けましょう。
他の何者でもなく、イエス様に、求め続けましょう。
イエス様を見上げて、求め続けるのです。
イエス様のみこころを探し続け、イエス様のみこころが実現するように、叩き続けるなら、このみことばは、あなたのものです。あなたの人生に実現します。

