【269】2024/12/1 主日礼拝 『神の恵みによって』 ヨハネの福音書 <1:12~17> 斉田 基 牧師

 

17節
 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

私たちの救い主イエス・キリストは、恵みとまことを実現したお方です。
イエス様は、恵みとまことを、どこに実現されるのでしょうか。
イエス様を、自分の救い主として、受け入れた人に、恵みとまことを実現してくださいます。
12節
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

この方、すなわち、イエス・キリストを受け入れた人には、神様の子どもとなる特権をお与えになった。この特権という言葉は、権威、また、力という意味があります。
すなわち、イエス様を自分の救い主、自分の主として、受け入れた人には、神様の子どもという肩書を与えたのではなく、神様の子どもとされる力も権威も与えてくださった。

これは、イエス様を受け入れた人は、罪を犯さないように我慢し、歯を食い縛って、良い行いをしなければならなくなるという意味ではありません。
恵みに満ち満ちたお方であるイエス様を受け入れるなら、受け入れた私たちも、恵みに満たされ、罪を犯したいという欲望はなくなり、喜んで良い行いがしたくなる。
16節
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

イエス様を受け入れた私たちは、イエス様から、恵みの上に、さらに恵みを受けて、その恵みの力によって、いつもすべてのことに満ち足りて、良い行いをするようになる・・・これが、神様の恵みの力です。
Ⅱコリント人への手紙 9章8節
 神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。

恵みに満ちたイエス様を受け入れると、私たちは、イエス様から受けた恵みによって、良い行いをすることによって、満足するので、もはや、悪い行いによって、自分を楽しませる必要がなくなります。

この神様の恵みが、私たちの人生を変えます。私たちは、恵みに満ちたイエス様を受け入れるとき、神様の恵みを受けて、人生が変えられます。
ですから、イエス様を受け入れるとき、人生が変えられます。どうすれば、イエス様を受け入れることができるでしょうか。・・・・イエス様は、ことばです。聖書のみことばを受け入れることは、イエス様を受け入れることです。
14節
 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖書のみことばを、イエス様が私に語りかけることばとして聞いて、心に受け入れるとき、恵みの上に、さらに恵みを受けるようになります。

アメリカ最大の伝道者の一人、D.L.ムーディーが、神様の恵みについてメッセージしました。
彼が、メッセージの終わりに、「神様の恵みに応答したい人は、前に出て来てください」と呼びかけると、多くの人が前に出てきました。

彼は、このように呼びかけました。
「あなたがたは、ありのままの姿で神様の前に来なさい。たとえ、あなたが何をしていたとしても、関係ありません。ただ、イエス様を愛しなさい。
お酒をやめなければ・・と心配することをやめなさい。悪い習慣をやめなければ・・・と心配するのをやめなさい。・・・イエス様は、ありのままのあなたを愛しています。ただ、イエス様を愛して、前に出て来なさい。」

すると、前に出て来た一人の女性が、こう言いました。
「私は、あなたのイエス様を愛します。しかし、私はダンサーです。」
それで、彼は、
「あなたがダンサーでも関係ありません。ただ、イエス様のために踊りなさい。」

しかし、彼女は、その後も、ずっと、そこに、とどまっていました。
それに気づいた、彼は、「何か問題がありますか。」
すると彼女は、「私は、裸で踊るダンサー、ストリッパーです」

それを聞いた、彼は、神様の恵みの力を知っていたので、こう言いました。
「それでも、大丈夫です。クラブに戻って、イエス様のために踊りなさい。」

「え、先生、ストリッパーを続けてもいいんですか?」

「そうです。イエス様は、それでも、あなたを愛しています。イエス様は、ストリッパーも愛しています。ただ、あなたは、イエス様を愛して、イエス様のために踊りなさい。」

それで、彼女は仕事に戻り、毎週日曜日には教会に通いました。
月曜日、火曜日、水曜日・・・・イエス様を信じながらも、夜はクラブに行って、裸で踊ります。
しかし、彼女は、毎日、聖書を読んでいました。・・・彼女は、イエス様を愛して、イエス様のことばである、聖書を読み続けていました。しかし、夜は、裸で踊りました。

ある水曜日の夜の集会で、仕事で来ることができないはずの彼女が、教会に来ているのに、ムーディー牧師は、気づきました。
「姉妹、どうされましたか?今日は仕事には行かないのですか?」
すると、彼女は、「先生、私は、仕事をやめました。」

「なぜですか?」

「私は、聖書を読み続けました。イエス様の愛のみことばを読み続けました。すると、ある時、突然、ダンスに対する愛が、私から離れて行きました。」

突然、自分のうちから、その欲望がなくなりました。自分の中で、何かが変わりました。
私が、とても重要だと思っていたものが、もはや、重要ではなくなりました。
かつて、いつも行っていたところ、行かずにはいられなかったところに、もはや行きたくなくなりました。・・・やめたくても、やめられなかったことが、もうしたくなくなりました・・・みことばが私を変えてしまいました。

皆さん、これが恵みです。
神様の恵みが来るとき、自分に、やめろ、やめろ、と言う必要がなくなります。

もし、神様の恵みによって、ではなく、自分の力で、自分を止めようとするなら、それは、神様には喜ばれません。

たとえ、神様のために、今日から、お酒をやめます。ドラッグをやめます。悪い習慣をやめます。神様のために、良いことをします、と言ったとしても、
もし、それらのことを、自分の力でするなら、それは、結局は、神様のためではなく、自分のためにすることになってしまうのです。

聖書において、自分の力で、罪を犯すのをやめ、自分の力で正しい行いをすることによって、手に入れる正しさのことを、自己義といいます。それは、神の義ではなく、自分の正しさです。

自分の正しさでは、天国に入ることはできません。神様の恵みによって与えられる、神様の義を受け取らなければ、だれ一人、天国に入ることはできません。

しかし、多くの人は、自分で、罪を犯さないようにしなければならない。自分で、何か正しいことをしなければならない、と思うのです。
神様に愛されるためには、私は悪いことをやめなければならい。私が、もっと正しいことをするなら、きっと、神様も、私のことを、もっと愛してくれるはずだ・・・と思うのです。
ヨハネの福音書 3章16節
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神様は、世を愛された。神様は、どのぐらい世を愛されたのでしょうか・・・そのひとり子を与えるほどに、愛されました。・・・最も大切な最愛のひとり息子を与えるほど、これ以上、愛することができないほど、神様は、世を愛されました。

世とは、すなわち、すべての人です。イエス様を信じている人だけではなく、世のすべての人を神様は愛しています。
もうすでに、あなたは、神様に愛されています。これ以上愛することができないほど、神様は、あなたを愛しています・・・ただ、イエス様を受け入れなければ、その愛が、分からないだけです。
ローマ人への手紙5章8節
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

神は、まだ、私たちが罪人であったときから、神様は、全力で、私たちを、愛してくださいました。すなわち、あなたが、何か良いことをすることによって、あなたに対する神様の愛が増えることはないということです。逆に、悪いことをすることによって、神様の愛が減ることもないのです。
もうすでに、神様は、すべてを尽くして、あなたを愛しています。

この神様の愛のみことばを受け入れることが、神様の恵みを受け入れることです。
恵みを受け入れ、どんなに神様が愛してくださっているのかを知る時、神様を悲しませる罪を犯したくなくなります。

もし、あなたが、神様の恵みによってではなく、自分の力で、罪を犯すことをやめるなら、それは、神様と関係なく、自分でしていることです。
しかし、もし、あなたが、神のことばを読んで、恵みに満ちたイエス様を受け入れるなら、ある時、突然、罪を犯さなくなります。
・・・受け入れたイエス様から、恵みの上にさらに恵みを受けるので、ある時、突然、罪を犯す欲望が離れて行く・・・自分でやめるのではなく、イエス様がやめさせてくだる・・・これが恵みです。

皆さん、聖書において、恵みとは、真実の愛とも訳される言葉です。すなわち、恵みとは、神様の愛です。
恵みがなければ、すなわち、神様の愛がなければ、山を動かすほどの完全な信仰があっても、私は無に等しい。・・・恵みがなければ、すなわち、神様の愛がなければ、いくら人を救うためと言って、全財産を分け与えても、何の役にもたたない、と聖書は教えています。

もし、私が、人を救うためであっても、神様の恵みを受けずに、自分で、それをしているなら、それは、私の正しさであり、私の栄光になってしまうのです。結局、私は、自分がしたことを誇り、自分のようにしようとしない人を、心で見下すようになってしまいます。

神様の恵みを受け取るまで、神様に信頼して、待ち望むことなく、自分で何とかしたくなる自己中心、自分が何とかしなければと思う、自己中心が、私たちから、恵みを遠ざけます。
イザヤ書 30章15-16節
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
あなたがたは言った。「いや、私たちは馬で逃げよう」と。そう言うなら、あなたがたは逃げてみよ。また、「私たちは早馬で」と言った。そう言うなら、あなたがたの追っ手はなお速い。

神様は、わたしに立ち返って、落ち着いていなさい。わたしがあなたを必ず、救うから、静かにして、わたしに信頼していなさい。わたしがあなたに力を与える・・・と言われるのですが、
自己中心は、いや、自分でもできる、神様を待つ必要はない・・・いや、この方法でもできる、神様に信頼するよりも、この方法の方が手っ取り早い・・・ああ、やっぱり、この方法ではダメだった・・・それなら、あの方法もある・・・そのように、自己中心は、頑なに、神様に信頼しようとしません。
そのように、頑なに神様に信頼しようとしない者に対して、神様は、こう言われました。
イザヤ書 30章18節
 それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。

たとえ、私たちが、神様に頼らず、自分の力でやり続け、神様の恵みを受け取ろうとしなかったとしても、
それでも、神様は、いつも私たちに恵みを与えようとして、私たちを待っていてくださり、私たちにあわれみを与えようと立ち上がられます。
なぜですか・・・神様が、義の神様だからだと言うのです。

義の神様とは何でしょうか。神様の義とは何でしょうか。
頑なに神様の恵みを拒み続けた、罪人のためにでさえ・・・私たちがまだ、罪人であったときにでさえ、その罪から私たちを救うために、十字架で、命を捨てた真実の愛、これが神の義です。
たとえ、あなたが頑なに受け取ろうとしなくても、真実の愛で、あなたを愛し続ける・・・これが神様の恵みです。
この恵みと真実の愛は、イエス・キリストによって、私たちに実現するのです。

イエス・キリストは、神のことばです。
聖書のみことばを読んで、読んで、十分に読んで、みことばは、イエス・キリストであることを受け入れるとき、神様の恵みと真実の愛が、私たちのうちに実現します。
信仰は、みことばを聞くことから始まります。
みことばを聞いて、聞いて、聞いて、十分に聞いて、恵みに満ちたイエス・キリストから、恵みの上に、さらに恵みを受け取りましょう。