【268】2024/11/24 主日礼拝 『弟子の耳を開かれる主』 ヨハネの福音書 <10:7~11> 斉田 基 牧師

 

ヨハネの福音書 10章27節
 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

イエス様を信じた私たちは、イエス様の羊です。イエス様は、私たちの羊飼いです。ただの羊飼いではなく、良い羊飼いです。良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てます。
イエス様は、私たちを救うために、ご自分のいのちを捨てました。
良い羊飼いであるイエス様の声を聞き分け、ついて行くなら、私たちは、いのちを得、それも豊かに得ます。

だからこそ、私たちは、イエス様の声を聞き分けるために、聖書を読みます。
今日と言う日に、イエス様の声を聞き分けて、イエス様について行くために、聖書を読みます。

しかし、このように感じたことはないでしょうか。
神様の声を聞きたいと思って、聖書を読んで、お祈りして、神様との時間を持ちますが、よく分からない。
聖書を読んで、何か思いが与えられることはあっても、果たして、この思いが、自分の思いなのか、それとも、神様の声なのか、よく分からない。
自分で聖書を読んでも、ピンと来ない・・・メッセージを聞いても、よく分からない。

皆さん、聖書は、神様のことばです。神様は、確かに、聖書のみことばを通して、私たちに語りかけています。しかし、なぜか、聖書のみことばを、神様の声として聞くことができない・・・その原因は、霊的な耳が閉じているからです。
ですから、私たちは、神様に、私たちの霊的な耳を開いてもらう必要があります。
イザヤ書 50章4節-5節前半
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
神である主は私の耳を開いてくださった。

神様は、朝毎に、私たちの耳を開いて、私たちが弟子として聞くようにしてくださる。
神様が、私たちの耳を開いてくださると、私たちは、群衆としてではなく、弟子として聞くようになる・・・どういう意味でしょうか。

先々週のメッセージで、分かち合いました。群衆も、弟子たちも、同じイエス様のみことばを聞いていました。・・・しかし、弟子たちは、イエス様のみことばを聞いて悟りましたが、群衆は、悟りませんでした。
みことばを聞いて悟った弟子たちは、みことばから、神様の力を受け、喜んで、イエス様について行きました。
しかし、みことばを聞いても、悟らなかった群衆たちは、みことばから、神様の力を受けなかったので、みことばに従うことなど、無理だと思いました。

みことばを悟った弟子たちは、みことばの中に隠されていた宝を見つけたので、喜んですべてを犠牲にしてでも、イエス様について行く人生に最高の価値を見つけることができました。
しかし、みことばを悟らなかった群衆は、いや、イエス様について行くよりも、私の生活、私の家族、私の夢が大切です。
・・・耳が閉じていた群衆は、弟子たちのように、主を愛し、主に従うことができませんでした。

しかし、耳が閉じている群衆には、何を語っても無駄だ、と言って、イエス様が、群衆にみことばを語るのをやめることなど、ありませんでした。むしろ、イエス様は、いつでも、機会がある度に、何とかして、群衆の耳を開こうと、聞く力に応じて、みことばを語り続けました。

イエス様は、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。
イエス様は、私たちの霊的な耳を開くために、聖書のみことばを通して、今も、語りかけてくださる。・・・聖書だけではなく、人、出来事、夢や幻など、あらゆる手段を用いて、私たちの聞く力に応じて、イエス様は、諦めずに、今も、語り続けてくださる。
イエス様は、私たちが、みことばを聞いて悟ることによって、みことばの中にある宝、神様の力、真実の愛を、私たちに、受け取って欲しいと願って、耳を開こうとされるのです。

イエス様は、絶えず、しきりに語りかけてくださるので、耳が開きさえすれば、その声を聞くことができる・・・だれよりも、イエス様が、私たちの耳を開きたいと願ってくださる。
イザヤ書 50章4節-5節前半
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
神である主は私の耳を開いてくださった。

主は、朝ごとに、私の耳を開こうとしてくださる・・・だから、私たちは、一日が始まる、朝ごとに、主のみことばに耳を傾けます。
朝、目覚めた時から、主は、私たちに語りかけ、
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。今日も、わたしと一緒に歩もう。」 と・・・
主は、私たちが、夜、眠るまで、ずっと、私たちを導いてくださる・・・主は、良い羊飼いです。
しかし、私たちはというと、いつも主から離れて迷いがちなので、主は、絶えずしきりに、語りかけ、私たちを、いのちの道に導こうとしてくださるのです。
一日が始まる朝に、主は、私たちの耳を開こうとされます。
朝からずっと、主の声が聞こえないまま、主の助けを受けないまま、自分の力で、頑張って、
夜になって、やっと、耳が開かれ、・・・今日、あの時も、その時も、実は、主が、「こうしなさい。この道を選びなさい。」と、導こうとしてくださったのに、私は、自分の道を歩んでしまった、と・・・一日の終わりになって、後悔するなら、まだ、次の日にチャンスがあるかもしれません。
しかし、人生が終わる最後の夜に、後悔することになっては、絶対にいけません。
だからこそ、主は、夜ごとではなく、朝ごとに、私たちの耳を開こうとされます。
私たちは、聖書を読み、祈る、主との時間を、朝一番に、持つことを選びましょう。

ある姉妹は、毎朝、聖書を読み、祈ってはいましたが、毎日、主の声を聞くことができるとは、思っていなかったので、
進路だったり、結婚だったり、大切なことのためには、一生懸命、祈って、みことばから、主の声を聞こうとしましたが、毎日、今日と言う日に、主の声を聞こうとはしていませんでした。

しかし、人生に行き詰まったとき、ある宣教師から、「毎日、主の声を聞くことができるんですよ」と、教えられ、忠実に実践するようになりました。
朝、起きたときに、まず、「神様、今日は、何を語ってくださいますか。」 祈りながら、聖書を読みます。主が、みことばを通して私に語りかけてくださると期待して、ノートとペンを用意し、神様が私に語られた、と感じたみことばを書き出します。
みことばを書いている間に、聖霊様が教えてくださって、ああ、神様は、このことを言ってくださっているのかもしれない・・・そのように、少しずつ、示されて行き・・・
ああ、神様、そうするためには、どうしたらいいですか。ああ、こうしたらいいんですね。
神様、あの人のためには、何をしたらいいでしょうか。ああ、電話してみますね。

そのように、はっきり示されることもあれば、みことばだけが示され、
「神様、このみことばは、どういう意味ですか。どうしたら、このみことばに従えるでしょうか。神様、教えてください。」と祈りながら、みことばを心にとどめるようになりました。

そんな彼女が、初めて幼稚園の保護者会に行くことになり、彼女は、「主よ、私は伝道がしたいです。神様、どうしたらいいでしょうか。」と祈りながら、聖書を読み、みことばを書いていると、
神様が、「困っている人がいるから、あなたは、困っている人の友となりなさい。」と、彼女に語りかけてくださいました。
それで、彼女は、その日、保護者会の中で、困っている人を探しました。
すると、ある人のことが心に留まったので、その日から、雨の日には、車で迎えに行くなどして、その方に、愛をもって、仕え始めました。
すると、そのように、彼女が仕えている姿を見た、他のお母さんたちが、彼女に関心を持つようになり、「どうして、そのように、あの人に仕えることができるの?」・・・と聞かれるようになり、福音を伝えるチャンスが与えられ、5人のお母さんたちが、主イエスを信じて、救われました。
彼女は、毎朝、みことばを聞いて、「今日、私は、あの人に何をしたらいいですか。どうしたらいいですか。」と聞きながら、仕えて行くうちに、
神様が、「今、語りなさい。今、このことをしなさい」と、示してくださるようになり、示されたことに従った結果、神様が5人のたましいを救ってくださいました、と、話していました。

皆さん、もともと、彼女は、毎日、主の声を聞けるとは思っていなかったので、毎日、主の声を聞こうとはしていませんでしたし、毎日、主の声を聞かなければ、生きて行けないという飢え渇きもありませんでした。
もちろん、大きなことについては、主の声を聞こうとしましたが、毎日のことは、自分で何とかなると思っていたので、そこまで主の声を聞く必要も感じていませんでした。
しかし、人生に行き詰ったとき、毎日、主の声を聞く生き方があることを、主は、宣教師を用いて、彼女に教えてくださいました。・・・主の声を聞かなければ、どうすることもできない状況が、彼女の耳を開く、きっかけになりました。

時に、主は、私たちの耳を開くために、人生の行き詰まりさえも用いられることがあります。
しかし、それは、主の声を聞かないで、平気で、自分の人生を生きるときに、起こることです。
もし、そのまま、放って置くなら、一向に主の声を聞こうとしないまま、自分の道を歩み続けてしまうときに、起こることです。

ですから、そのようなことが起こらなくても、自分から、毎日、主の声を聞くことを選ぶなら、主は、私たちの耳を開いて、私たちを祝福の道、いのちの道、勝利の道に導くことができます。

毎日、主の声を聞けることを知らなかったので、主の声を聞こうとしていなかった、という方もおられるかもしれません。
あるいは、別に、そこまで主の声を聞く必要を感じない・・・今まで通り、自分の人生を生きようと思う方もおられるかもしれません。
しかし、主の声を聞こうとしないことは、私たちが思う以上に深刻な問題です。
箴言28章9節
耳を背けておしえを聞かない者は、その祈りさえ忌み嫌われる。

エレミヤ書 7:13-14
今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、
わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。

しかし、もし、今日から、毎日、主の声に聞いて生きること選ぶなら、あなたのすべての罪を赦し、あなたを救うためにいのちを捨てた良い羊飼い、あなたの救い主、イエス・キリストは、責任をもって、あなたの耳を開いてくださり、あなたを、主と共に生きる、勝利と祝福といのちの道に導いてくださいます。

尾山令仁先生の娘である岡野恵牧師の証しを分かち合います。
父である尾山先生が、コロナで倒れ、歩くことも、食べることもできず、寝たきりになったとき、彼女は、主に示され、看病しました。
いつものように、彼女が、朝の主との時間を持っていると、ピリピ2章のみことばが示されました。
ピリピ2:6-8
 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

このみことばが示され、心に響いたので、彼女は、
「神様、私は、どのように、犠牲を払ったらよいですか。今日も、父のために、喜んで犠牲を払って、喜んで、愛し、仕えることができるように、助けてください」と祈っていました。
しかし、具体的に、どうすればよいかは、示されないままでした。

その日、甥が訪れ、「おじいちゃんのために、こうしたらいいよ。ああしたらいいよ。そう言えば、テルミーはやっているの?」・・・と、聞かれました。
テルミーとは、薬草を線香状にしたものを点火し、その薬草の成分と熱で、体を温める家庭温熱療法です。
彼女は、「今まで、たくさんの人に、テルミーをやって、煙アレルギーになってしまったから、今はやってないの。」 と、答えました。

しかし、甥っ子が帰った後、朝に示された、ピリピ2章のみことばが思い出され、
イエス様は死にまで従われた・・・ああ、そうだ。煙アレルギーで、咳が出て、熱が出て、具合が悪くなろうと、私も死にまで従えばいいんだ・・・それで、彼女は、厳重にマスクをして、窓を開け、風通しを良くして、テルミーを実践しました。
すると、それまで、寝たきりだった父が、テルミーをした後、急に、「軽くなった」と言って、スタスタと歩きました。奇跡の回復でした。
彼女は、主の声を聞き分けて従うと、主は、いつも、素晴らしいことをしてくださる、と話していました。

彼女は、朝の主との時間に、心に示されたみことばがよく分からなくても、「主よ、このみことばは、どういう意味ですか。どうすれば、私は、このみことばに従うことができますか。」・・・祈りながら、みことばを心にとどめていたので、
甥っ子を通して、主が、彼女に、そのみことばの意味を、もう一度、示してくださったとき、彼女は、従うことができました。

皆さん、私たちの耳を開いてくださるのは、主です。・・・主が開こうとされるなら、必ず、開きます。
主に信頼して、みことばに耳を傾けるとき、主は、私たちの耳を開いてくださり、私たちを導いてくださいます。・・・ですから、私たちは、今日から、一週間、チャレンジしてみましょう。

朝一番の時間を主にささげ、みことばに耳を傾けるとき、主が、みことばに約束された通り、
皆さんの耳を開いてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。
イザヤ書 50章4節-5節前半
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
神である主は私の耳を開いてくださった。