【266】2024/11/10 主日礼拝 『聞いて悟る人』 マタイの福音書 <13:18~23> 斉田 基 牧師

 

マタイの福音書 13章23節
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

みことばを聞いて悟るなら、最低でも三十倍の実を結ぶ・・・一人の人が、みことばを聞いて悟り、主イエスを信じて、永遠のいのちの実を結ぶなら、最低でも30人、救われる・・・主イエスを信じるなら、私も私の家族も救われる。
・・・みことばを聞いて悟るなら、少なくとも、30倍、祝福される・・・これを悟った人は、畑に隠された宝を見つけた人です。
マタイの福音書 13章44節
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

みことばを聞いて悟る人は、喜んで、すべてを犠牲にしてでも、イエス様について行きます。
イエス様が、ペテロに、「わたしについて来なさい。」と言われたとき、ペテロは、仕事も家族も置いて、イエス様について行きました。
そのとき、ペテロは、まだ、イエス様が、神の御子キリストだとは知らず、神のことばを教える教師だと、思っていました。

皆さん、もし、伝道集会で、メッセンジャーが、素晴らしいメッセージをした後で、「メッセージに応答したい方は、今から、仕事も家族も置いて、わたしについて来なさい。」と言ったとしたら、「これは、やばい宗教じゃないか」と、普通は思うでしょう。

しかし、ペテロは、「イエス様、ちょっと待ってください。断食して、祈って、神様のみこころを確信してからなら、従います」と、言うことなく、すぐにイエス様に従いました。
皆さん、これは、どちらかです。・・・・洗脳されてしまったか、あるいは、みことばを聞いて悟ったかの、どちらかです。
この時、ペテロは、イエス様が、神の御子、救い主だ、という確信があったから、従ったわけではありませんでした。ペテロは、イエス様が語る、みことばを聞いて悟ったから、従いました。

ペテロのように、みことばを聞いて悟ると、みことばに従うための犠牲は辛いものではなく、喜びになります。みことばを聞いて悟ると、犠牲よりも、遥かに価値のある宝を見つけるからです。みことばを聞いて悟ると、自分のいのちにもまさる恵みを体験して、すべてを捨ててでも、喜んでついて行くようになります・・・しかし、そのようについて行く人たちは、傍から見れば、カルト集団です。・・・だから、イエス様の弟子たちを見た、パリサイ人や律法学者たちは、あれは異端だと言って、会堂から追放しました。
みことばを聞いて悟った本人は、物凄く喜びに満たされて、ついて行きますが、まだ悟ることができていない人たちには、理解不能です。・・・この時、ペテロには奥さんがいました。
皆さん、想像してみてください。・・・もし、主人が、「私は、明日から仕事をやめて、あの先生について行く」・・・と言うとしたら、奥さんはついて行くと思いますか。
奥さんも、一緒に、みことばを聞いて悟ることがなければ、ついて行くことなどできません。
ですから、ペテロは、仕事も、家族も、すべてを置いて、イエス様について行くことを選びました。しかし、後には、家族も救われました。
・・・後になって、使徒パウロがコリント人への手紙の中で、ペテロは信者である妻を連れて歩いていると言いました。これは、ペテロが妻と一緒に散歩をしていたと言う意味ではなく、ペテロは奥さんと一緒に主の働きをしていたと言う意味です。

すなわち、ペテロは、最初に、イエス様のみことばを聞いて悟ったときには、すべてを犠牲にしてでも、喜んで、イエス様について行くという従順の実を結びました。
その時、ペテロは、仕事や家族などの犠牲があまりにも辛くて、歯を食い縛りながら、イエス様について行ったわけではありません。
みことばを聞いて悟ったペテロの目には、犠牲以上に、素晴らしい価値のある宝が見えていました。ペテロは、犠牲ではなく、イエス様に目を留めていました。
犠牲を越えた、大きな恵みを喜びながら、イエス様について行きました。・・・その結果、後になって、ペテロは家族をも勝ち取りました。ペテロの家庭は、主に仕える家庭に変えられました。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。このみことばの確信に立つ人は、イエス様に、ついて行きます。そして、後で、家族も救われます。そして、家族も一緒に、イエス様について行く・・・その始まりは、ペテロのように、イエス様のみことばを聞いて悟ることです。
この方には、すべてを犠牲にしてでも、つい行く価値がある・・・そう悟ったので、ペテロは、イエス様について行くことができました。・・・そのように、みことばを聞いて悟ると、喜んでみことばに従う力が与えられます。

皆さん、みことばを、頭で理解することと、悟ることは、全く違います。
たとえば、誰かに傷つけられた人に、ただ律法的に、赦しなさい、と言うなら、
「人の気も知らないで!・・・あの人が、私に、どんなに酷いことをしたのか、知らないから、そんなに簡単に言えるんだ」・・・そのように、思うでしょう・・・辛い現実しか見えないときは、そう思うしかないでしょう。しかし、みことばを聞いて悟るとき、辛い現実以上に、みことばなる主が共におられることが見えて来ます。
三週前のメッセージで、親子の証しを分かち合いました。いじめられていた小学一年生の息子は、家に帰って来て、母に話した瞬間、我慢して来た涙がポロポロ流れ落ちる・・・本当に傷ついていました。
傷ついて、悔しくて、あいつだけは、絶対に赦したくない。・・・息子の辛い思いに、母は、まるで、神様が同情してくださるように、同情して、
頭を撫でたり、抱きしめたりしながら、「本当に大変だったね・・・そうだったの、そうだったの」・・と聞いているうちに、今まで、母が、みことばを聞いて悟って結んできた、イエス様の愛が、母の内側から息子に流れて来て、その愛によって、傷ついた心が癒されていきました。
そして、母が、「・・・きっとね、その子も、どこかで、すごく辛いことがあったんだと思う・・・だから、そういう風にしちゃうのかも・・・・本当に強い子は、そういうことしないよ」
心が傷ついていた時には、絶対聞けないようなことばなのに、息子は、急に、「ああ、そうか」と思い始める・・・「イエス様はね、そういう子を赦すことができるって言うんだよ」・・・「ああ、そうか」・・・心が傷ついて、辛い現実しか見えない時には、そんなの絶対、無理だとしか思えなかったのに・・・みことばを聞いて悟ったとき、傷ついた心が癒され、「ああ、そうか、あの子も、本当に、かわいそうなんだ。赦そう。」という気持ちに、変えられる。
そのように、みことばを聞いて悟った息子は、赦しの実を結び、本当に、30倍 60倍100倍の実を結び続けました。・・・実に、2年半の間、赦し続け、ついには、その子のたましいの救いを勝ち取り、さらには、多くのクラスメイト、そして、先生の救いまでも、勝ち取りました。

皆さん、みことばには神の力があります。・・・聞いて悟ると、心が変えられます。
この息子が、みことばを聞いて悟ることができるように、息子の聞く耳を開いたのは、母のうちに結ばれていた、イエス様の愛でした。先にみことばを聞いて悟った母のうちに結ばれていたイエス様の愛が、息子の聞く耳を開きました。
もし、母が、いきなり、みことばは、ああだ、こうだと、言っていたなら、息子は心は閉ざしたでしょう。・・・しかし、そうだったの、そうだったの、本当に大変だったね・・・愛をもって、聞いて、寄り添った・・・愛の力が、息子の心を開きました。
この親子は、それを2年半続けました。・・・母は、毎朝、息子が起きる前に、祈りとみことばの時間を持ち、神様から愛を十分に受け取って、それから、息子に寄り添い、話を聞き、そして、みことばによって、励まし続けた。

皆さん、私は、今、このことを学んでいる最中です。私は、愛をもって十分に聞く前に、まだ、耳が開かれていないときに、みことばを語ってしまいやすい・・・すると、相手は傷つき、私も傷つきます。・・・そうなったとき、何が必要でしょうか。
まず、私に、みことばが必要です。まず、私のうちにある傷が、癒される必要があります。
私のうちに傷があるまま、何とかしようとするなら、私のうちにある傷が、また人を傷つけます。
まず、自分が、癒され、愛で満たされる必要があります。・・・だからこそ、祈りとみことばによって、神様との時間を持ちます。
・・・神のことばは、愛のことばです。自分が満たされるまで、愛の実を結ぶまで、みことばを読みます・・・すると、どう話しかけたらいいのか、どう接したらいいのか、みことばが教えてくれるようになる・・・神の愛が、人を変えます。
ですから、まず、私がみことばを聞いて悟り、実を結び、愛に満たされるなら、私が変えられ、さらに、みことばを聞いて、愛に満たされ続けると、私の関係も変えられて行く・・・ですから、聞くことが大切です。
マタイの福音書 13章18節
 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 

ここで、イエス様は、聞くことを強調しています。イエス様は、みことばに従えるように努力しなさいとは言われませんでした。まず、初めに、聞くことが大切だと言われました。
9節でも、イエス様は、「耳のある者は聞きなさい。」と言われました。・・・何度も、みことばを聞くことが大切だと強調されました。・・・みことばを聞くことを大切にする人に、実が結ばれる。
みことばを行うことは難しくても、聞くことは難しくありません。・・・努力しなければ聞くことが難しいのは、眠い時、ぐらいでしょう。
実は、霊的な耳で聞くことも、難しくありません。霊的な耳が開きさえすれば簡単です。
閉じているから、大変なだけで、開きさえすれば、主の御声を聞くのは簡単です。ですから、聞くことを邪魔しているものを取り除くようにと、イエス様は教えているのです。
マタイの福音書 13章19節
 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。

道端は、作物を育てるための場所ではありません。道端は、道の端っこ、人が歩いたりするところ・・・人がどこかに行くための場所・・・御言葉のためでなく、他のことのために使う場所です。
すなわち、御言葉への関心や優先順位が低くて、他のことを考えるのに忙しい心です。
メッセージ聞きながらも、頭の中では、この後、何をしようと考え始めると、みことばが心に入るのが難しくなります。
マタイの福音書 13章20-21節
 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

二つ目、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れます。聞いた時には、「アーメン。主よ、感謝します」と、喜んで受け入れます。・・・しかし、自分の中に根がないのです。・・・根を張らせる必要があります。・・・いつ、根は張るのでしょうか。
みことばのために困難や迫害が起こる・・・とあります・・・すなわち、この困難や迫害の原因は、みことばです。みことばが引き起こす困難や迫害、というものがあります。
みことばを聞いて「ああ、本当にそうだ。そうしてみよう」と、喜んで受け入れた後、「いや、本当にそうかなぁ」と思うような、出来事が起きます。

過失や失敗など、自分のせいで起こる困難ではなく、みことばを聞いて受け入れたからこそ、起こる困難です。
ああ、やっぱり、現実は、みことば通りにはならない・・・そういう時にこそ、現実ではなく、みことばに目を留めることによって、根が張ります。
根を張るために、みことばに、ずっとしがみついて、現実よりも、みことばに目を留め続ける・・・そのとき、愛によって働く信仰が生まれます。・・・愛は、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ・・・この愛をもって、みことばに目を留め続ける・・・その時、根が張り、愛によって働く信仰が生まれます。

ですから、困難や試練がやって来る時にも、いつもみことばを思い巡らすことが大切です。・・・その時、聞く耳が開きます。
マタイの福音書 13章22節
 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

みことばを聞きはしますが、この世の思い煩いと富の誘惑が、みことばをふさいで、みことばを聞いても、悟ることができない。
・・・みことばをふさぐのは、この世のことば、この世の情報です。
人の言葉、音楽、テレビ、スマホなど、あらゆるところから、この世のことばが入って来ます。

みことばも種ですが、この世のことばも種です。それらの種は、茨やあざみなど、とにかく、実を結ばない雑草を生えさせます。畑に生えた雑草は取り除く必要があります。
しかし、雑草は、作物に似た葉っぱを出します。・・・ある作物を植えると、雑草は、その作物に似た葉っぱを出します。 次の年、別の作物を植えても、雑草は、別の作物に似た葉っぱを出します。・・・素人には、作物と雑草の区別がつきません。しかし、農夫は、本物を知っているので、すぐに、雑草が分かります。
同じように、本物に目を留めている人は、雑草の情報が入ってきても、これは雑草だと思いながら、聞くことができる。
しかし、真理のみことばに目を留めないで、この世の情報ばかりを見続けるなら、そちらの方が真理に見えてしまい、惑わされます。
真理のみことばを心にとどめながら、ニュースを見るなら、世の中の情報を知ることはあっても、影響されることはなくなります。・・・みことばを心にとどめるなら、みことばだけに影響されて、みことばの実を結び、この世に影響されるのでは、この世に影響を与えるようになります。

スマホで堕落する人もいれば、スマホを通して福音を宣べ伝え、人を愛するためにスマホを用いる人もいます。・・・お金で身を崩す人もいれば、お金で多くの人を助ける人もいます。
お金が悪いわけでも、スマホが悪いわけでもなく、真理を知らないだけです。
真理が、私たちを自由にします。・・・真理のみことばが、お金について、スマホについて、どのように用いるべきかを、聞いて悟る人はその通りに用いて、実を結ぶようになります。

しかし、この世の情報が多くなると、どうしても、この世の音量が大きくなります。
物凄く大きな音が鳴り響いている場所では、小さな声で話しても聞こえません。
この世の情報に耳を傾け続けると、どうしても、この世の音量が大きくなって、聖霊様の小さな声を聞くことが非常に難しくなります。・・・この世の情報に、みことばが塞がれてしまうのです。
ですから、この世の情報の音量を上げ下げして、管理する必要があります。
単純に、一日中、テレビを見ているというなら、2時間、1時間にして、その代わりに、みことばを読んだり、思い巡らしたりし始めると、みことばを聞いて悟るようになっていきます。

朝、起きたら、まず、この世の情報を受け入れ、この世の情報によって生き始めるのではなく、まず、みことばを読み、みことばに生きる・・・すると、みことばを聞く、霊的な耳が開かれていきます。
ローマ人への手紙 10章17節
 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

信仰は、聞くことから始まります。聞くとは、この耳ではなく、心の耳、霊的な耳で聞くことです。霊的な耳で聞くと信仰が生まれ、信仰が生まれると、みことば通りに生きるようになります。
ですから、信仰の強い、弱いは、霊的な耳で、みことばを聞いているか、聞いていないかです。
信仰は、みことばを聞くことから、ようやく始まります。その後も、みことばを聞き続けると、信仰はどんどん大きくなっていきます。

この世の情報、自分の考え、あるいは、過去の経験、記憶なども、情報です。
今、体が痛い、今は難しい状況、今までも無理だった・・・そのような情報よりも、みことばが何と言っているかに、目を留めて、みことばを思い巡らし、口ずさみ続けると、ある時点で、信仰が生まれます。・・・そのように、信仰が生まれた時が、聞いて悟った時です。

それまで、絶対に無理だと思っていたのに、みことばを聞いて、イエス様が愛してくれるから、私にもできるかもしれない・・・心が変わり始める・・・そのように、みことばを聞き続けて行くと、そのうち、できるかも、いや、きっと、できる、大丈夫、恐れる必要ない。できないはずがない。絶対にできる。そこまで行くと、みことばに生きるようになり、30倍、60倍、100倍の実が結ばれます。

ですから、朝起きたら、まず、聖書を読んで、みことばの種を心に入れます。
職場に行く時も、みことばを思いながら行きます。家事をするときも、人と話すときも、みことばを考えながら話します。
悪口を聞いたなら、嫌なことがあったなら、みことばによって、祈ります。
神を愛する私たち、神のご計画にしたがって召された私たちのためには、すべてのことが働いて益となる。主よ、信じます。感謝します。みことば通りにしてください。

帰りの電車も、お風呂やトイレに入る時も、家族で食事をするときも、みことば、みことば、主が約束してくださったように、主が私たちを守り、祝福し、導いてくださる・・・そのように、昼も夜もみことばを口ずさむ人は、何をしても栄える。

今日から、始めましょう。
主の前に決心することが大切です。主に信頼し、従う決心をもって、みことばを聞くのと、ただみことばを聞くのでは、霊的な耳の開かれ方は、全然、違って来ます。
今日、この時間、小さなこと一つでも、主の前に、決心しましょう。一つのみことばを掴みましょう。
主よ、私は、このみことばを掴みます。このみことばに生きます。主よ、どうか、私が、このみことばに生きることができるように、悟る恵みを与えてください。
みことばに生きることができるまで、このみことばに目を留め続けることができるように、私を助けてください・・・・祈る時間を持ちましょう。