【253】2024/8/11 主日礼拝 『主の心を悟る恵み』 マタイの福音書<9:9~13> 斉田 基 牧師

 

 

イエス様とは、どういうお方でしょうか。
聖書を読むとき、多くのことを教えられますが、1番素晴らしい恵みは、聖書を通して、神様が、どういうお方なのか、イエス様が、どういうお方なのかを知ることです。
9-10節
 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。

取税人であったマタイは、イエス様を、自分の家にお招きして、盛大なおもてなしをしますが、その食事の席には、大勢の取税人たちや罪人たちも一緒でした。
これを見たパリサイ人たちが、イエス様の弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と文句を言いました。

皆さん、罪人とは何でしょうか。聖書で、罪とは、的外れ、という意味です。
的から外れている・・・本来あるべきところから外れている・・・それが罪だと・・・
たとえば、イエス様は、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも、互いに愛し合いなさいと教えています。つまり、愛し合う、という、本来あるべき姿から、外れて、夫婦喧嘩したり、親子が争ったりする・・・そのように、本来あるべき姿から外れていること、それが罪だと・・・
殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。父母を敬え・・・そのように、神様のみことば通りに生きていないこと、それが、本来あるべき姿から外れた罪だと・・・

そのような罪人たちと、イエス様が一緒に食事をしているのを見て、パリサイ人たちは、イエス様を裁き、批判しました。これを聞いて、イエス様は、次のように、答えられました。
12-13節
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

「わたしが喜びとするのは、真実の愛・・・真実の愛とは、何かを学びなさい。」・・・真実の愛とは、何なのかを、みことば聞いて、悟りなさい。

神様は、真実の愛を、十字架で明らかにされました。神の御子イエス様が、罪人の私を救うために、私のすべての罪を背負って、十字架にかかってくださった。私の代わりに、イエス様が、裁きを受けて、死んでくださった。
いのちを捨ててでも、私を愛することを選んでくださった、ここに、真実の愛があります。
この真実の愛は、イエス様が十字架にかかる前にも現わされていました。・・・イエス様ご自身が、イエス様の生き方そのものが、真実の愛を現わしていました。
イエス様は、取税人たちや罪人たちを愛し、赦し、いつも受け入れて、一緒に食事をしました。
この愛が分からなかった、パリサイ人たちは、いつも、罪人たちを責め、裁いていました。彼らは、イエス様のみことばを、聞いて悟ることができなかった。

同じように、私たちも、もし、イエス様のみことばを聞いて悟らなければ、イエス様の愛が分からず、家においては、夫は妻を責め、妻は夫を責め、親は子どもを、子どもは親を責めます。・・・職場でも、教会の中でも、人を批判し、さばくようになります。

皆さん、イエス様は、罪のない、完全にきよいお方です。しかし、それにも、関わらず、罪人たちは、いつもイエス様の周りに集まりました。
完全にきよいイエス様のそばが、罪人たちにとっては、居心地が良かった。イエス様のそばには、罪人たちの居場所があった。・・・何故でしょうか・・・イエス様のそばには、赦しの恵みと、真実の愛が満ちていたからです。

イエス様は、「わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだ」と言われました。
姦淫の現場で捕らえられた女性が、イエス様の前に連れて来られた時にも、「わたしはあなたにさばきをくださない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われました。

イエス様のきよさは、愛と赦しに満ちたきよさでした。イエス様は、罪人たちを裁くことなく、いつも赦し、受け入れ、愛しました。
もし、教会が、このイエス様の心を悟るなら、教会には、罪人たちの居場所ができます。
しかし、みことばを聞いても、悟らなければ、罪人たちの居場所はなくなり、パリサイ人たちのように、私は正しく、みことばを守っているという人たちが集まる教会になります。

みことばを聞いて悟るのかどうか、すなわち、イエス様の心を悟るか、どうかで、同じ場所でも、全く違う、別の世界になります。
親が、みことばを聞いて悟るなら、親は、子どもに、神様の愛とあわれみをもって、接するようになります。子どもにとって、お父さんのそばが居心地の良い場所、お母さんのそばに、いつも子どもの居場所がある。

いい子にだけではなく、悪い子にも、どんな問題児にも、居場所がある。イエス様の心を悟る恵みを受けた親のそばには、その子どもの居場所がある。
もし、イエス様の愛を、妻が悟るなら、妻のそばには、夫の居場所があり、夫が悟るなら、夫のそばには、妻の居場所がある。
・・・主のみことばを聞いて悟る家庭は、本当に幸せな家庭になります。

立派な夫婦、素晴らしい両親、真面目で良い子どもたちだから、幸せになるというのではなく、イエス様の心を悟る恵みが、幸せにします。その家庭には、良い家族にも、悪い家族にも、居場所がある、「ああ、私は、ここにいてもいいだ。こんな私でも、赦され、受け入れられ、愛されている」・・・イエス様の心を悟ることが、最高の祝福です。
多くの場合、教会に居場所がなくなる原因は、2つあります。
一つは、教会に律法主義があること、しっかりしていなければならない、礼拝を休んではいけない、 献金しなければならない、熱心に奉仕しなければならない、そのような律法主義があるとき、そうすることができない人の居場所がなくなります。
もう一つの原因は、教会には律法主義はないのに、その人自身が律法主義を持っているとき、「ああ、自分は礼拝を休むからダメ。奉仕しないからダメ、自分はダメだ。」など、自分の律法主義によって、自分の居場所をなくします。

きよさを強調する教会では、私はきよいと思える人には、居心地が良くても、「ああ、私はきよくなんてなれない」と思う人には、居心地が悪くなります。
もちろん、イエス様のようにきよくなることは、主のみこころです。イエス様のきよさを追い求めることは、強調して、教えられるべきことです。 ・・・本当にイエス様のようにきよい人たちのそばには赦しと愛があり、罪人たちの居場所があります。
しかし、きよいから良い、汚れているからダメ・・・律法主義に陥ると、赦しと愛がどこかへ行ってしまい、居場所が失われていく・・・私たちは、ともすると、律法主義に陥りやすい。

イエス様の心を悟る恵みを受けるとき、・・・罪人の私を救うために来たイエス様の愛・・・正しい人ではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たイエス様の心を悟る恵みを受けるとき、そこに、罪人たちの居場所ができます。

そんなことを言うなら、しっかり、真面目にすること、熱心になることは、悪いことなのか・・・そうではありません。イエス様のそばには、真面目な人にも、不真面目な人にも、熱心な人にも、熱心でない人にも、すべての人に居場所がありました。・・・もし、このイエス様の心を、教会が悟るなら、どんな人にも、居場所があって、互いに愛し合うことができる教会になります。
イエス様のそばには、すべての人の居場所がありました。イエス様の心を悟る恵みを受けた人たちの集まりにも、すべての人の居場所があります。
十字架の愛を悟る恵みを受けた家庭ほど幸せな家庭はありません。
イエス様の心を悟る恵みを受けた教会ほど、幸せな教会はありません。

ある教会で、まだ、結婚したことがない、クリスチャンホームの娘さんのお腹が大きくなって来ました。すると、教会の中で、噂話になりました。
「あの子、おかしいんじゃない。一体、親は、何をしているのか」

それで、その教会の牧師は、責めるためではなく、救うために、その娘さんと親を、礼拝の時に、神様と、みんなの前に立たせました。
その娘さんと親は、なぜ、こうなってしまったのか、神様と人との前で告白し、悔い改めました。それで、牧師が、「皆さん この悔い改めを受け入れますか」・・・みんな、受け入れると告白しました。その時、牧師は、こう宣言しました。
「皆さんは、今日、この悔い改めを受け入れました。今後、このことについて噂話をするなら、神様が、その人を裁かれるでしょう。」
その後、その教会では、誰も噂話をしなくなった。・・・そして、その娘さんも、その家族も、その教会から離れることなく、信仰生活を続けることができ・・・その娘さんは真面目に働くようになり、新しい出会いが与えられ、結婚し、子どもも生まれ、子どもたちも、教会につながっています。
その牧師は、罪を犯した人を冷たく裁くのではなく、救うために、みんなが、赦し、受け入れ、愛するように、聖書のみことばを、まっすぐに、教え続けました。
そして、教会の聖徒たちも、語られる聖書のみことばを、事実そのとおり、神のことばとして信じて、受け入れたので、その教会の聖徒たちは、イエス様の心を悟る恵み、みことばを聞いて悟る恵みを受けたのです。
Ⅰテサロニケ 2章13節
こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

聖書のみことばを、神のことばとして信じ、受け入れる人は、みことばを聞いて悟る恵みを受けます。聖書のみことばを通して、イエス様の心を悟る恵みを受けます。
イエス様の心を悟る恵みを受けた人々が集まる教会には、罪人たちの居場所ができます。
その結果、その教会には、崩壊しかけた家庭、完全に崩壊した家庭など、多くの傷ついた人たちが集まるようになりました。・・・そのように傷ついた人たちが、みことばを聞いて悟り、癒されていく、崩壊しかけた家庭が回復し、完全に崩壊した家庭さえも回復していきました。
そのように、イエス様の愛を悟る恵みを受けて、癒された人たち、回復された家庭を通して、さらに、新しく、家族、友人、親族が救われていく・・・そのようなリバイバルが、どこか遠い国ではなく、日本で、しかも、松戸で起こっています。それも、現在進行形で、起こり続けています。

皆さん、その教会で、今も、イエス様がしてくださっている癒し、回復、救いのわざを、イエス様は、この教会でも、したいと願っておられる、と思いますか。
・・・この教会に対するイエス様の心を悟るなら、この教会にリバイバルが起こります。あなたに対するイエス様の心を悟るなら、あなたは癒されます。あなたの家庭に対するイエス様の心を悟るなら、あなたの家庭は回復し、祝福されます。

イエス様の心を悟るとは、みことばを聞いて悟ることです。・・・みことばを聞いて悟る恵みを受けるとき、あなたの人生に、30倍、60倍、100倍の実が結ばれます。

イエス様の心、私たちの罪を背負ってくださったイエス様の心を悟るとき、私たちも、互いの罪を覆い合うようになります。
Ⅰペテロの手紙 4章8節
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

罪を覆うことは、責めることの反対です。
罪を犯した人を責めるのではなく、愛によって、覆います。・・・イエス様が、十字架でいのちを捨てた愛によって、私たちの罪を覆ってくださったように、互いの罪を覆い合う。
皆さん、今日から、人を責めることをやめることができますか。
親を責めること、子どもを責めること、上司を責めること、兄弟姉妹を責めることをやめることができるでしょうか。

責める代わりに、互いに赦し合い、愛によって覆い合って、イエス様のように生きる人たちの家庭には、親戚中の人たちが集まって来ます。
イエス様の心を悟る恵みに満ちた教会には、多くの罪人たちが集まって来て、悔い改め、救われて行きます。

皆さん、罪を覆うとは、罪を大目に見て、うやむやにすることではありません。
イエス様は、決して、罪をうやむやにすることはありませんでした。すべての罪を、ご自分で背負って、すべての罪に対する正しい裁きを、ご自分が代わりに受けてくださった。
イエス様が来られたのは、罪人を招いて、悔い改めさせ、赦し、愛し、救うためです。

イエス様のように、罪を覆うこと、赦し、受け入れ、愛することは、イエス様のように、みことばを正しく教えることです。正しく教えられたみことばを聞いて悟るとき、その人は救われます。
罪を犯した人を放って置くのではなく、しっかりと悔い改めるように教える。
子どもが、わがままなことをするなら、必ず、ごめんなさいをするように教える。

実際、イエス様は、ある意味、パリサイ人たちよりも厳しいことを教えました。
淫らな思いで異性を見るだけで、姦淫の罪だ。敵を愛しなさい。神が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。わたしがあなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。

そんなに厳しいことを教えているイエス様のそばにいて、なぜ、罪人たちは居心地が良かったのでしょうか。
それは、彼らが自分たちのような罪人を招いてくださったイエス様の心を、そばで実感していたからです。イエス様は、罪を憎みます。しかし、罪人の私を赦し、受け入れ、愛してくださる。・・・このイエス様の心、今も、あなたのそばにいてくださるイエス様の心を悟ることが、みことばを聞いて悟ることです。

みことばを聞いても悟らなければ、自分で、自分に、みことばに聞き従えないから、ダメだと言い始めます。そんなこと、イエス様は、一言も言っていないのに、ああ、自分は、みことば通りに生きられないから、自分は招かれていない、自分には居場所がない、と、勝手に、感じ始めます。

しかし、イエス様は、みことば通りに生きられない私を、あなたを招いてくださる。
裁くためではなく、赦すために、あなたを招いて、イエス様は、あなたの代わりに、すべての罪を背負ってくださった。
それだけではなく、あなたがみことば通りに生きることができるように、いつもイエス様は、あなたのそばに一緒にいて、助けてくださる。

自分では、みことば通りに生きることができない、しかし、イエス様と一緒なら、みことば通りに生きることができる、だからこそ、イエス様は、私たちを招いてくださる。イエス様のそばには、いつも、私たちの居場所があります。

今も、あなたの名前を呼んで、あなたを待っていてくださる、イエス様の心を悟るか、悟らないか・・・それが、すべてを変えます。
イエス様の心を悟るとは、みことばを聞いて悟ることです。ですから、どうか、聖書のみことばを、事実その通り、あなたに語りかける神のことばとして、信じて、受け入れてください。

皆さん、あなたに対する、イエス様の心は、愛です。
ああ、イエス様は、本当に、私を愛してくださる。
こんな私のために、いのちまで捨てて、愛してくださった。
イエス様の愛を悟るとき、イエス様に従いたくなる。
主よ、あなたのおことばですから、従わせてください、と、祈り始める。
ますます、みことばに従い、ますます、イエス様のように生きるようになる。

イエス様の心を悟る恵みを受け、イエス様のように生きる私たちを通して、家庭が回復し、家族が救われます。友だちが救われます。この地にリバイバルが起こります。
すべての始まりは、イエス様の心を悟ること・・・すなわち、みことばを聞いて、悟ることです。
今も、あなたのそばにいてくださる、イエス様の心が分かるようになることです。

今日、イエス様の心を悟る恵みを求めて、聖書のみことばを、事実その通り、あなたに語りかける神のことばとして、信じ、受け入れてください。

この時間、今も、あなたの、そばにおられるイエス様が、みことばを通して、語りかけてくださいます。・・・共に、イエス様の心を悟る恵みを、祈り求めましょう。