【240】2024/5/12 主日礼拝 『神の平安の力』 ヨハネの福音書<20:19~23> 斉田 基 牧師

 

来週は、ペンテコステを記念して礼拝をささげます。
ペンテコステにおいて、一番大切なことは、イエス様が与えると約束してくださった聖霊様に、私たちが満たされることです。

イエス様が、私たちに、一番受けて欲しいと願っている聖霊様の満たしを受けて、ペンテコステの礼拝をささげるために、この一週間、共に聖霊様の満たしを求めて、祈り備えましょう。

今日のみことばには、恐れに縛られて、何もできなくなっていた弟子たちに、イエス様が、神の平安を与えることによって、自由にしてくださったことが、語られています。
19節
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 

心が恐れに支配されていた弟子たちに、イエス様は、神の平安を与えてくださいました。それまで、恐れ、不信仰、いろんな思いに縛られていた弟子たちの心は、神の平安の力によって、自由にされました。

皆さん、私たちにも、神の平安が必要です。
イエス様が与えてくださる神の平安は、この世の平安とは違います。
神の平安とは、神様との平和の関係です。
イエス様の十字架によって、罪赦された私たちには、神様との平和が与えられました。

神様との平和がある・・・すなわち、神様は私の味方です。
主が私の味方、私は何をも恐れない。・・・私を愛してくださる主は、どんな状況でも、私を守り、勝利を与えてくださる・・・これが、イエス様から神の平安を受けるとき、私たちが持つことができる、信仰の確信です。

イエス様が与えると約束された神の平安とは、シャロームです。平和という意味もあり、さらには、豊かさ、繁栄、祝福、満足、満ち足りた状態、完全さ、神様の目に完全な状態を意味することば、それが、シャローム、神の平安です。
この平安が与えられるときに、私たちは、満ち足りた心で信仰生活を送ることができます。
Ⅰテモテへの手紙 6章6節
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

満ち足りる心を伴う敬虔、敬虔とは、信仰の生き方です。
神の平安によって満ち足りる心を伴う信仰の生き方こそ、大きな利益を得る方法です。

ここで言う、大きな利益は、私の欲望や願いを叶えるための私の利益ではなく、私の願うところ、思うところを遥かに越えて素晴らしい、主のみこころを実現するための大きな利益です。神様の栄光が現わされるための大きな利益です。

神の平安が、私たちに満ち足りた心を与えます。神の平安によって、私たちは、満ち足りる心で、礼拝をささげることができます。・・・逆に、神の平安を失うなら、虚しくなります。
一生懸命、祈っているのに、何か虚しい、祈っても、祈っても、満たされない。
神の平安を失うなら、満ち足りる心を失い、祈っても、みことばを聞いても、虚しさを感じます。

しかし、神の平安は、祈ることにも、仕事するにも、家事をするにも、何をするにも、私たちに、満ち足りた心を与えます。
私たちに、満ち足りる心を与える、神の平安が、私たちに、最後まで、祈り続ける力を与えます。

まさに、この時、弟子たちには、神の平安が必要でした。・・・恐れと不信仰に縛られていた弟子たちの心を、イエス様は、神の平安によって、自由にし、満ち足らせ、弟子たちが、聖霊様の満たしを受けるまで祈り続けることができるようにしてくださった。

弟子たちが、最後まで、諦めずに祈り続けることができたのでは、弟子たちの人間的な、決意や我慢強さや熱心の力によって、ではありませんでした。
「平安があなたがたにあるように」・・・イエス様が弟子たちに与えてくださった神の平安の力、満ち足りる心を伴う平安が、弟子たちに、最後まで祈り続ける力を与えました。

イエス様は、今日、私たちにも、言われます。・・・「平安があなたがたにあるように。」
私たちと共におられるイエス様が、今日、皆さんを、満ち足りる心を伴う神の平安で満たしてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。

神の平安は、イエス様を信じるだけで、受け取ることができます。
恐れと不信仰に縛られて何もできなかった弟子たちは、平安を求めることさえできませんでした。求めることさえしなかった弟子たちに、それでも、神の平安を受けて欲しい、と、切に、願われたイエス様が、弟子たちのところにまで来てくださった。

同じように、たとえ、今、あなたが求めることもできない状態にあったとしても、イエス様が、あなたに神の平安を受けて欲しいと、切に願って、今日、あなたのところに来てくださっています。
・・・そのように、あなたを愛し、あなたに良くしたいと願っておられるイエス様を信じる信仰によって、今日、神の平安を受け入れてください。
コロサイ人への手紙 1章19-20節
なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
神の平安、すなわち、神様との平和の関係は、イエス様の十字架が、私のためだったと信じる信仰によって、受け取ります。

イエス様は、私の罪のために十字架で死んでくださった。イエス様は、私のために墓に葬ら
れた。イエス様は、私のために復活してくださった。全ては私のためだった。
皆さん、今日、ここに集っているのは、イエス様が、あなたのために十字架にかかられたからです。イエス様が、あなたのために、墓に葬られ、あなたのために罪と死に打ち勝って復活されたからです。
・・・今も、イエス様が、私と共に歩んでくださっている・・・そのことを、私たちが、心から信じ、イエス様の十字架と復活のすべてが、私のためであったと確信する時に、神の平安が、内側から湧き上がって来ます。

1951年に、立教大学の校庭で、ひどく酔っ払った、他の大学の学生が、ナイフを持って、その場にいた、ペリー教授を、滅多刺しにして、惨殺しました。
お葬式の後、加害者の学生の母親は、夫を殺されたペリー夫人に謝罪しに行きました。
すると、ペリー婦人は、こう言いました。
「私の夫は亡くなるまで、何度も何度も加害者の学生の罪を赦して欲しい。どうか、警察に、減刑の願いを申し出て欲しい、と、繰り返し、繰り返し、願いながら、死んで行きました。
私より、もっと深く、悲しみ、悩んでいる、あなたと、あなたのご家族に、神様のあわれみが豊かにありますように。」・・・2人は、その場で、号泣して、泣き崩れたそうです。

皆さん、今にも、自分を殺そうとしている人を赦し、愛する力を、ペリー教授に与えた力・・・それは、神の平安の力です。
最愛の人を殺された自分の悲しみよりも、人の悲しみを思って、その人のために、神様のあわれみを求める力を、ペリー婦人に与えた力は、神の平安の力です。
私のために死んでよみがえられたイエス様が、今も、私と共にいてくださる、この信仰によって、与えられた神の平安が、彼らに力を与えました。

イエス様を信じるすべての人に、イエス様は、神の平安を与えてくださいました。
それにもかかわらず、なぜ、多くのクリスチャンが、神の平安を失ってしまうのでしょうか。
・・・それは、主が、私と共におられると確信する信仰を失ってしまうからです。

多くの人は、いろんなものを恐れて生きています。・・・人目を恐れ、失敗を恐れ、失敗したくないから、本当は、したかったこともできない・・・そのように、いろんな思いに縛られています。
しかし、もし、私たちが、本当に、主が共におられることを確信するなら、
私の主は、私の失敗さえも、良いものに変えてくださる。
私の主は、私が恐れていた人間関係も、良いことも、悪いことも、すべてを働かせて益としてくださる。
私の主は、私の現在も、未来も変えてくださる。私の最悪の過去でさえも、主は、その過去の意味を変えてくださる・・・この確信、私と共に主がおられる、この確信が、私たちを自由にします。
弟子たちが、生まれつきの盲人について、この人がこんな苦しみにあっているのは、この人のせいですか、それとも、親のせいですかと、イエス様に聞いたとき、
イエス様は、それは、この人のせいでも、親のせいでもなく、この人たちに神様の栄光のわざが現われるためだ・・・そう言われて、癒してくださいました。

人は、あなたの過去を、それは、あなたのせいだ、と言って、あなたを傷つけることがあるかもしれません。
あなた自身も、「私があんなことさえしなければ」と、後悔し、自分で、自分を責めてしまうことがあるかもしれません。

しかし、イエス様だけは、絶対にあなたを責めません。傷つけません。
たとえ、それが、本当に、あなたのせいであったとしても、イエス様だけは、それは、あなたのせいではない。わたしは、それを、わたしのせいにする。わたしが背負う。
そう言って、十字架で、あなたの代わりに打ち砕かれてくださった、イエス様のうち傷によって、あなたは癒された。

過去、現在、未来、良いことも、悪いことも、すべてを働かせて、益としてくださるイエス様が、私と一緒にいてくださる・・・そう確信する信仰が、私たちに、神の平安を与えます。

私たちが平安を失ってしまう原因は、私の困難や問題が大きいからではありません。・・・イエス様が、私のそばにいてくださると確信する信仰を失うからです。
詩篇 16篇8-9節
 私はいつも 主を前にしています。 主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません。
 それゆえ 私の心は喜び 私の胸は喜びにあふれます。 私の身も安らかに住まいます。

このみことばを告白したダビデは、いつも、主を、自分の前にしました。
ダビデは、いつも、心を主に向けて、主を喜び、主と共に平安のうちに生活しました。
ダビデの信仰は、まるで、小さな子どものような信仰です。・・・小さな子どもは、親が一緒にいるだけで、安心します。小さな子どもは、親を見つけると、本当に嬉しそうな顔をします。

ダビデは、自分の目の前に、神様がいてくださる、そのことのゆえに、喜びにあふれました。
ダビデの喜びの理由、平安の理由は、自分が王様になったことではありません。お金をたくさん持っていたことでも、能力がたくさんあったことでもありません。
ダビデの喜びと平安の理由は、主がそばにいてくださること・・・私を愛してくださる主が、私から離れることなく、いつも私と一緒にいてくださる・・・これが、ダビデの喜びと平安の秘訣でした。

皆さんは、どうですか。どういう時に、平安を感じますか。
成功する時でしょうか。・・・何の問題もなく、上手く行っている時に、平安を感じるでしょうか。
私たちは、どこかで、自分の平安を感じようとします。
お金をたくさん持つことによって平安を感じようとしたり、ゲーム、動画、自分の楽しみに没頭することによって、平安や喜びを感じようとしたり・・・しかし、それらすべては、一時的です。
確かに、世の中には、楽しいものがたくさんあります。・・・しかし、内側から溢れる喜び、揺るがされない平安は、イエス様だけしか与えることができません。

ある幼稚園の先生が、こう言っていました。
保護者の皆さん、お子さんが、幼稚園に行きたがらないとき、「幼稚園に行ったら、楽しいことがいっぱいある。」とは、言わないでください。
実際に、幼稚園に来て、ケンカしたり、意地悪されたり、楽しいことばかりではない現実を見る時、「なんだ。聞いていたのと違う」と思って、もっと行きたくなくなります。

同じように、教会に来たら、イエス様を信じたら、問題も、悩みもなくなり、喜びに満たされる・・・とは、言わないでください。
主イエスを信じても、苦しみ、悩みはあります。しかし、主イエスを、本当に、信じるなら、苦しみ、悩みの中にあっても、私を慰め、励まし、力と勝利を与え、世の中にはない、考えられないほどの喜びと平安で私を満たすことができる主イエスが、私と一緒にいてくださるようになります。

教会よりも、世の中の方が、楽しいものはたくさんあるでしょう。
しかし、教会には、世の中にはない、主の喜びがあります
そして、主の喜びが私たちに、この場所を、楽しめるようにします。この場所だけではありません。主の喜び、神の平安には、この場所だけではなく、苦難、絶望、死の陰の谷でさえも、私たちを喜びにあふれさせる力が、神の平安には、あります。

ダビデは、絶対に喜ぶことなどできない状況において、喜びにあふれました。
サウル王に、命を狙われて、十年以上、荒野で逃亡生活をしていたときにも、ダビデは、自分のいのちにもまさる主の恵みのゆえに、喜びにあふれました。

皆さん、考えてみてください。今日から、十年以上、ストーカーに追われる気持ち・・・毎日、自分の家に、ピンポン、ピンポン、ピンポン・・・毎日、脅しの電話、メール・・・そのような状況で、平安を感じることなど、できるでしょうか。

ダビデの場合は、そのストーカーは1人で追いかけては来ませんでした。サウル王は、軍隊を引き連れて、ダビデを殺すために、血眼になって、捜し続けました。・・・死の恐怖がダビデを襲い続けていました。・・・それなのに、ダビデは、恐れませんでした。
また、その恐怖の原因を断つこともできたのに、ダビデは、それを、自分で終わらせようともしませんでした。

サウル王を殺すチャンスが、2度もあったにもかかわらず、ダビデは、「主に選ばれて王となった者に、私が手を下すことなどできない」と言って、主にゆだねることを選びました。
ダビデは、その時にも、主を自分の前にすることを選んで、主に委ねました。
そのように、いつも、主を自分の前にして、主にゆだねることを選んだ、ダビデに、主も、いつも平安と喜びを与えてくださいました。
ダビデに平安と喜びを与えてくださった主が、今日、皆さんにも、平安と喜びを与えてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。

今、この時間、イエス様を、自分の前にすることを選んでください。
礼拝する時、心を尽くして、イエス様を求めること、イエス様を一番にすることを、心に決めてください。・・・大切なことは、自分の意志で、心に決めることです。
皆さん、あなたの心は、あなたのものです。あなたの代わりに、誰かが、あなたの心を決めてあげることはできません。・・・あなたが、自分から、主を選ぶことを、それを主は願っておられる・・・それが、主を愛することだから・・・主は、あなたの愛を切に求めておられる。

今、この時間、主を愛することを、心に決めてください。
私は主を愛し、主にゆだねる。私は、主を私の前にする・・・心を決める、その時、聖霊様が、あなたの心に、神の平安と喜びを満たしてくださる。

今、共に、心を決めて、主の前に告白しましょう。
私は、主を喜びます。私は、主を、私の最高の喜びとします。主を喜ぶことが私の力です。アーメン。

皆さん、たとえ、多くのものを持っていても、イエス様が、私と共にいてくださる確信を失う時、私たちは平安を失います。
お金がたくさんあっても、成功しても、自分の願いが叶っても、イエス様を見失うなら、私たちは、神の平安を失います。

今、この時間、イエス様が私たちのために、なぜ十字架にかかって死んでくださったのか。
なぜイエス様が、今も、私たちのところに来てくださっているのか。・・・それは、私たちに、神の平安と喜びを与えるためであったことを、もう一度、覚える時間を持ちます。

今、この時間、もう1度、十字架で、イエス様が、私のために、何をしてくださったのか。
イエス様、私が、日々、あなたを見失って生きた、全ての罪を、どうか、あなたの血潮によって、洗い清めてください。
イエス様、どうか、私が、いつでも、どこでも、あなたを見失うことがないように、イエス様から、目を離すことがないように、イエス様、あなたから、心が移っていくことがないように、
今、この時間、聖霊様、どうか、私のうちに、イエス様の十字架のいのち、愛、喜び、平安で、もう1度、私を満たしてください。・・・しばらくの間、共に祈り求める時間を持ちましょう。

 

主よ、感謝します。
今この時間、主から与えられる平安と、イエス様が、私たちのうちに与えてくださるいのちの喜びで、私たちの内側を満たしてください。
私たちが本当に、主の前に、自分を下ろして、主だけを見上げ、主だけを求めて、主と共に生きる者となることができるように、どうか、聖霊様、助けてください。

主イエスの十字架によって、回復が与えられていることを、心から感謝します
今 この時間、私たち一人、一人に、あなたが、その十字架の血潮を注ぎ、その全ての罪汚れから、私たちをどうぞきよめてくださいますように。
どうか、一人一人に、主の平安と喜びを回復させてください。

イエス様、この地上に来てくださり、十字架で死なれ、その打たれた打ち傷、流された血潮によって、私たちを贖い、清め、私たちを神様の子どもにしてくださったことを感謝します。
主よ、あなたをの御名によって集まることができ、あなたを礼拝し、あなたを喜ぶことができるようにしてくださった恵みを心から感謝します。
あなたの十字架の救いを心から感謝します
あなたの恵み、あなたの祝福のすべてを心から感謝します。
主よ、あなたが与えてくださった全てを、喜んで受け取ります。
あなたが、私たちのために用意してくださった全てのことを、心から感謝して受け取ります。
主よ、どうか、私たち1人1人が、主が与えてくださる平安と喜びの中で、どんな状況においても、神様に愛されている神様の子どもとして、あなたを愛し、あなたを喜び、あなたと共に生きることができるように、祝福し、導いてください。
感謝して、愛するイエス様の御名によってお祈りします。