【234】2024/3/31 主日礼拝 『命にも勝る真実』 マルコの福音書<16:9~20> 斉田 基 牧師
今日は、イースターとも呼ばれる、復活主日です。復活主日とは、イエス・キリストの復活を喜び、感謝する日です。イエス・キリストは、私たちに、罪の赦しと永遠のいのちを与えるために、私たちの罪を背負って、十字架で死なれ、三日目によみがえられました。
2000年前に、イエス・キリストと呼ばれる人物が、十字架に磔にされて、死んだことは、高校生が世界史で習う歴史的な事実です。実は、十字架の死だけではなく、イエス・キリストの復活も、歴史的な事実です。
・・・なぜ、そう言えるか・・・証拠があるからです。・・・証拠には、2つの種類がありますが、一つは、物的証拠、そして、もう一つは、人的証拠・・・すなわち、証言です。
2000年前に、イエス様が十字架につけられて死んだのを見た人たちの、「イエス様は、確かに死んだ」という証言、すなわち、証拠があったのと同じように、復活されたイエス様に出会った人たちの、「イエス様はよみがえられた」という証言、すなわち、証拠があったのです。
9-11節
さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。
マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
マグダラのマリアは、「私は、よみがえられたイエス様に会いました」と証言しましたが、彼女の証言を聞いても、彼らは信じませんでした。彼らとは、イエス様の弟子たちです。
12-13節
それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。
その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
マグダラのマリアの証言を信じなかった弟子たちのうちの二人が、復活されたイエス様に出会いました。それで、その二人も、他の弟子たちに、「私たちも、よみがえられたイエス様に会った。」と証言しましたが、それでも、弟子たちは、頑なに信じようとしませんでした。
ある意味、当然でしょう。・・・弟子たちは、目の前で、イエス様が十字架で死ぬのを見ました。死人がよみがえるなど有り得ません。とても信じることなどできない。
しかし、その弟子たちが、イエス様の復活を信じました。信じるだけでなく、「イエス様は、よみがえられた」と、いのちをかけて証言するようになりました。・・・何があったのでしょうか。
14節
その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
それまで、頑なに信じなかった弟子たちが、イエス様の復活を信じるようになった理由は、ただ一つ・・・弟子たち自身が、復活されたイエス様に出会ってしまった。
皆さん、どんなに信じられなかったとしても、イエス様に出会ってしまうなら、もう信じるしかない・・・それが、今、最も激しく起こっている地域の一つが、中東です。
その地域では、イエス様を伝えることは禁止されています。当然、宣教師は入って行くことができない。もし、仮に、その地域の人が、イエス様を信じたいと思っても、そのためには、財産も、家族も、いのちさえも失う覚悟が必要になる地域です。
それにもかかわらず、ここ最近の30年の間に、イエス・キリストに従う決心をした人々は、イスラム教が始まってから、約1400年の間よりも、遥かに多い・・・何が起こっているのでしょうか。
宣教師など、人間が入り込めない地域で、私は、イエスという方に出会った。夢や幻などで、白い衣を着たイエスという方に出会った。
イエス様を見たこともないのに、出会ったときに、それがイエス様だと分かったと言うのです。
ある村では、一夜のうちに、すべての村人が、それぞれ、イエス様に出会って、一夜のうちに、村人全員が、イエス様を信じるようになった・・・そのような証が、たくさんあります。
イエス様に出会った彼らが、共通して証しすることは、イエス様の目には愛が満ちていた。ああ、私は、本当に、このお方に愛されている・・・それが分かる、と・・・
私の罪のために死んで、よみがえられたイエス様、いのちを捨てて、私を愛してくださったイエス様のためなら、私もいのちを捨てます。
皆さん、私たちも、イエス様との出会い方はそれぞれ違ったかもしれません。しかし、少なくとも、彼らのように、自分に対するイエス様の愛を体験したかこそ、それまで、自分のために生きていた人生が変えられてしまった。・・・イエス様、私も愛します。あなたのために生きます。・・・そうでは、なかったでしょうか。
イエス様に出会ってしまうなら、もう信じるしかない。イエス様が、こんなにも私を愛してくださるから、私も愛します。・・・生き方が変えられます。
だからこそ、頑なに信じなかった弟子たちも、復活のイエス様に出会った、その日を境に、「イエス様はよみがえられた。イエス様こそ、私の救い主、私の主です。」と、いのちをかけて証言するようになりました。・・・そのように証言するためには、死を覚悟しなければならなかったにもかかわらずです。
実際、イエス様の十二使徒のうち、使徒ヨハネ以外のすべて使徒が、殉教の死を遂げました。
「イエス様はよみがえられた。復活の主イエス・キリストこそが、私の主です」・・・この証言の故に、彼らは、殺されました。
使徒ヨハネも、その証言のために、捕らえられ、ローマで煮えたぎった油の大釜に入れられ、奇跡的に助かった後、パトモス島に島流しにされ、一生の間、迫害されながらも、イエス様の復活を、証言し続けました。
人は、嘘のために、いのちをかけることなどできません。人が嘘をつくのは、嘘をつくことによって、何か得をすることがあるからです。自分のため、あるいは、愛する人のため・・・とにかく、何かしらのメリットがなければ、わざわざ嘘をつこうとは思いません。
嘘をついても、何の得にもならないどころか、その嘘のために、死ぬほど苦しまなければならないというなら、そんな嘘を貫き通せる人などいないでしょうか。
むしろ、たとえ、それが、真実であったとしても、その真実のために酷い拷問を受けるなら、多くの人は、その真実を否定して、「それは真実でなかった。嘘でした。」と言ってしまうでしょう。
しかし、使徒たちは、どんなに酷い拷問を受けても、主イエスの復活を証言し続けました。彼らにとって、主イエスの復活という真実は、いのちを捨てても、証言する価値があったのです。
使徒たちだけではなく、主イエスを信じた人たちも、私を愛し、私のために死んで、よみがえられたイエス様こそ、私の主です・・・この真実のために、いのちをかけました。
へブル10:32-34
あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。
嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。
あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。
皆さん、私は、この真実のためなら、どんな苦しみにも耐え忍び、何を犠牲にしてもかまわないと思えるほどの、真実を持っておられるでしょうか。
彼らにとって、イエス様がよみがえられたという真実は、その真実のためなら、自分の財産を失っても、すべてを犠牲にしてもいいと思えるほどの真実、自分のいのちをかけるに値する、真実でした。
私を愛し、私の罪のために死んで、よみがえられたイエス様は、私の救い主。イエス・キリストは、今も、私のうちに生きておられる。私の主です。・・・この真実を、彼らに捨てさせようとしたのが、ローマ帝国でした。
当時の世界を支配していたローマ帝国は、主イエスを告白する人々を、根絶やしにしようと、全力を尽くしました。
彼らが集まって礼拝することを禁止し、教会の建物を破壊し、聖書を焼き捨て、彼らの財産を没収し、片っ端から、彼らを逮捕して行ったので、ローマ中の牢獄がいっぱいになりました。
ついには、彼らを、コロッセオに集めて、ライオンの餌にして、見世物にしました。
腹を空かせたライオンが、襲いかかる、その状況では、ほとんどの人が、わが身可愛さのゆえに、少しでも長生きしようとして、人を押しのけます。そのような姿を期待していた観客は、信じられない光景を目にしました。
彼らは、自分ではなく、人を守ろうとして、我先にと、自分から進んで、ライオンの前に行きました。そのように、次々と、自分からライオンに食べられていき、すべての人が食い尽くされたとき、コロッセオは、静まり返りました。
自分を犠牲にしてでも、人を愛そうとする姿、いのちを捨てて、人を助けようとする姿を目の当たりにした観客たちの中から、多くの人が、主イエスを信じるようになりました。
結局、ローマ帝国は、主イエスの信仰を滅ぼすことができず、キリスト教を、国の宗教として受け入れました。
当時、ユダヤは、ローマ帝国の辺境の属州でした。そのユダヤの田舎で、イエス様と数十人の人からキリスト教は始まりました。田舎の田舎の田舎で、少数の人たちから、始まったキリスト教の歴史は、苦難に、次ぐ、苦難の連続、激しい迫害の連続でした。
皆さん、キリスト教ほど、世界中で、その信仰のために殺され続け、迫害を受けながらも、世界中に広がって来た宗教はありません。実際、キリスト教は、宗教ではないからです。
キリスト教とは、私の罪のために死んで、よみがえられた救い主、イエス・キリストとの関係です。・・・復活されたイエス様が、今も、私のうちに生きておられ、私は、イエス様に愛されて、愛されて、愛されているから、私も、イエス様を愛します・・・この、イエス様と愛し合う関係こそが、キリスト教のいのちです。
イエス様と愛し合う関係を持たないで、ただ、キリスト教を信じるなら、それは、いのちを失った死んだ宗教です。イエス様と愛し合う関係を失ったキリスト教は、私たちを救う力も、いのちも失った、死んだ宗教です。
いのちは、イエス・キリストにあります。あなたの罪のために死んでくださり、罪と死の力に打ち勝って復活されたイエス様だけが、あなたを救うことができ、あなたの人生を変えることができ、あなたに永遠のいのちの救いを与えることができます。
ある男性は、神も仏も信じていませんでした。
彼は、幼い頃、父親から、酷い虐待を受けて育ちました。
彼が、幼稚園に入る前、その日は、母親がおらず、父親と叔母さんだけが家にいました。
突然、父が、彼に対して、激怒し、鼓膜が破れるほど、彼を殴り続けました。それでも怒りが収まらず、幼い彼の足をつかんで、水の中に沈めました。
それを見た叔母さんが、泣きながら、父を止めてくれたので、彼は命拾いしました。
それ以来、叔母さんは、彼を、よく家に泊めてくれるようになりました。
叔母さん夫婦には、子どもがなく、幼稚園に入る前から、鍵っ子で、いつも一人で留守番をしていた彼を、可哀そうに思ってくれたのです。
彼は、幼いながらも、叔母さんに、すごく恩を感じて、「叔母さん、僕が、大きくなったらね。お母さんと、叔母さんと、一緒に住める大きな家を建てて、恩返しするからね。」・・・そう言っていました。
時が経ち、彼は大人になりました。ある日、職場に電話がかかって来ました。
「叔母さんが、危篤で、もう、もたない。今すぐ病院に来い」・・・頭がハンマーで、殴られたようなショックを受け、もう涙が止まりませんでした。
急いで、病院に行きました。親族がみな集まって、人工呼吸器がつけられた叔母さんの周りで泣いていました。・・・脳卒中でした。結局、叔母さんは、一命は、取り留めたものの、脳死状態になってしまいました。
「叔母さん、叔母さん、分かる、僕だよ。」・・・何を言っても、もう返事がありません。つねっても、揺すっても、何をしても、もう何の反応もありません。意識もなく、何もできない状態でした。
その時、彼は、激しく後悔しました。僕は、何て薄情で、恩知らずだったんだ。あの時、叔母さんが、僕のいのちを助けてくれたのに。恩返しするって、約束したのに。何もして来なかった。自分のことばかりだった。僕は、なんて、どうしようもない人間なのかと、自分を責め続けました。
もう、好きな食べ物をご馳走したくても、食べさせることもできない。温泉に連れて行ってあげたくても、連れて行くこともできない。
病院に行って、叔母さんを見る度に、悲しくて、自分を責めて、辛くなる・・・もう病院にも行けなくなりました。
・・・そのことが、自分は罪人だったということを彼が知る、一つのきっかけには、なりましたが、それと同時に、彼は、神などいないと、心を堅く閉ざしてしまいました。
あんなに良い人だった叔母さんが、こんな目に会ったのに、この世の中には、悪い人たちが、罰を受けることもなく、幸せに暮らしている、こんな不平等な世界に、神など、いるはずがないと、心を堅く閉ざしてしまった。
しかし、そのように、神様に心を閉ざしていた彼が、神様を信じるようになった。・・・何があったのか。出会ってしまった・・・彼の罪のために死んで、よみがえられたイエス様に、聖書のみことばを通して、出会ってしまったのです。
ルカの福音書 23章34節 前半
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
イエス様が、十字架の上で、祈られた、この祈りを、イエス様は、僕のためにも、祈ってくださった。・・・イエス様は、「父よ、彼をお赦しください。彼は自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 僕のために、祈ってくださった。
聖書のみことばを通して、2000年前に死んでしまったイエス様ではなく、よみがえられ、今も、生きておられ、私を赦してくださり、私を愛してくださるイエス様に、彼は、出会いました。
イエス様に出会ってから、彼の人生は変えられました。イエス様は、確かに、今も、彼のうちに生きておられ、今も、彼のために祈ってくださり、そして、彼の祈りを聞いてくださり、答えてくださる。・・・もう一人で生きる人生ではなく、イエス様と一緒に生きる人生が始まりました。
それから間もなく、脳死状態だった叔母さんが、再び、危篤になったという連絡を受けました。
以前、神様を知らなかった時には、彼は、ただ泣くことしかできませんでした。ただ、後悔し、自分を責めることしかできませんでした。
しかし、神様に出会った彼には、できることがありました。お祈りです。神様に祈ることでした。
「神様、どうしたらいいんですか。 神様、この状態で、あなたは、どうしたいのですか。叔母さんは、危篤です。もう時間がありません。今、脳死状態で、意識もありません。僕が何を言っても、通じません。どうしたらいいですか。」
その時、神様が、彼の心に語りかけてくださいました。「福音を語りなさい。」
いや、福音を語りなさい、と言われても、もう何を言っても、どうせ、聞こえない。お医者さんも、「叔母さんは、脳死で、何を聞いても、分からない」と言った・・・そのような思いになった彼の心に、神様は、もう1度、はっきりと「福音を語りなさい。」
それで、彼は、病院に行きました。叔母さんは、ナースステーションから、一番近い個室で、たくさんの管をつけられた状態で、寝かせられていました。
彼が到着した瞬間、不思議なことに、看護婦さんも、付き添っていた親族もみんな出て行って、彼と叔母さんだけの1対1の時間ができました。
それで、彼は、ベットのそばに跪いて、叔母さんの耳元で、
「叔母さん、叔母さん、イエス様はね、叔母さんの、救い主なんだよ。
僕の声、聞こえているかどうか分からないけど、もしイエス様が見えたら、
もし、イエス様の十字架が見えたら、その十字架は、叔母さんのためだったんだから、
声には出さなくてもいいけど、心で信じて、どんな方法でもいいから、
イエス様を信じて欲しいんだ。そうしたら、叔母さんは、救われて、神様の子どもになって、
天国に行くことができるんだよ」・・・耳元で、そう言いました。
看護師さんが言うには、叔母さんは、脳死状態になって、一年以上の間、何一つ反応がなかったそうです。しかし、その時、叔母さんは、目を動かして、彼を見ました。
それで、彼は、「声に出せなくてもいいから、僕の言ったことが伝わっていたら、イエス様のことが伝わっていたら、何でもいいから、合図して!」 と言うと、その時、叔母さんは涙を流しました。
・・・後で、看護師さんに聞くと、「いや、そんなことは一度もなかったですよ。脳死状態ですから、意識もないですし、感情もないですよ。」
しかし、その時に、彼がイエス様のことを伝えたその時に、叔母さんは、目を動かして、彼を見て、涙を流しました。・・・その深夜、叔母さんは、天に召されました。
・・・彼は、こう証しされていました。
「もう、悲しみの涙は必要ありません。もう、死別の涙は必要ありません。
もう人生が終わりだと、絶望する必要はありません。
イエス様が、私たちの悲しみも絶望もすべてを背負って、十字架で死んでくださった。悲しみも絶望もすべてを葬ってくださった。そして、復活してくださった。永遠のいのちの希望を与えてくださった。」・・・そのように、証しされていました。
この永遠のいのちの希望こそ、使徒たちが、いのちをかけて証言した真実です。
かつて、イエス様がよみがえられたと、聞いても、頑なに信じようとしなかった弟子たちも、復されたイエス様が、出会ってくださったとき、永遠のいのちの希望を証言する者に変えられました。
かつて、「こんなに良い叔母さんが不幸になり、悪い人が幸せになる、こんな不平等な世界に、神などいない」と、心を堅く閉ざしていた彼も、イエス様が出会ってくださったとき、彼に永遠のいのちの希望と喜びを与えてくださったイエス様を伝える者に、変えられました。
今日、イエス様は、彼らだけにではなく、私たちにも出会ってくださいます。
彼らのためだけではなく、イエス様は、私のためにも、あなたのためにも、死んでよみがえられました。
彼らの悲しみを喜びに変えるだけではなく、イエス様は、私の悲しみ、あなたの悲しみを喜びに変えてくださる。あなたの絶望を希望に変えるために、イエス様は、みことばを通して、あなたに出会ってくださる。
今日、イエス様のみことばを信じて、「私も、私を愛し、私のために死んで、よみがえられたイエス様に出会いたい」と祈り求めてください。イエス様は、あなたに、出会ってくださいます。
ヨハネの福音書 11章25節
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

