【233】2024/3/24 主日礼拝 『祈られる恵み』 ルカの福音書<22:31~34> 斉田 基 牧師
今週は受難週です。私たちを救うために、十字架で苦しまれたイエス様・・・ご自分のいのちが尽きる最後の瞬間まで、私たちを愛し抜かれたイエス様を覚えて、過ごしましょう。
特に今週は、イエス様が私たちを思って、とりなし祈ってくださった、イエス様の祈りを覚えて過ごしましょう。
皆さん、イエス様は、今も、私たちのためにとりなし祈っておられます。
へブル人への手紙7章25節
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
イエス様は、今も生きていて、私たちのためにとりなし祈ってくださっています。今も、私のためにとりなしてくださるイエス様に信頼して、神に近づくなら、私は完全に救われます。
そのように、今も、イエス様に祈られている・・・この恵みを受けるとき、私たちも、大切な人のために、イエス様と一緒に祈ることができます。
復活主日に向けて、この一週間、イエス様に祈られる恵みを受けて、私たちも、大切な人の救いのために、イエス様と一緒に祈りましょう。
31-32節
シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
私たちは、この人を救ってください。あの人も救ってください。と、救いを求めて祈ります。
しかし、イエス様は、救いだけではなく、救われてイエス様のそばにいた弟子たちのために、信仰がなくならないように、と、祈ってくださいました。
そのように、イエス様は、今も、私たちのために、私たちの信仰がなくならないように祈ってくださいます。
いや、私は、信仰がなくならないようにと、祈られなければならないほど、ピンチな状況ではありません。・・・そう思うかもしれません。
この時の、ペテロたちもみな、「いや、イエス様、あなたとご一緒なら、死ぬ覚悟ができています。私の信仰は大丈夫です。私の信仰はなくなりません。」・・・そのように思っていました。
皆さん、私たちには、それぞれ、弱さがあります。そして、サタンは、まさに、その弱さにつけこみます。他のところはともかく、そこを突かれるなら、負けてしまう、弱点を攻撃し、弱いところを誘惑します。
イスカリオテのユダは、お金に弱さがありました。そこが誘惑され、悪魔に利用されました。
私たちは、頭では、イエス様を、まず第一にするなら、経済も仕事も祝福されると分かっています。しかし、経済や仕事において、弱さがある人は、そこが誘惑されるとき、イエス様よりも先に、経済や仕事を優先させてしまうことがあります。
愛する家族、大切な友人など、人間関係を大切にするあまり、イエス様よりも先に、人を優先させる誘惑に陥ってしまうこともあるでしょう。
祈っても、祈っても答えられないとき、この問題、この病、この願いは、もう無理かもしれない。
祈り始める時には、ペテロのように、「いや、イエス様、私は、最後まで、祈り抜きます。私の信仰はなくなりません。」 そう思います。
しかし、祈っても、祈っても、なかなか解決されない、欲しいものが手に入らない、願っているようには答えられない・・・そんな状態が長引くと、「もう無理です。もう祈ることに疲れ果てました。」・・・そんな弱さがあります。
イエス様のそばで、「私の信仰は大丈夫」と思っていた弟子たちのうちに隠れていた弱さ、自分でも気づいていなかった弱さが、悪魔の振るいによって、明らかにされたように、私たちの弱さも明らかにされる時があります。
そのように、弱さが明らかにされる時こそ、このことを覚えてください。イエス様は、そんな私たちの弱さを、知っておられる・・・自分の弱さに苦しむ私たちの苦しみを、イエス様は、私たちと一緒に苦しんでくださる。あわれんでくださる。
そして、折にかなった助けを与え、弱い私たちを救ってくださることを信じてください。
へブル4:15-16
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
皆さん、私たちは、強くありません。人を救いに導くどころか、自分の信仰を守る力さえもありません。私たちは弱いです。しかし、それと同時に、私たちの弱さを知って、いつも助けてくださるイエス様がともにおられること、イエス様が必ず守ってくださること、イエス様が、今も、私のために祈っていてくださることを覚えてください。
イエス様は、いつも弱い私たちを助けてくださいます。たとえ、どんなに弱くても、イエス様に、助けを求めるなら、イエス様は、私の弱さのうちに、神の力を働かせて、勝利を与えてくださいます。
だからこそ、私たちは、自分の弱さを認め、弱いからこそ、イエス様の助けを求めて、祈ることを選んでください。
イスカリオテのユダは、自分の弱さを認めず、弱さが明らかになったときにも、イエス様の助けを求めないで、自分で、自分のいのちを断ちました。
ペテロも、なかなか、自分の弱さを認めることができませんでした。ゲツセマネの園でイエス様を見捨ててしまった後、何とか、勇気を振り絞って、遠くから、イエス様について行きました。
しかし、女性の召使いに、「この人はイエス様と一緒にいました」と言われたとき、恐れに打ち負かされ、イエス様を否定しました。・・・三度も否定しました。
自分の弱さが明らかになったとき、ペテロは打ちのめされ、なかなか立ち直ることができませんでした。復活されたイエス様に出会った後も、ペテロは、自分を赦すことができませんでした。
しかし、イエス様が、三度目に、現れてくださったとき、ペテロは、イエス様だと分かった瞬間に、海に飛び込んで、イエス様に近づいていました。
ここに、イスカリオテのユダとペテロの違いがあります。ペテロは、恐れの故に、イエス様を見捨ててしまったときにも、勇気を振り絞って、イエス様に近づこうとしました。
三度もイエス様を否定した自分を赦せなかった。もう自分はイエス様の弟子にふさわしくないと思っていたのに、イエス様が、そこにおられると分かった瞬間、ペテロは、イエス様に近づいていました。
皆さん、弱くても、罪深くても、イエス様を求める、イエス様に近づくことを選ぶとき、私たちは、私たちを赦してくださる、愛してくださる、イエス様の恵みを体験します。・・・ですから、私たちは、どんな時にも、イエス様を求めることを選びましょう。
イエス様は、私たちが、どんなに弱くても、強くしてくださり、どんなに罪深くても、赦してくださり、どんなに汚れていても、きよめてくださいます。
私たちの目には、自分のことが、どう見えたとしても、イエス様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」・・・イエス様は、いつも、あなたを尊び、愛されます。
イエス様を求めるとは、イエス様と一緒に生きることです。今週は、特に、イエス様が祈られたように、イエス様と一緒に祈ることを通して、イエス様を求めましょう。
ヨハネ12:27-28
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
この祈りは、イエス様が十字架にかかられる前日に祈られた祈りです。
この時とは、これから、弟子たちに見捨てられ、鞭打たれ、あざけられ、十字架で死の苦しみを経験する時でした。
しかし、イエス様は、このためにこそ、わたしはこの時に至った。父よ、御名の栄光を現してください・・・と祈りました。
十字架の苦しみを受ける時は、イエス様にとって、苦しみを受けると同時に、栄光を受ける時でもありました。この祈りをささげる直前に、イエス様は、このように告白しました。
ヨハネ12:23-24
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
イエス様にとって、十字架の苦しみは、その苦しみによって、愛する私たちを救う栄光を受ける時でした。このためにこそ、すなわち、愛するあなたを救うためにこそ、わたしはこの時に至った。とイエス様は、祈られた。
日本で、リバイバルに用いられ、社会に影響を与えた賀川豊彦先生が、日々、祈っていた祈りを紹介します。
一人一人が、小さいキリストとなって、黙って人の尻拭いをする道を歩ませてください。
あなたの栄光を現すために、一生を棒に振る、勇気を与えてください。
今や日本は、未曽有うの危機に臨んでいます。願わくば、我々を、一粒の麦として、この地にしみ込ませ、新しいいのちの実を生み出してください。
多くの人は、もっと私を祝福してくださいと祈ります。
しかし、「黙って人の尻拭いをする道を歩ませてください。」と祈れるでしょうか。むしろ、何で、私が、人の尻拭いをしなければならないのかと思うでしょう。
神様の栄光のために、一生を棒に振る勇気を与えてくださいなどと、祈れるでしょうか。むしろ、一生を棒に振りたくないと言うのが、多くの人の願いです。
しかし、賀川先生は、自分の願いでも、多くの人の願いでもなく、イエス様の願いを祈ることを選びました。すなわち、今も、イエス様が人々のために祈られているイエス様の祈りを、日々、イエス様と一緒に祈ることを選びました。
わたしという一粒の麦が死ぬことを通して、多くの実を結んでくださいという、イエス様の祈りを、イエス様と一緒に祈ることを選んだ、賀川先生の祈りと共に働いて、神様は、社会に影響を与えるリバイバルを起こしてくださいました。
「いや、私には、自分が死んで、人を生かす・・・そんな祈りは、祈れない」と思うのが、普通です。・・・だからこそ、その祈りを、自分が祈ろうとするのではなく、まず、その祈りで、自分が祈られている恵みを受ける必要があります。
イエス様は、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」と言われた時、ペテロは、「自分の信仰は強い、大丈夫だ」と、思っていたので、祈られる恵みが分かりませんでした。
しかし、イエス様を見捨て、三度も否定し、自分の弱さが明らかになった時、「ああ、こんな私のために、イエス様は祈ってくださった・・・イエス様に祈られる恵みを体験しました。
祈られる恵みの中で、ペテロは、自分を赦すことができない私の罪を背負って、イエス様は、私の代わりに十字架にかかってくださった・・・私はイエス様に、本当に、愛されている・・・ペテロは、祈られる恵みの中で、十字架の愛を体験しました。
皆さん、私たちがイエス様の祈りを、イエス様と一緒に祈り始めるとき、まず、自分自身が、イエス様に祈られる恵みを体験します。その恵みが、私たちの人生を変えていき、そして、イエス様と一緒に祈り続ける私たちの祈りと共に働いて、イエス様が、人々の人生を変えてくださる。
日本の画家で、林 武二郎という方がおられます。彼は、「朝の祈り」という絵を書きましたが、それは、彼の家庭の様子でした。
その絵には、とても貧しくても、お母さんと子どもたちが、毎日家庭礼拝をささげている様子・・・「神様、日々の糧を与えてくださり、今日も生かされていること感謝します。」・・・そのように、祈りをささげている様子が描かれています。
その絵に描かれている3歳の息子が、後に、ハンセン病患者のために、生涯を尽くして仕える医者になりました。・・・彼が、自分の将来の進路を決めるために、祈った祈りが残っています。
「誰も行かないようなところ、一番嫌われているような、最も苦しんでいる人たちのところに私を遣わしてください。」 。
皆さん、多くの人は、自分の幸せを求めて、良い収入、良い人間関係、良い環境のところに遣わしてくださいと祈るでしょう。
しかし、彼は、「自分の幸せではなく、誰かの幸せのために、誰も行きたくないような、一番苦しいところ、一番助けを必要としている人たちのところに、私を遣わしてください。」と祈りました。
なぜ、そんな祈りを祈ることができたのでしょうか。・・・それは、彼自身が、幼いころから、日々、家庭の中で、祈られて育ち、そして、彼自身も、家族のため、人々のために祈って来たからです。
皆さん、私たちは、祈られる恵みを受けたからこそ、永遠のいのちの救いを受けました。
誰からも祈られずに、主イエスを信じて、救われる人などいません。
「いや、私は、誰にも祈られていない」と感じたとしても、少なくとも、イエス様は、今も、あなたのために、いつも、祈っておられることを、覚えてください。
ルカ23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
ある男性の証です。
彼は、新潟で生まれ、小児麻痺になり、右足が不自由になりました。
学校で、いじめを受け、鬱になり、人間嫌いになりました。
大学生になると、心のアップダウンが激しくなり、2年で退学しました。
しかし、お母さんから、「もう一度、大学に行って欲しい」と、泣いて説得され、少し前向きになって、再び受験しましたが、落ちてしまいます。・・・それで、ますます、暗い気持ちになりました。
そんなある日、教会に誘われました。教会の雰囲気は、とても暖かく、気に入りましたが、彼は、自分が、人生の犠牲者だと感じていたので、自分に罪があるとも、罪から救う救い主が、自分に必要だとも、感じませんでした。・・・「自分は悪くない。自分は犠牲者だ」と思っていたからです。
しかし、ある時、他の人を見ては、無意識に、人を裁いている自分に気づかされました。
「あの人はああだ。こうだ。」と、人から自分が裁かれることは、大嫌いなのに、同じことを、自分も人に、している・・・自分が絶対にして欲しくない嫌なことを、自分も人にしてしまっている。
彼は、自分の罪に気づかされ、「ああ、私にも、罪の赦しが必要だった。ああ、私にも、イエス様が必要だ。ああ、私にも、罪の赦しのために死んで、よみがえられた救い主、イエス様が必要だと、信じて、洗礼を受けました。
その後、鬱は、少しずつ癒されて行き、彼は、自分を救ってくださり、癒してくださったイエス様を、多くの人に証しするようになりました。
・・・ある家庭集会で、彼が、証しをしたとき、集会の後、あるご婦人が、彼のところに来て、「私の祈りは、30年たって答えられました。」と話してくれました。
・・・実は、このご婦人は、彼がまだ、お母さんのお腹にいた時に、一度、お母さんに会ったことがあり、その時、お腹に手を置いて、赤ちゃんの祝福のために祈りました。
その後、元気な赤ちゃんが生まれたと聞きましたが、しばらくして、小児麻痺になったと聞いて、心痛め、そのご婦人は、毎日のように、この男の子が、神様の栄光を現す人として用いられますようにと、30年、祈って来られました。
・・・彼は、それまで、自分で教会に来て、自分でイエス様を信じた、と、思っていました。しかし、私のために、私が生まれる前から、祈ってくれていた人がいた。
今、私が、このようにイエス様を証しすることができるようになったのも、誰かが祈ってくれていたからだった。
それと同じように、2000年前に十字架上で、「父よ、彼らの罪を赦してください。彼らは何をして
いるのかわからないのです」と叫ばれた、イエス様は、私のために祈ってくださった。
今も、イエス様が、私のために祈ってくださるからこそ、今の私の人生がある。そして、いつか、愛するイエス様と、顔と顔を合わせて会うことになる、それが、私の希望です。
・・・証しておられました。
皆さん、忍耐強い信仰の祈りには力があります。気づいていても、気づいていなくても、私たちは、祈られた祈りによって支えられ、また、祈りと共に働かれる主が、私たちの祈りを用いて、大切な人を支えてくださっています。
ですから、私たちは、心を失うことなく、大切な人のために、とりなし祈り続けましょう。
何を、どう祈って良いのか分からない時は、私のために、今も祈ってくださるイエス様の祈りと、みことばの約束を覚えてください。
父よ。彼らを赦してください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです。
わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
恐れるな。わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
わたしの目にはあなたは、高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
恐れるな。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。
主に祈られる恵みを受けて祈る私たちの祈りと共に、主が働いてくださいます。
主が、私たちの祈りと共に働いて、大切な人たちを救ってくださることを信じ、感謝し、主イエスの御名によって、祝福します。

