【231】2024/3/10 主日礼拝 『心の真実さ』 詩篇<15:1~2> 斉田 基 牧師

 

1-2節
 主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。 だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
 全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人。

主が住まわれる幕屋に宿る人、すなわち、神様と一緒に生活し、神様の恵みを喜び楽しむことができる人とは、全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人です。・・・今日、覚えて欲しいこと、一つです。それは、神様が、私たちに望まれるのは、心の真実さ、だと言うことです。

皆さん、もし、私が、「神様は、私たちを愛しています。神様にはどんなことでもできます。」と、熱心に話したとしても、もし、心の中で、「いや、しかし、さすがに、このことは、神様でも無理でしょう。」とか、「さすがに、神様でも、これは赦せないでしょう、これは愛せないでしょう」と心の中で思っているなら、皆さん、どう思いますか・・・思っていることと、話していることが違う・・・そんな偽りは、聞きたくないと思いませんか。・・・人間でさえそう思うなら、神様は、どう思われるでしょうか。

神様は、私たちの心の真実さを求めます。なぜなら、神様は、心を見るからです。
Ⅰサムエル記 16章7節 後半
人はうわべを見るが、主は心を見る。

神様は、私たちの心が真実であることを切に願いますが、私たちは、心の真実さが、どれほど大切なのかを実感することが難しい。なぜなら、私たちには、人の心の真実さを見ることはできないし、時には、自分の心が真実かどうかさえ、分からなくなります。
多くの場合、私たちは、自分の心の表面的なところに、捕らわれてしまいやすい。すぐに感情的になったり、心配したり、「ああしなきゃ、こうしなきゃ」と焦ったりします。
しかし、今日の詩篇のみことばを告白した、ダビデは、こう告白しています。
詩篇 51篇6節
確かに あなたは心のうちの真実を喜ばれます。 どうか私の心の奥に 知恵を教えてください。

神様は、心のうちの真実を喜ばれると告白したダビデは、どうか、私の心の奥に知恵を教えてくださいと祈り求めました。
心の表面だけではなく、心の奥底にまで、教えてください。どうか、私の心を、奥深くまで、あなたに喜ばれる真実な心にしてくださいと、祈り求めたのです。

なぜ、心の奥に教えてもらう必要があるのか。
それは、心の表面には、私たちが、生まれてから、今まで、教えられて来た、この世の価値観、常識、あるいは、自分の経験や考えなど、様々な考えや思いが満ちているので、心の表面に教えられても、なかなか、心の奥まで届かないからです。
たった一度、神様のみことばを聞いて、涙が出るほど感動し、神様の恵みを体験した、その一度の体験だけで、私たちの生き方が変わるなら、感謝なことです。
しかし、そのように、人生が180度、変わるほどの恵みを体験し、これからは、神様のために生きると、決心したにも関わらず、なぜか、決心した通りに、生きることができないと苦しむ人が、ほとんどです。

ですから、このことを覚えてください。・・・私たちは、神様の恵みによって救われ、神様の恵みによって、変えられていきます。・・・神様の恵みは、たった一度だけ与えられるものではなく、絶えず、与えられます。
一度、神様の恵みを受けたなら、後は自分の力で、自分を変えていかなければならないのではなく、絶えず神様から恵みを受けて、私たちは変えられ続けるので、いつも感謝するのです。

皆さん、私たちが、自分で、変えることができるのは、表面的な部分だけです。
しかし、いくら表面的な部分を変えても、根本的なところは変わりません。

たとえば、みかんの木があります。しかし、みかんではなく、りんごが食べたい、と言って、みかんの木に、りんごを括りつけて、表面的な部分だけを変えるなら、どうなるでしょうか。
括りつけられたりんごは、腐ります。そして、みかんの木が、再び、結ぶ実は、りんごではなく、みかんです。 ・・・りんごが欲しければ、みかんの木を、根元から引き抜いて、新しく、りんごの木を植えなければなりません。表面的にではなく、根本的に変えなければ、何も変わりません。

しかし、多くの場合、私たちは、表面的な部分を、一生懸命、変えようとします。・・・もっと熱心に祈って、もっと良い行いをすれば・・・そのように、表面的なところを変えたとしても、根本的なところ、私の心を変えてもわらなければ、私の生き方は変わりません。
心を変えてもらわなければ、信仰生活を、何十年続けても、同じ失敗を繰り返します。
心を変えてもらわなければ、また、同じようなことを考え、また同じようなことを話し、また同じようなことをしてしまいます。
ですから、心の奥底から、本質的に私たちを変えることができる、神様の力が、必要です。・・・今日、神様が、神様の力をもって、私たちの心を新しく造り変えてくださることを、主イエスの御名によって、祝福します。

皆さん、なぜ、イエス様は、いやし、きせきなど、神様の働きを、限りなく行うことができたのでしょうか、その理由は、イエス様のうちに、偽りが一つもなかったからです。
神様の力が最も働く場所は、愛と真実に満ちたところ・・・言い換えるなら、恵みとまことに満ちている人と一緒に、神様は働くことができる。
みことばなる神、イエス・キリストこそ、恵みとまことに満ちておられたお方でした。
ヨハネの福音書1章14節
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

イエス様のうちに、恵みとまこと、すなわち、愛と真実が満ち溢れていたように、私たちの内にも、愛と真実が満ち溢れるとき、神様は、私たちのうちに神様の力を働かせることができる。

神様が、ダビデのうちに、神様の力を働かせ、勝利に次ぐ勝利を与えることができた理由も、ダビデのうちに真実があったからです。
ダビデは、弱かった時、困難な時だけではなく、強くなった時、成功した時も、変わらない真実さをもって、主を愛し、主に仕えました。
王になった時にも、かつて、貧しい羊飼いであった時と変わらずに、ダビデは、主を愛し、主を礼拝することを、一番大切にしました。
ダビデが、王になって、最初に行った国家行事は、当時、みんなに忘れ去られていた主の臨在の箱を、首都エルサレムに迎えて、主を礼拝することでした。

多くの人は、富や力を手に入れ、強くなれば、なるほど、小さなことが見えなくなります。
しかし、ダビデは、王になり、強くなった時にも、誰も目を留めなくなっていた、ヨナタンの息子、メフィボシェテに目を留めました。ダビデは、かつて、自分が受けた恵みを忘れず、覚えて、その恵みに誠実に答えました。
また、サウル王に、いのちを狙われ、執拗に追いかけられた時にも、ダビデは、神様が選んだサウル王に、自分の思いで、手を下そうとはしませんでした。
絶好のチャンスが与えられた時にも、ダビデは、サウル王を、殺そうとはせず、ただ衣を少し切り取りました。しかし、それだけでも、ダビデは、心を痛めました。・・・人間的に見れば、自分を殺そうとしている人を見逃すだけでも立派なことですが、ダビデは、神様が、選ばれた王に、自分の思いで、衣を少し切り取ってしまった、そのことに、心を痛めました。
そのように、ダビデは、自分が行う一つ一つのことにおいて、神様に対して、真実であることを、追い求めました。だからこそ、神様は、ダビデと一緒に力強く働くことができました。

皆さん、私たちも、人に対してではなく、神様に対して、真実であることを追い求めましょう。
神様の前に、真実になるチャンスは、多くの場合、人生が上手く行っている時よりも、むしろ、問題や苦難の時に来ます。
もう自分の力では、どうすることもできないです、と、自分の弱さを認める時、「私はできる」という高ぶりや。、自己中心が打ち砕かれ、もう、神様により頼むしかなくなる・・・それが、神様に対して真実になる絶好のチャンスです。

多くの場合、上手く行っている時、自分でも何とかなると思う時には、私たちの心には、自分の考えや計算が入ったり、自分の欲望や願いが入ったりします。
しかし、大切なものを失うとき、夢が破れるとき、心が打ち砕かれるような悲惨なことが起こる時、私たちの心は、へりくだらされます。
もはや神様以外には、救いがないからこそ、私たちは、心から、ひざまずいて、熱心に祈り、神様の答えを待ち望むようになります。
そして、その切なる祈りに、神様が答えてくださるとき、考えられないほどの喜びと平安を体験します。・・・皆さんも、その恵みを体験したからこそ、人生が変えられたのではないでしょうか。
メッセージでも、神様の恵みを体験した人の証を、よく分かち合いますが、神様の恵みを体験した人が、共通して告白することは、「神様は、私のことを誰よりもよく知っておられる。」という告白です。
ある人は、このよう告白しておられました。
神様は、本当に、私のことを、誰よりも、よく知っておられます。私が試練の中に入るタイミングさえも知っておられました。神様は、最高のタイミングで、私を、その試練の中に入れてくださいました。・・・そのタイミングでなければ、もし、私が、まだ、過去に縛られ、古い考え方、古い生き方しかできなかった時に、その試練に会ったなら、私は、耐えることなどできなかったでしょう。
しかし、神様は、私に、その試練が、最も必要なタイミングで、私を、その試練の中に入れてくださいました。

皆さん、神様の恵みを体験した人に共通していることは、その苦しみ、その試練の中でも、本気で、主を捜し求めることを選んだことです。・・・もし、その苦しみの中で、恐れ、退いて、主を求めることを諦めてしまっていたなら、神様の恵みを体験することはできなかったでしょう。
へブル人への手紙 10章37-39節
「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

皆さん、苦難の中で、恐れてしまうのは仕方ありません。しかし、恐れても、退いてはいけないのです。悲惨な現実を見て、不安になり、心配し、恐れてしまう弱さが、私たちにはあります。しかし、弱さを感じる時に、退くことを選ぶのではなく、主の前に、自分の弱さを正直に認めて、告白して、弱い私を強くしてくださる主を求めることを選ぶとき、神様の恵みを体験します。

そのように、主の前に、心の中を真実を語るとき、神様の恵みを体験します。
ですから、私たちは、神様に対して、自分が真実なのかを、吟味する必要があります。
私が話している言葉は、神様の目にも真実だろうか。私の行いは、真実だろうか。
それとも表面的なものだろうか、良いことをするにしても、私は、本当に、心から、しているだろうか。それとも、義務感でしているだろうか。

皆さん、心が変わらなければ、生き方は変わりません。真実な心に変えられなければ、私たちは、主の臨在にとどまることができません。・・・心の真実な人が、主について行くことができます。
「主よ、愛します。主に従います」と、心から告白する人は、いざ、主が呼ばれる時にも、従うことができます。しかし、口先だけで告白する人は、いざという時に、主に従うことができません。

私たちの人生は、決断の連続です。時には、人生を、大きく左右する決定的な決断を迫られる瞬間があります。
普段、神様に従うことを心がけているのに、なぜか、本当に大事な時に限って、神様ではなく、自分の思いに従って、決断してしまう人もいます。・・・なぜ、そうなってしまうのでしょうか。
それは、神様によって、自分の心の奥まで、真実な心に造り変えてもらっていないからです。
私たちが、神様のみことばを心の奥に受け入れることを選ぶ時に、神様は、私たちの心の奥まで造り変えることができます。だからこそ、みことばを、心の奥に受け入れることを選んでください。・・・ダビデのように、どうか、私の心の奥に知恵を教えてください。みことばを教えてくださいと祈り求めてください。

聖書のみことばは、偽りのない真実な神様のことばです。聖書を読むときに、「心から、その通りです。主よ、あなたのみことばに従います」と、同意できないところ・・・そこに偽りがあります。
みことばに、心から同意できないのは、そのみことばが、自分の思いとは合わないからです。その時、自分の思いを下ろして、みことばに同意することを選ぶなら、神様は、みことばに同意できない私たちの思いに触れてくださり、私たちの心を、真実な心に造り変えてくださいます。

ですから、今週、一週間、みことばに同意するチャレンジをしてみてください。
みことばを読む時、必ず、自分の思いと合わないみことば、自分の現実と合わないみことばに出会います。
その時に、自分の思いや現実ではなく、みことばを信じて、みことばに従うことを選んで、主よ、どうか、私がみことば通りに生きることができるように、助けてくださいと、祈り求める、チャレンジをして、私の心を、真実な心に造り変えてくださる、神様の力を体験してください。
そのように、心を造り変える神様の力とは、愛の力です。

天の父なる神様は、あなたを愛されたからこそ、イエス様を送ってくださいました。
人間の親でさえ、愛するわが子のために、時間や財産、労力を費やします。子どものためなら、自分の臓器も、いのちさえも捨てる親もいます。
人間の親でさえ、そのように愛するなら、天の父なる神様は、どれほど私たちを愛し、どれほど私たちに良くしてくださるでしょうか。
主イエスは言われました。空の鳥を見なさい。一羽の鳥さえも、大切に思い、養ってくださる天の父なる神様は、それらのものよりも、遥かに尊いあなたに、どれほど良くしてくださるでしょう。

この神様の愛、私に対する神様の愛が分からなくなるとき、私たちは、神様を愛することが難しくなり、神様を信頼するが難しくなり、神様に、自分の心をゆだねて、新しく造り変えてもらうことができなくなります。
ですから、私たちに必要なことは、自分に対する神様の愛を体験することです。
神様は、こんなにも、私を愛してくださっていると、体験するとき、頑な心は砕かれ、生き方が変えられます。
皆さん、なぜ、私たちは、神様を礼拝するようになったのでしょうか。私たちは、生まれつき、神様を愛し、神様を礼拝していたわけではありませんでした。
しかし、人生のある時点で、私を愛してくださった神様の愛を体験したから・・・
イエス様が十字架で死んでくださったのは、私のためだった。私の代わりに、どれほど大きな苦しみを背負ってくださったのか・・・その愛を体験したから、私たちも、主を愛し、主に従う、決心することができた。・・・そうではなかったでしょうか。
私たちの心を変える力は、神様の愛以外にはありません。
今、この時間、もう一度、神様の愛を受け入れる時間を持ちたいと思います。
神は愛です。神様は、いのちをかけて、私たちを愛されました。
私たちに対する神様の愛を受け入れ、私たちも、神様を愛することを選ぶとき、神様が、私たちの心を、神様の心と一つにしてくださいます。

皆さん、私たちの心を、主の心と一つにしてもらうために、何か特別な奇跡や体験が必要なわけではありません。
人間関係でも同じです。夫婦が心を1つにするために必要なことは、何か特別なイベントやプレゼントではありません。・・・熱く燃えるような恋愛をし、物凄く高価なプレゼントをもらっても、離婚する夫婦はいくらでもいます。
夫婦が互いに理解し合い、愛し合って、心を一つにするために必要なのは、日々の生活の中で、互いに心を開いて、素直な思いを分かち合って、心の通い合う時間を一緒に過ごすことです。

主に対しても同じです。大切なのは、正直に心を打ち明けること、心の中の真実を語ること・・・私の心を、主の心と一つにしてもらうために、私の心の思いを、素直に打ち明けることです。

皆さん、とても大切な約束を破られた経験があるでしょうか。・・・大切な人から、自分との大切な約束を、破られる、裏切られる・・・どんな気持ちになるでしょうか。
その人が、自分にとって、大切であれば、あるほど、心が痛みます。

「主よ。愛します。従います」と告白した私たちの偽りを、主は、今まで、どれほど見て来られたでしょうか。・・・主にとって、私たちは、高価で尊い・・・いのちを与えるほど大切だからこそ、主は、私たちの偽りに、心を痛めずにはいられません。
皆さん、少なくとも、私たちは、自分の偽りが、主に痛みを与え、悲しみを与えていることを、覚える必要があります。
それと同時に、このことを覚えてください。 主は、偽りに満ち、罪に汚れた私を赦し、きよめるために、十字架で血潮を流されました。・・・もし、私たちが、素直に告白するなら、神は真実で、正しい方ですから、主は、私たちを赦し、きよめてくださいます。

・・・ですから、今、この時間、主の前に告白しましょう。
主よ、あなたを愛します。すべてをささげます、と言ったのに、ささげなかったことが、なかったでしょうか。
主よ、あなたを信じます、従います、と言ったのに、従わなかったことがなかったでしょうか。
イエス様、私の言葉に、どれほど偽りがあったでしょうか。私の生き方に、どれほど偽りがあったでしょうか。
・・・今、赦してくださる主の前に、私たちをきよめるために、いのちまで捨てて愛してくださった主の前に、自分の心の奥にしまっている思いを、正直に、告白する時間を持ちましょう。

 

主よ、あなたを愛します。すべてをささげますと言ったのに、ささげていませんでした。
あなたを信じます、従います、と言ったのに、従っていませんでした。
明け渡しますと言ったのに、明け渡していませんでした。
主よ、私の人生に、偽りの告白がありました。偽りの従順、偽りの生き方がありました。どうか、私を赦してください。主よ、どうか、あわれんでください。
どうか、あなたの十字架の血潮によって、今この時間、私を清めてください。心の奥まで、私をきよめてください。

聖霊様、今この時間、私たち一人一人に、語りかけてください。
聖霊様、どうか、私たちのうちにある全ての偽りを、示してください。
どうか、私たちのうちから、主に、悲しみを与える、すべての偽りを取り除き、主に喜びを与える真実さを与えてください。
どうか、私たちの心の奥深くまで、主の十字架の血潮によって洗いきよめてください。
私たちが、生ける限り、主に喜ばれる真実な生き方をすることができるように、聖霊様、どうか、私たち一人一人を、真理のみことばに心から同意する真実な者に、造り変えてください。

 

最後に、共に告白しましょう。

主よ、私は、主のみことばに同意します。
主よ、あなたを愛し、あなたに従います。
主イエスの御名によって、宣言します。

アーメン。今日、主の前に告白した皆さんの信仰と共に、主が働いてくださり、主が、皆さんを真実な者としてくださることを信じ、感謝し、主イエスの御名によって、祝福します。