【226】2024/2/4 主日礼拝 『心の道』 民数記<22:18~32> 斉田 基 牧師

 

18-19節
 しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えた。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。
 ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」

「私は、どんなことがあっても、神様命令を破ることは絶対にできません」と、素晴らしい信仰告白をするほど、バラムは、神様を信じていました。
その上、バラムは、バラクの招きに答えて行くか行かないかを決めるとき、自分の思いで、決めてしまうのではなく、まず、お祈りして、「神様、私は、どうすればいいですか」と聞いて、確かめてから、行動しました。・・・これは、まさに、神様を信じる者として、模範的な行動でした。

そのように、私たちの目には、バラムの言葉や行いは、何も間違っていないように、見えるのではないでしょうか。しかし、神様の目には、どう見えていたのでしょうか。
32節
 主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。

神様の目には、バラムは、神様の道を踏み外していました。
バラムは、ちゃんと、お祈りして、神様に、「行きなさい」と言われたから、出発しました。
それなのに、なぜ、神様の道を踏み外したことになったのでしょうか。

理由は、ただ一つです。バラムの心が、神様の道を踏み外していたからです。
神様は、バラムの言葉や行いではなく、心を見ていました。
バラムは、確かに、目に見える言葉や、行いにおいては、正しいことを行っていました。

しかし、バラムは、心において、悪を計画していたのです。バラムは心の道は、神様の道を踏み外していたのです。

神様の心は、イスラエルを愛し、祝福することでした。バラムも、イスラエルを祝福することが、神様の心であることを知っていながら、後になって、ミデヤン人の女性たちを使って、イスラエルに罪を犯させることによって、イスラエルが自分から、呪いを受けるように、計画したのです。

ちょうど、悪魔が、アダムとエバを、直接、呪うことはできず、蛇に化けて、エバを誘惑し、罪を犯させて、自分から呪いを受けるように計画したように、バラムも、イスラエルを、直接、呪うことができなかったので、イスラエルを誘惑し、罪を犯させて、自分から呪いを受けるように、計画しました。

バラムは、言葉や行いにおいては、正しいことをしていましたが、心では、悪を計画したのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。それは、バラムが、神様よりも、他のものを愛したからです。

イスラエルを呪うことができるなら、富や栄誉や、この世の素晴らしいものを手に入れることができる・・・バラムは、自分が欲しいものを手に入れるために、イスラエルに罪を犯させ、イスラエルが自分から呪いを受けるように、計画し、実行したのです。

そのように、言葉や行いにおいて、信仰的で、正しいことをしていても、心において、神様の道を踏み外す原因は、何よりも神様を愛さないことです。神様よりも、自分が愛しているものを追い求めるときに、心が、神様から離れて行き、神様の道を踏み外してしまうのです。

実は、イエス様を信じると言いながら、バラムのように、心においては、神様の道を踏み外してしまう人たちが、多く出ると、主イエスは言われました。
マタイ7:21-23
 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

皆さん、どうでしょうか。「私は、どんなことがあっても、主イエスを愛して、主のみことばに従います。」と、素晴らしい信仰告白をし、実際に、主の御名によって、奇跡やしるしを行っているにもかかわらず、主の道を踏み外して、滅びの道を歩くことなど、できるでしょうか。できないでしょうか。
・・・残念ながら、できてしまうのです。
・・・その最大の原因は、バラムのように、神様よりも、他のものを愛しているからです。

今、皆さん、素直になって、自分は何を愛しているかを考えてみてください。
何を愛していますか。何を求めていますか。あなたが、時間や財産や労力などを費やしているもの。自然と、そのことを考えてしまい、思ってしまうこと・・・それは、神様のことでしょうか。

もし、心から神様を愛しているなら、あなたの心の道は、主の道を歩んでいます。しかし、バラムのように、神様よりも、ほかのものを愛しているなら、神様の道を踏み外しています。

神様の道を踏み外しては、絶対にダメです。絶対に、滅びてはなりません。・・・神様のみこころは、私たちが一人も滅びることなく、悔い改めて、永遠のいのちを持つことです。
それでは、どうすれば、神様の道を踏み外すことなく、心から神様を愛することができるでしょうか。・・・愛されることです・・・神様に愛されて、愛されて、愛される喜びに満たされるなら、私たちも神様を愛さずにはいられなくなる・・・私たちは、神様に愛されるために生まれました。
今日、賛美した、『君は愛されるため生まれた』という賛美を作曲した、イ・ミンソプさんは、こう語っています。
私の記憶は、5歳から始まりますが、その時から、死にたいと思っていました。
中学、高校、大学と、ずっと、その思いに苛まれ、大学の時には、薬で自殺を試み、失敗しました。
私は背が低く、運動も、勉強もできませんでしたが、反対に、何でもできる兄と姉がいました。
小さな頃から、いつも比べられました。・・・兄弟だと言うと、「えぇ、どうして、二人が兄弟なの」と言われました。
父親からも、同じように言われました。「なぜ、お前みたいなのが、家に生まれたのか」と。

彼は、言います。
「父を思い出すと、いつも、靴下が思い出されます。・・・小さな頃から殴られ、靴下で顔を踏まれました。記憶が始まった5歳のころから、その記憶があります。
父は愛情を表現することができない人でした。
母は、私が6歳のころから、ギャンブルを始めました。三日、四日、十日ぐらい家に帰らないことがよくありました。
幼心に、最初は、怖くて、次に、心配になって、最後には、何も感じなくなり、母は、いない方がいいんじゃないかとさえ思うようになりました。
そのような両親と一緒に生活していた私の中にあった思いは、一つでした。
死にたい。死にたい。どうすれば、良く死ねるか。」

私は、愛を必要としていました。しかし、親から受けるべき愛を受けることができませんでした。
もちろん、父も母も、彼らなりに、私を愛していたと思います。しかし、その愛が、私に伝わるようには、表現されていませんでした。・・・表現されなければ、愛を受け取ることができません。愛は、表現される必要があります。・・・私は、親から愛を受け取ることができませんでした。

しかし、私は、神様から愛を受けることができました。神様の愛を体験したからこそ、「君は愛されるため生まれた」という賛美が生まれました。
しかし、その賛美を作って、いろんな集会に呼ばれて、メッセージをするようになってからも、その集会から戻って、家で一人になったとき、「神様、私を死なせてください」と祈りました。

頭では、神様の愛を理解しても、私の心が神様の愛に満たされるのには、時間がかかったのです。・・・頭では、イエス様が、十字架でいのちを捨てるほど私を愛してくださったことが分かるのに、なぜか、心は、むなしいままだった。・・・もっと、もっと、愛を受けて、心が愛で満たされる必要が私にはありました。・・・私の場合、心が愛で満たされるのに、10年ほどかかりました。」・・・そう語っていました。
そんな彼が、ある時、法事で、親戚が季節ごとに集まったとき、イエス様を信じた彼は、イエス様以外のものを拝みませんでした。父は、強制的に拝ませようとしました。しかし、彼が拝まなかったので、彼を殴り、食べ物を投げつけ、足で踏みつけ、それでも怒りが収まらなかったので、靴を履いてきて、彼を蹴りました。
そのように、殴られながらも、彼は、父の救いのために、祈り続けました。
そして、今から、10年前、父が、朝方に、救急車で、病院に運ばれました。
その連絡を受けたとき、彼の中に恐れがやってきました。このまま父が死んだら、どうしよう。地獄に行ってしまう。

今まで、「お父さん、イエス様信じてください。」と言うと、酷く断られて、それ以上、声をかけることもできなくなっていましたが、
それでも、その時、彼は、病室に入って、すぐに 「お父さん、イエス様を信じて欲しいです。私に続いて祈ってください。」 そう言って、お父さんの足元に跪いて、足をつかんで、祈りました。

「神様、私は罪人です。私は、自分で自分を救うことはできません。だから、この時間、イエス様を、私の主として受け入れます。私のところに来て、私の主人になってください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。」
なんと、その時、父は、彼と一緒に祈りました。彼は、祈り終えて、「主よ、感謝します。主よ、感謝します。主よ、感謝します。」・・・泣き崩れました。つかんでいた父の足は震えていました。父も泣いているのが分かりました。隣にいた母も泣いていました。

30年以上祈り続けた彼の祈りが、答えられた瞬間でした。
父から殴られながらも、あきらめずに祈り続けた、その祈りが、答えられたのです。

皆さん、彼が、親から愛を感じることもできず、殴られ続けながらも、あきらめずに祈り続けることができたのは、なぜでしょうか。・・・それは、彼が、神様の愛を受け続けたからです。

彼は、こう語っています。
「もし、皆さんの中で、心がむなしくて、幸せを感じていない方は、もっともっと、神様の愛を受けてください。いつまで、受ければよいでしょうか。あふれるまで、です。受けて、受けて、また、受けてください。
神様、私は愛を受けたいです。私が愛を受けることができるようにしてください。私に分かるように、あなたの愛を表現してください。
そのように祈り求めて、愛を受けて、受けて、受け続けたとき、心のむなしさ、死の思いから解放されました。いつも、むなしさを感じて、死にたい、死なせてくださいと思っていた私の心は、神様の愛に満たされ、いつも神様を賛美するようになりました。
祈りは必ず、答えられます。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。家族の救いを祈るなら、必ず、答えられます。
一人のたましいを救ってくださいという祈りは、愛する人の救い祈りは、神様が、必ず、答えてくださいます。」 そう、彼は、証しておられました。
Ⅱコリント12:9
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

私たちは弱くても、私たちと一緒にいてくださる神様は何よりも強いお方です。私たちが弱ければ、弱いほど、神様は、神様の力を働かせてくださいます。私たちが足りなければ、足りないほど、神様の恵みが、すべてを満たしてくださるのです。

イエス様は、よく奇跡を起こされました。奇跡とは、自然には、絶対に起こらないことです。
イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、5千人を満腹にする奇跡を起こしましたが、なぜ、イエス様は、5つのパンと2匹の魚で、奇跡を起こされたのでしょうか。
・・・食べるものが、それしかなかったからです。もし、他に食べるものがたくさんあったなら、イエス様は、それをあげたでしょう。

イエス様は、水の上を歩く奇跡を行いましたが、なぜ、イエス様は、水の上を歩かれたのでしょうか。それは、舟がなかったからです。
イエス様は、何かが足りないところに奇跡を起こしてくださいます。
食べ物があれば、それをあげたでしょう。舟があったら、それに乗って行かれたでしょう。
しかし、足りないところに、イエス様は奇跡を起こしてくださるのです。

皆さんの中に、弱さがあるでしょうか。足りないものがあるでしょうか。しかし、神様が、ともにおられるなら、神様は、そこに奇跡を起こしてくださるのです。
経済的に足りないなら、そこを、神様は、恵みで満たしてくださいます。
健康の弱さがあるなら、そこを、神様の力で、強くしてくださいます。

大切なことは、神様が一緒におられることです。神様が一緒にいてくださるなら、神様が、その弱いところ、足りないところに、奇跡を起こしてくださるのです。神様が一緒にいてくださるなら、私たちの人生、そのものが奇跡になるのです。

だからこそ、何よりもまず、第一に、私たちに必要なのは、神様の愛です。
神様に愛されて、愛されて、私たちの心が、神様の愛で満たされるとき、私たちは、心から神様を愛し、求めるようになります。そして、神様は、私たちが心から神様を愛し求めるなら、いつも、いつまでも、私たちと一緒にいてくださいます。
たとえ、私たちがどんなに弱くても、足りなくても、神様の愛で満たされるとき、私たちの存在が、奇跡となるのです。

プロのカウンセリングをしている先生の証です。
その先生は、ある女性を何年もカウンセリングしていましたが、彼女は心の病気を患っていて、少し良くなったかと思うと、また、ぶり返していました。
カウンセリングの時間は、1時間と決まっていて、時間の終わり頃になると、「これから大事なことを話そうと思っているのに、このカウンセリングは、何の役にも立たないわ」 と言って、彼女はいつも怒り出しました。
しかし、ある時、彼女が、いつものように、「このカウンセリングは何の役にも立たない。まだ、心の整理ができてない。もっと話したらすっきりするかもしれないのに・・・」と、訴え始めたので、
「それでは、今日は、これから訪問に行く予定ですけど、一緒に行きますか。しかし、今から訪ねる子は、難病で、余命半年と言われてる少年です。以前の彼は寝たきりで、心が凄んでいましたが、今は希望を持って、愛を持って、命に輝いて生きています。そこでは、その子のための時間なので、話しかけないで、黙っていてください。それでもいいなら、一緒に行きましょう。」
そして、先生は、彼女の話を聞いてあげながら、その子の家に向かいました。

家に入った時、「先生、来てくれて、ありがとう」と、少年は笑顔で迎えてくれました。
お母さんが、お茶の用意をするために席を離れた時、その子に、「今日は母の日だね。お母さんに、何かしてあげるの?」と、つい、不用意なことを聞いてしまいました。
すると、寝たきりで、だんだん筋肉が動かなくなってきていた、その男の子は、こう言いました。

「僕は、お母さんに何もしてあげられないけど、先生が来たら、お母さんと一緒に、ケーキを食べようと思っていたんだ。その時に、お母さんにありがとうって、言おうと思う。・・・先生も、聞いていてね。」
それは「いいアイディアだね」と、先生は答えました。

男の子は、背中にクッション当てて、起こしてもらい、紅茶を一口飲んで、言いました。
「お母さん。僕のこと、産んでくれて、ありがとう。」

その時、ずっと、黙っていた彼女の心に何かが触れました。その愛の交わりの中で、何かが、彼女に触れて、彼女は、ガタガタと震え出しました。その時、何年もカウンセリングを受けても治らなかった、彼女の病は、癒されました。

もし、私たちが、本当にイエス様の愛に満たされるなら、たとえ、私たちに何の力もなかったとしても、この少年のように寝たきりであったとしても、もし、あなたのうちにイエス様がおられるなら、イエス様は、あなたを用いて、奇跡を起こしてくださいます。

イエス様は、何かが足りないところに奇跡を起こしてくださるお方です。
もし、愛が足りないなら、イエス様は、そこに愛を満たし、奇跡を起こしてくださるのです。

イエス様は、あなたのために、この世に来られました。あなたのために十字架で死なれました。いのちまで与えたイエス様の愛を信じ、今日、受け取ってください。

今、しばらくの時間、イエス様の愛を祈り求めて、受け取る時間を持ちます。
「主よ、私は愛を受けたいです。私が愛を受けることができるようにしてください。私に分かるように、あなたの愛を表現してください。」
祈り求めましょう。