【308】2025/8/31 主日礼拝 『仕える者のいるところ』 ヨハネの福音書<12:26> 斉田基牧師
ヨハネの福音書 12章26節
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。
イエス様は、「わたしに仕える人は、わたしについて来なさい」と言われました。
それは、イエス様がいるところに、仕える人もイエス様と一緒にいなければ、イエス様に仕えることができないからです。
ですから、イエス様に仕えるために、どうしても必要なことは、イエス様がいるところに、自分も一緒にいることです。
いつもイエス様がおられるところで、仕えるために、いつもイエス様について行く人は、イエス様の弟子です。そして、父なる神様は、いつもイエス様と一緒にいて、仕える弟子を重んじてくださり、祝福してくださいます。
ですから、ここで、イエス様が弟子たちに、一番に、願っていることは、弟子たちが父なる神様から重んじられ、祝福されることです。・・・イエス様の願いは、弟子たちに仕えてもらうことよりも、弟子たちが父なる神様に祝福されることです。
実際、弟子たちと一緒にいて、イエス様がしていたことは、弟子たちに仕えてもらうことよりも、むしろ弟子たちに仕えることでした。
ルカの福音書 22章27節
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。
イエス様は、弟子たちの間で、給仕する者のようにしていました。すなわち、イエス様は、弟子たちに仕えられるよりも、むしろ、イエス様の方が、しもべのように仕えていました。
皆さん、そのように、イエス様が、仕えられた理由、その動機は何でしょうか。その動機は、愛です。
私たちが、誰かに仕える場合、その動機は、もしかすると、その人に仕えなければ、後々面倒なことになるから、あるいは、この人に仕えるなら、得するかもしれない、など、結局は、自分のためかもしれません。
しかし、イエス様の仕える動機は、いつも愛です。
親が、自分の赤ちゃんに、ミルクをあげたり、オムツを替えたりして、仕えるのは、愛するゆえです。イエス様も、愛するゆえに仕えられました。・・・ですから、いつもイエス様と一緒にいた弟子たちは、そのように、イエス様が、愛ゆえに、弟子たちに仕えてくださるのを、何度も体験しました。
ヨハネの福音書13章1節
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
明日には十字架で死ぬ・・・これが最後だと、知ったイエス様は、弟子たちに、最もしたかったことを、しました。
それは、今までも、弟子たちを愛して来たように、最後まで、彼らを愛し抜くことでした。
その愛を示すために、イエス様がされたことは、弟子たちの足を洗うことでした。
当時、足を洗う仕事は、奴隷の仕事でした・・・それも、最も身分の低い奴隷の仕事でした。
イエス様は、弟子たちを愛するあまりに、へりくだって、奴隷のように仕えました。
そのようにイエス様が仕えた動機は、愛ですが、その愛とは、「そのままでいいよ。それでも愛しているから」・・・そのような、目的もなく、ただ愛するだけの愛ではなく、「このように育てたい」という、方向性を持った愛であり、その方向に育て上げ、成長させる、力のある愛でした。
ヨハネの福音書 13章12-15節
イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
イエス様が、弟子たちを愛して、仕えられた目的は、弟子たちをイエス様のように、互いに愛し合い、仕え合う者として成長させることでした。
弟子たちは、イエス様に仕えてもらいながら、その恵みを体験しました。
嫌々ではなく、イライラしてでもなく、喜んで仕えるイエス様の姿を目の当たりにしました。
・・・また、親が子どもを見て、「ああ、立ち上がった。ああ、歩き出した」と、その成長を喜ぶように、イエス様が、弟子たちの成長を、この上なく喜ばれるのも、目の当たりにしました。
だからこそ、弟子たちは、イエス様が仕えるように、人に仕えるというみことばの意味がよく分かりました。イエス様に出会う前までが、イエス様が仕えたように、仕えた人など、見たことがありませんでした・・・未だかつて、主であり、師である人が、しもべのように弟子に仕える人など、有り得なかったのです・・・それにもかかわらず、イエス様は、喜んで仕えてくださった・・・そのように、イエス様に仕えてもらいながら、弟子たちは、「ああ、私は、間違いなく、イエス様に愛されている」・・・実感し、イエス様の力ある愛を受け取りました。
イエス様の愛は、力のある愛です。その愛を受け取った人を、イエス様のように、愛し、仕える者として成長させる力のある愛です。・・・だからこそ、いつもイエス様のそばにいて、イエス様に愛され続け、仕えられ続けた弟子たちは、その愛の力によって、成長させられました。
イエス様が、「わたしについて来なさい。わたしのいるところに、あなたも一緒にいなさい。」と命じられた理由は、あなたを成長させる力ある、イエス様の愛を、受け取らせるためです。
そう言うと・・・イエス様について行かない人、イエス様のいるところに一緒にいない人は、愛してくれないのか・・・そうではありません。
イエス様は、イエス様について行かなかった群衆も、愛していました。それどころか、イエス様に敵対し、批判した、律法学者やパリサイ人たちの罪のためにも、十字架で死んでくださるほどに、イエス様は、愛していました。
イエス様は、すべての人の罪を赦し、救うために、十字架でいのちを捨てるほど、すべての人を愛しています。しかし、イエス様に愛されたすべての人が、みんな同じように、イエス様の愛を、受け取るわけではありませんでした。
イエス様について行かなかった群衆は、イエス様が自分たちの町に来てくれたときだけ、イエス様の愛を受け取ることができました。しかし、イエス様が次の町に行かれるときに、ついて行こうとしなかった群衆は、それ以上、イエス様の愛を受け取ることができませんでした。
いつもイエス様について行き、イエス様がいるところに一緒にいた弟子たちだけが、いつもイエス様の愛、弟子たちを成長させる力ある愛を受け取ることができたのです。
だからこそ、イエス様は、「わたしについて来なさい。わたしがいる場所に、あなたも一緒にいなさい」と命じられました・・・それは、私たちに、私たちを成長させる力ある愛を、いつも、受け取らせるためです。
嫌、それなら、イエス様が、私たちについて来てくださって、私たちに、その力ある愛を受け取らせてくださればいいじゃないかと思うかもしれません。実際、そうしようとした人たちがいました。
ルカの福音書 4章42-43節
朝になって、イエスは寂しいところに出て行かれた。群衆はイエスを捜し回って、みもとまでやって来た。そして、イエスが自分たちから離れて行かないように、引き止めておこうとした。
しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
イエス様は、ご自分を求めて来た群衆を愛していました。しかし、愛していても、群衆の言いなりになって、群衆について行くことはしませんでした。・・・それは、イエス様が、群衆ではなく、父なる神様について行く、神の御子だからです。
「わたしについて来なさい」と、命じられたイエス様ご自身が、いつも、父なる神様のことばに、ついて行きました。
イエス様が、いつも、父なる神様のことばについて行っているので、神のことばについて行っているイエス様に、私たちも、ついて行かなければ、イエス様と一緒にいることは、できません。
だからこそ、イエス様は、「わたしのいるところに、あなたも一緒にいるために、あなたはわたしについて来なさい。そうして、わたしの愛を受け取りなさい。わたしについて来て、あなたの人生を造り変える力ある愛を受け取りなさい。」と、私たちを招いてくださるのです。
ある牧師は、このみことばの意味が分からなかったとき、とにかく、聖徒たちに合わせて、聖徒たちについて行って、仕える牧会をしていたそうです。・・・もちろん、それでも、恵みはありました。
聖徒たちとの関係は、物凄く良くなりました。・・・しかし、聖徒たちの生き方は、ほとんど変わりませんでした・・・神様の力が現わされることも少なかった・・・一生懸命、お祈りをして、神様の力で、癒されることもあれば、そうでない時もある・・・なぜ、そうなのかも、よく分かりませんでした。
しかし、あるとき、関わっていた父子家庭のお子さんを預かることになりました。お父さんが、末期癌で、余命数ヶ月でした。・・・中学生のそのお子さんも、その牧師も、教会も、お父さんの癒しのために、一生懸命、祈りました。
その牧師は、、お父さんにできる限り仕えようと、ソファーベッドを買って、プレゼントしました。しかし、プレゼントしたその日の深夜に、息子さんから電話がありました。
お父さんが、そのベットで、排せつして、自分では、どうしようもない・・・それで、真夜中に、家に行って、ベットも全部、綺麗にしたりして、とにかく、仕えました。
仕えて、仕えて、祈って、祈って・・・しかし、結局、お父さんは、半年後に天に召されました。
幸い、お父さんは、イエス様を信じて、告白してから、天に召されましたが、息子さんは、「イエス様を信じるなら、どんなことでもできるって、イエス様は癒してくださるって、みことばに書いてあるのに、どうして、お父さんは、癒されなかったの」と、泣きました。
その牧師は、そのお子さんを、引き取って育てることにしましたが、あることを決心しました。「主よ、もう二度と、愛する人たちに、この子のような思いをさせたくない。主よ。あなたのみことばが真実であるなら、どうか、私に、悟らせてください。どうすれば、みことば通りに生きることができるのか、悟らせてください。」・・・真剣に求めました。
そして、主が悟らせてくださったみことばの一つが、今日のみことばです。
26節
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。
イエス様に仕えるためには、イエス様が、群衆ではなく、父なる神様のことばについて行ったように、私も、聖徒たちにではなく、イエス様のことばについて行く必要がある・・・私も、聖徒たちに合わせるのではなく、イエス様のことばに合わせる必要がある。
主が、みことばを悟らせてくださったときから、彼の牧会は変りました。人について行って、人に仕えるのではなく、主のことばについて行って、人に仕えました。・・・その時から、恵みが溢れるようになりました。
それまで、ほとんど変わらなかった人々の人生がどんどん変えられて行きました。新しく、イエス様を信じ、救われる人々もどんどん起こされました。癒しもどんどん起こるようになりました。
彼は、次のように語っています。・・・伝統ではなく、神学でもなく、聖書一本から、聖霊様に教えてもらうこと、だと。
彼は、聖徒たちに合わせて、聖徒たちについて行く牧会で、それなりに成功していました。恵みもありました・・・しかし、その仕え方では、どうすることもできない問題が起こったとき、真剣に、神様ご自身から答えを求めました。聖書のみことばから答えを求めました。
そのとき、主が、彼の目を開いてくださり、聖書のみことばを悟らせてくださいました。
みことばを悟らせていただくと同時に、「ああ、私は、教えられたことを、私自身で体験したい」・・・その飢え渇きと、みことばを行う力も、与えられた、と言います。
皆さん、私自身も、先週土曜日に、みことばを悟らされる恵みを受けました。
主が、私の祈りを聞いてくださっている。喜んでくださっている。と、励ましてくださいました。
あなたは、敵からの攻撃を経験するが、主は、あなたが家族のために祈った祈り、教会のために祈った祈りを用いてくださり、敵の攻撃を打ち砕いてくださる。あなたの祈りには力がある・・・そのように、主が励ましてくださいました。
・・・それで、感動して、これからも、忠実に、家族のために、教会のために、とりなし祈ろうと、再び決心して、感謝の祈りを、主に、ささげました。
先週の土曜日は、主日の準備で遅くなり、家に帰って、布団に横になったのは、10分もありませんでしたが、神様との約束の時間が来たので、目を覚まして、祈りました。
みことばによって、感動させられた通り、家族のために、教会のために、とりなし祈りました。
意識が飛びそうになりながらも、主が、今も、私の祈りを聞いてくださっている・・・主が、私の祈りを用いてくださって、愛する家族、兄弟姉妹を攻撃する、敵の攻撃を打ち砕き、守ってくださる、みことばで悟らされた恵みが、感謝で、嬉しくて、祈りました。
その日の夜、車で妻の実家の青森に向かいました。その途中、高速で、妻が運転していたとき、タイヤがバーストしました。しかし、何とか、無事に路肩に停めることができました。
後で分かったことですが、バースト直前まで、トンネルの連続で、車通りも多かったので、もし、トンネルでバーストしていたなら、路肩に停めることもできず、追突事故、また、バーストして、飛んで行ったタイヤで、他の車を事故に巻き込む可能性があった。
逆に、もう少し進めば、1車線になっていたので、追突の危険はさらに大きくなり、無事であっても、大規模な通行止めになっていた。
・・・それで、ああ、昨日、語られたみことば、昨日、悟らせてくださったみことばの恵みを、主は今日も、体験させてくださったと、感謝しました。
昨日、語られたみことばに、今朝、眠くても、ついて行くことを選んだ・・・しかし、それは、辛くて、も、私が頑張って従ったというのでは全然なく、
主が、今も私の祈りを聞いてくださっていて、用いてくださる・・・ただ、それが、感謝で、感謝で・・・その恵みの力で、みことばに従わせていただいた・・・すべては、恵みでした。
皆さん、イエス様について行くこと自体が、恵みです。イエス様ご自身が恵みそのものなるお方です。恵みそのものなるイエス様について行くなら、恵みを受け続けます。
イエス様について行くとは、具体的には、イエス様のことばについて行くことです。
イエス様が、私に語りかけてくださったみことば・・・他の誰でもなく、イエス様が、私に語りかけてくださった、レーマのみことばに、ついて行くことです。
気分が乗っている時だけではなく、気分が乗らないときも、眠くても、大変でも、とにかく、イエス様のみことばについて行く・・・そのとき、恵みに満たされ、恵みの力で強められます。
その恵みの力によって、みことばに従順するとき、感謝と喜びが溢れます。
ですから、私たちは、イエス様のことばについて行くために、みことばに耳を傾けましょう。
恵みそのものであるイエス様のいるところに、私も一緒にいるために、イエス様のみことばに耳を傾ける、そのとき、イエス様は私の耳を開いてくださる。
私が耳を傾けるときも、傾けていないときも、イエス様は、私を愛し、いつも語りかけてくださっている・・・もし、今、私が耳を傾けるなら、イエス様は、私の耳を開いて、私にイエス様のことばを聞かせてくださる、悟らせてくださる・・・これは全部、みことばにあります。
神様が、あなたに、みことばで、約束してくださっていることです。
本当に、そうであるのか・・・自分自身で、聖書を調べることが大切です。
本当にそうであるのか、みことば一本から、聖霊様に教えてもらうなら、主が悟らせてくださいます。
そのように、主に、みことばを悟らせてもらうとき、「ああ、主が私に教えてくださったことを、私も、自分自身で体験したい。」・・・飢え渇きと、みことばを行う恵みの力を受け取ります。
今日、皆さんに、みことばについて行き、みことばなるイエス様のおられるところに一緒に生きる恵みが溢れるばかりに与えられることを主イエスの御名によって、祝福します。

