【306】2025/8/17 主日礼拝 『赦しの力』 ルカの福音書<7:36~50> 斉田基牧師
イエス様は、罪人の友となって、交わりを持ちました。しかし、罪人と交わりを持ちましたが、イエス様自身は罪を犯しませんでした。
普通は、罪人と同じように、罪を犯さなければ、仲間に入れてもらえません。同じように悪いことをしなければ、友だちになれないのです。
しかし、イエス様は、罪を犯すことなく、罪人の友となりました・・・なぜでしょうか・・・それは、イエス様に、赦しがあったからです。イエス様の周りには、彼らの知らない愛の世界があったからです。
たとえば、子どもに寄り添う親の愛に似ています。子どもが何か悪いことをしたとき、「なぜ、こういうことをしたくなるのかなぁ」と理解する愛です。
罪は、罪として悪いものです。しかし、多くの場合、子どもたち自分もしたことがある罪です。
ですから、どうしたらこの子が、愛を知って、心が満たされて、罪なんか犯かさなくてもいい世界があることを知ることができるかを、伝えたい・・・そのような愛です。
37節
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
その町に一人の罪深い女がいて・・・皆さん、聖書に罪深いと紹介される人の気持ちって、分かるでしょうか。・・・罪深かったけど、今はというのではなく、現在形で、罪深いと言われる気持ち・・・しかし、後でイエス様にほめられたのは、この人でした。
皆さん、人は、人の罪深さに目を留めやすいものです。しかし、聖書はいつも、イエス様が焦点です。イエス様が主人公です。イエス様は、どんなに罪深い人でも、赦し、きよめてくださるお方・・・聖書は、どんなに罪深い人でも、イエス様は、ということを伝えたいのに、パリサイ人は、「ああ、この人は、罪深い人だ。あの人は・・・」
ですから、私たちは、主人公をいつもイエス様にしましょう。
私たちの人生においても、主人公はイエス様です。しかし、時に私たちは、イエス様を脇役にしてしまうことがあります。
自分が真面目にしなければ、自分が何とかしなければ・・・これは自分が主人公です。自分にはこんな罪があって、こんなに罪深くて、自分はダメだ・・・これも自分が主人公です。・・・そのように、無意識に自分を主人公にして、イエス様を脇役にしてしまっていることがあります。
ですから、私たちは、意識して、イエス様を主人公にすることを選びましょう。
38節
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
この女性は、イエス様を主人公にしていました。彼女には、イエス様しか見えていません。
皆さん、罪人にとって、一番行きたくないところの一つは、パリサイ人の家です。
しかも、彼女は、町で有名な罪深い女性です。パリサイ人の家に入ろうものなら、何を言われるか分かりません。
しかし、彼女は、イエス様がパリサイ人の家にいると知ったとき、本来、自分が一番行きたくなかった家でも関係なかった・・・イエス様がそこにいたからです。
これが、赦しの力です。イエス様の赦しには、彼女を引き寄せる力があった、それだけではなく、彼女を傷つける人々の中にあって、彼女を守る力、イエス様のそばなら、たとえ、どんな人が周りにいても、平安があって居心地を良くする力、それが、イエス様の赦しにはありました。
ですから、彼女は、なんとパリサイ人たちが見ている中で、イエスの足元に近寄って来て、泣きながら、イエスの足を涙で濡らし、髪の毛で脱ぐい、その足に口付けし、香油を塗りました。
これが、イエス様の赦しを受け取った人の姿です・・・すなわち、赦しを受け取った人は、たとえ、責める人たちがいるところでも、嫌な顔をされても、責められても、私を赦してくださったイエス様で心を満たされ、イエス様を愛し、仕えます。
彼女は、まさに、そうでした。人になんと言われようと私は赦されているというイエス様の愛を受け取ったからこそ、批判の嵐の中でも、イエス様だけを見つめて、仕えることができました。
39節
イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
イエス様の赦し、神様の愛の世界が分からないパリサイ人は、心の中で、批判し、裁きました。ちょうど、放蕩息子のお兄さんが、弟に対するお父さんの愛を理解できずに、裁いたように、
人が考えられないほど恵みを受けている姿を見ると、何か、悔しくて受け入れがたいのです。
自分は、こんなに傷ついても、我慢して、真面目にやっているのに、そんな恵みを体験していない。・・・それなのに、なぜ、あの人は・・・そのように、人が恵みを受けることを、素直に喜べない。
40 節
するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
イエス様は、「シモン、あなたに言いたいことがあります。」・・・イエス様は裁いている人を見ると、言いたくなるのです・・・何のためでしょうか・・・裁いている人にも、赦しを与えるためです。
放蕩した弟を裁いて、腹を立て、自分を外に締め出したお兄さんのところに、お父さんが出って行ったのは、お兄さんを責めるためではなく、宥めるため、お兄さんも抱きしめたい。お兄さ心も、愛で満たしたい。
ですから、イエス様は、放蕩息子の兄のように、あるいは、パリサイ人のように人を裁き、批判する人には、何か言いたくなるのです。それは、赦しを与えるためです。
人を裁くことは、自分を不幸にします。・・・私たちは、人を裁いた瞬間、赦しの下ではなく、裁きの下に自分を置くことになります。イエス様がすべての人を赦しました。イエス様が赦した人を、裁きの下に置くとき、私たちは、自分のことも裁きの下に置くことになるからです。
人を裁くと同時に、私たちには罪意識が生まれます。罪意識によって、赦しの恵みを受け取れなくなり、愛が分からなくなり、どんどん落ち込んで行くのです。
しかし、私たちは、もうそうなる必要はありありません。イエス様が私たちの罪のために死んでくれたからです。赦しを受け取ったからです。
ですから、もし、人を裁いてしまう自分がいたとして、その自分を裁かないで、そんな私のために死んでくださったイエス様の赦しを受け取りましょう。
41-43節
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
イエス様は、シモンに、「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」と聞きました。すなわち、イエス様の願いは、シモンにも、より多く赦され、良い多く愛する者になって欲しい。
だから、シモンが、「より多くを赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエス様は、「あなたの判断は正しい」と言われました。
すなわち、イエス様は、「シモンが心の中で、罪深い女やイエス様のことまでも裁いていた」そのことについて、責める思いは、一切ありません。
今、イエス様は、ここで、あなたの判断は正しい・・・あなたが判断した通り、あなたも多くを赦され、多くを愛する恵みを受け取って欲しいと、励ましているのです。
44節
それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
皆さん、このとき、イエス様は、それまで会話していたシモンではなく、彼女の方を向きました。
顔は彼女に向けていますが、話しているのは、シモンに対して話しています。
「この人を見ましたか」・・・すなわち、イエス様は、シモンにも、この人を見て欲しかったからです。シモンが見るようにではなく、イエス様が見ているように、この人は赦しと愛を受け取り、恵みに満たされている・・・あなたも、この人のように、赦しと愛を受け取り、恵みで満たされて欲しい、これが、イエス様の願いです。
47節
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
シモンよ。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったかが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれました。ですから、わたしはあなたにいます。あなたには愛が足りない。・・・と、普通は言いたくなります。
しかし、イエス様が言いたかったことは、そのように、シモンを責めることではなかった。
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。
すなわち、この人は多くの赦しを受け取った、シモンよ、わたしはあなたにも、赦しを受け取って欲しい。
イエス様の願いは、裁くことではなく、赦し、救うことです。
「彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
すなわち、愛が豊かな人は、自分が罪深かったことを知って、素直に赦しを受け取った人です。すべての人が罪深かった・・・その人の罪のためにイエス様が十字架で死ななければならないほどに罪深かった・・・その自分の罪深さを知って、素直に、赦しを受け取る人が、愛の豊かに人になります。
私たちは、愛の豊かな人とは、その人の性格や人格や生い立ちなどによって決まると思うかもしれません・・・しかし、聖書は、どれだけ神の赦しを受け取ったかが、どれだけ愛が豊かかだと言うのです。
この罪深い女性のように、たとえ、私たちの過去にどんな罪があったとしても、他の人に言えないような、家族にも言えないような罪があったとしても、イエス様の赦しを体験するなら、愛の豊かに人に変えられるのです。
素直に、イエス様の赦しを受け取るとき、愛せなかった人を愛するようになります。多く赦された者は、多く愛するようになるのです。
たとえば、子どもがケンカばかりをしているなら、ただ、ケンカをやめなさいと言うだけでは、やめられないでしょう。
人は、こうしなさい。ああしなさい。こうしてはならない。ああしてはならない。と命じられるだけでは、変わりません。
人は、どうすれば、変わるのでしょうか。多くを赦されること、多く愛されることです。
罪を犯した時だけ、赦され、愛を体験するのではなく、いつも愛されていることを体験することが必要です。罪を犯しているときも、罪を犯していないときも、私は愛されている・・・決して見捨てられることはない。私はこの方にとって高価で尊い存在だ・・・これが、本当の意味で、赦しが分かるということです。
ですから、私は、本当に惨めだ・・・そう思っていた私でさえ、愛してくれて、大切に接してくれ・・・そのように、毎日、赦され、愛されることを経験するとき、人は愛する人に変えられていきます。
皆さん、私たちは、イエス様の赦しを受け取りましょう。
イエス様の赦しは、罪に対する死を意味します。
イエス様の十字架の死によって、私たちも、罪に対して死んだことを、赦しと言います。
罪を犯しているけど、また、罪を犯すかもしれないけれども、大目に見て、許してあげる・・・許可することは、聖書の赦しではありません。
イエス様の赦しには力があります。私たちを罪に対して死なせ、神に対して生きる者とする力が、イエス様の赦しにはありません。
皆さん、天に召されたひいおじいちゃんやお祖母ちゃんと未だに交わりを持っていると言う人はおられるでしょうか。
今朝、天に召されたおじいちゃんと一緒に食事をして来ました・・・と言う人はいないでしょう。
死んだ人とは交わりを持つことができないからです・・・それと同じように、イエス様の赦しを受けるとは、罪に対して死ぬこと、もはや、罪と交わりを持つことができないほど、神様との愛の交わりに生きる者にされることです。
イエス様の赦しを受け取る時に、どんな罪深い過去があったとしても、完全に赦されます。
私の懺悔とか、反省とか、私が何をしたかではなく、主人公はイエス・キリストです。イエス・キリストが、私のために何をしてくださったか・・・イエス様は、私の罪のために十字架で死んでくださった、私はもはや、罪の中に生きる必要はなく、赦された・・・私は愛されている・・・これらすべては、十字架から与えられる恵みです。
ですから、もし、自分に不満なところがあるなら、自分に愛せないところ、満足できないところがあるなら・・・そこに赦しを受け取りましょう・・・赦しとは、イエス様の十字架死と復活です。
満足できない足りない私、罪深い私と、イエス様は一つになってくださって十字架で死んでくださった。今や、神様の子どもとして私も共によみがえらせてくださった。
あの足りない私、罪深い私は、過ぎ去った・・・今や、神様は、イエス様と同じ神様の子どもとして、私を愛してくださっている。その恵みを受け取りましょう。

