【305】2025/8/10 主日礼拝 『力ある愛』 ルカの福音書<15:11~32> 斉田基牧師

 

二人の兄弟のうち、弟息子は、家を出て行き、放蕩して、落ちぶれて帰って来ました。
しかし、何と、お父さんは、そんな弟息子を、一言も責めることなく、赦して、愛して、受け入れました。
しばらく様子を見てから、反省しているようなら、受け入れる、というのではなく・・・すぐに抱きしめて、愛さずにはいられない・・・しかし、その愛を許せなかったのは、兄息子でした。

兄は、「ずっと、真面目にしていた自分には、良くしてくれたことはなかったのに、散々放蕩した弟には、こんなに良くするなんて、許せない」と、腹を立てました。
兄が、腹を立てた理由は、お父さんが弟にだけ良くして、弟だけをえこひいきしていると思ったからです・・・しかし、実際は、そうではありませんでした。

このお父さんは、神様を現わしています。・・・神様はえこひいきをされることはありません。弟にだけに良くして、兄には、良くしないことなど絶対にありません。
父の家にいた兄は、放蕩から帰って来た弟が味わっているような、父の愛を、毎日、味わうことができる、環境にいました。
しかし、お父さんのすぐそばにいながら、お兄さんは、お父さんに、どれほど自分が愛されているのかが分かりませんでした・・・なぜでしょうか・・・

皆さん、実は、弟だけが罪を犯していたのではなく、お兄さんも犯していました。
お父さんは、弟の罪を赦したように、お兄さんの罪も赦していました。しかし、兄さんには、それが分からなかった。

お兄さんは、お父さんのことを、自分が真面目にしていなければ認めてくれない、厳しいお父さんだと思い込んでいました。
それで、お兄さんは、真面目な行いによって、自分の罪を覆い隠そうとしていたのです。
表向きには放蕩しないで、真面目ないい子にする行いによって、罪を隠そうとする・・・これは、大変です。
ありのままの私では愛されないから、愛されるために、良い行いによって、ありのままの私を隠そうとしたり、良い私に変ろうとする・・・これは、非常に疲れます。

そのように、自分を隠そう、隠そうとするので、ありのままの私がどれほど赦されているのか、愛されているのかが分からない。
ですから、弟が赦され、愛されるのを見ると、腹が立って、一緒に喜び祝うことができない。

このお兄さんに必要だったのは、弟を赦すこと、愛することよりも先に、自分が、どれほど赦され、愛されているのかを知ることでした。
皆さん、私たちに必要なのは、人を赦し愛することよりも先に、自分がどれほど赦され、愛されているかを、知ることです。
こんな私は赦されない・・・さすがに、こんなに醜く部分は、愛されるわけがないと、思っている、まさに、その部分においても、私は神様に愛されている・・・この愛を受け取る必要があるのです。

私たちは、自分がどれだけ愛されているかを知った分だけ、神様を愛することができます。
自分がどれほど赦されているかを知った分だけ、誰かを赦すことができます。

ありのままの私が愛されていること・・・もう、何も隠す必要がないぐらいに、愛されていること・・・それを知ることが必要です。・・・しかし、それだけでは、本当の意味では回復しません。
ありのままで愛されているから、そのままでもいいんだよ。・・・この、ありのままで愛されている、というメッセージは、今のままでも、愛されているから、変わる必要がないというメッセージです。

しかし、本当の私は、変わりたいんです。今の、惨めな罪人のままでは、いたくないんです。
神様の愛は、ただ、ありのままの私を受け入れる愛ではなく、愛を受け入れた私を生まれ変わらせる、力ある愛です。・・・神様の愛は、罪人の私を変えてしまう力ある愛です。・・・より正確に言うなら、もうすでに、私を、新しく生まれ変わらせた、力ある愛です。

皆さん、罪を犯してしまう罪人だけれども、ありのままで愛しているから、別に変わる必要はないよ・・・これは、神様の愛ではありません。
神様は、罪人を愛していないわけではありません。愛しています。罪人であった私のために、最愛のひとり息子イエス様を与えてくださったほど、愛しています。・・・この神様の愛を、信じて、受け入れた私を、神様は、もはや罪人ではなく、神様の子どもに、生まれ変わらせてくださった。

神様の愛は、私たちを変えることができない、力のない愛ではありません。もし、私たちが、神様の愛を、信じ、受け入れるなら、神様の愛は、私たちを、神様の子どもに新しく生まれ変わらせる力ある愛です。・・・この愛に、弟息子は、気づいたのです。
17節
 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

我に返ったとは、本来の自分に気づいたという意味です。すなわち、「父から離れた私は、本当の私ではなかった。本当の私は父のところにいる息子だった」と気づかされた。
18節
 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
 
立って、父のところに行こう・・・本当の私は、父のところにいる息子だと、気づかされた・・・父に対して罪を犯し、父から離れた罪人の私は、本来の私ではなかった。本来の私は、父のところにいる息子だった気づかされたので、立って、父のところに帰ろうとしました。
同じように、私たちも、我に返ることが必要です。・・・罪を犯して、神様から離れた罪人の私は、本来の私ではなく、本来の私は、神様のそばにいる神様の子どもだと、気づかされることです。

20節
 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 

彼は立ち上がって、父のもとへ向かった・・・ところが、まだ家までは遠かったのに、父は駆け寄って、彼の首を抱き、口づけした。
このとき、彼は、まだ、何も言っていません。「お父さん、私は罪を犯しました」と予行練習した謝罪の言葉を言う前に、抱きしめられていました。
お父さんは、息子が反省した姿を見たから、駆け寄ったわけではなかった。

普通は、誰かが、自分に対して罪を犯したり、傷つけたりするなら、その人が、どれぐらい反省したのかを見た上で、その人との関係を回復するか、断ち切るか、距離を置くかを選びます。
しかし、お父さんは、すなわち、神様は、そのようにはしなかった。

神様は、戻って来るなら、もう全部を赦し、愛します・・・これが神様の赦しと愛による救いです。この赦しと愛を聞いて、神様に戻ろうとする、すべての人を、神様は、赦し、愛し、救います。
お父さんは、彼の首を抱いて口づけしました。彼の存在が喜びでした。・・・もう、帰ってきてくれただけで嬉しくて、とにかく、この子と一緒にいることが嬉しくて、この子を愛さずにはいられない・・・これが、神様の愛です。あなたに対する神様の愛です。
21節
  息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

お父さんに抱き締められながら、弟息子は、予行練習した謝罪の言葉を言い始めました。「お父さん、私はあなたの前に罪ある者です。
・・・・皆さん、お父さんは、もうすでに、全部、赦して、愛しています。しかし、彼は、その愛を、受け取りきれなかった・・・お父さんが赦しても、彼は、自分で自分を責めていました・・・そのように、自分を責めた分だけ、素直に愛を受け取ることができなくなります。

20%責めるなら、その分だけ、愛をさし差し引いて、80%の愛しか受け取れない。
そのように神様の愛を体験するのを邪魔するのは、自分です。
自分に厳しかったり、自分をさばいたりする自分です。

・・・弟息子は言いました。「私は、あなたの前に罪ある者です」
・・・皆さん、罪ある者は、誰も神様の前に立つことはできません。イエス様の十字架による完全な赦しの恵みを受け取る以外に、私たちは誰一人として神の前に立つことはできない。
お父さんのところに、帰ってくることさえできない。

実は、この弟息子の 「私は、あなたの前に罪ある者です。」と言った、その心は、「私は自分の罪を認めて、悔い改めています」という、自分の行いによって、神様の前に立とうとする心です。
十字架の恵みによって立つのではなく、「私、悔い改めてます」という自分の行いによって、神様の前に立とうとする。
神様は、もうすでに、十字架の恵みによって、すべてを赦した。「子よ。あなたのすべては赦された。もう、罪はない」・・・そう言ってくださっているのに、「自分は、罪ある者です。」と言って、自分を責めることによって、十字架の恵みを受け取ることができない。

お父さんが抱きしめて、喜んでくれているのに、「いや、私には、まだ、罪があって、愛される資格はありません。」と言うのです。
私には、資格がないという言葉は、実は、自分ばかりを見ている言葉です。自分が罪を犯したかどうか、自分が正しいことを行ったか、どうか・・・過去の自分や行い見て、「ああ、私には資格がない。」・・・つまり、資格があるかどうかは、自分次第だと言っているのです。

しかし、十字架の恵みは、私がしたことによってではなく、イエス様が私のためにしてくださったことによって、イエス様の資格を、私に与えてくださった・・・これが恵みです。
イエス様の十字架の死と復活によって、私を神様の子どもとして生まれ変わらせてくださった・・・これが、十字架の恵みによって、私たちに与えられた、神様の子どもとしての資格です。
私たちの行いとは関係なく、イエス様の行いによって、与えられた資格です。だから恵みです。
20節
 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

父親は、彼を見つけて、かわいそうに思いました・・・普通は、自分のせいで、落ちぶれた彼を見るなら、「だから、言ったでしょ。自業自得だ」と思います。・・・しかし、お父さんは、彼を見た瞬間、あわれみが溢れ出て、もう勝手に体が動いて、抱き締め、口づけした。
しかも、家までは遠かったのに父は彼を見つけた・・・彼を最初に見つけたのはお父さんだった・・・なぜでしょうか。探していたからです・・・息子が出て行った日から、ずっと探し続けていた・・・
帰って来て、家の門まで入ったなら、赦してあげよう、愛してあげよう・・・ではなく・・・少しでも帰るつもりがあるなら・・・帰り道を一歩でも歩み始めたなら、一刻も早く見つけ出して、帰らせて上げたい・・・そう願って探し続けていた・・・ついに見つけた・・・いなくなっていたのに見つかった!死んでいたのに生き返った・・・もう、抱きしめて、口づけせずにはいられなかった。
この愛が、彼のすべてを変えた力ある愛でした。

私たちも、この愛に出会いました。出会ったからこそ、神様の家に帰って来ることができました。
帰りたいと願っても、途中で何度もつまずきました。倒れました。諦めました。しかし、主は決して諦めなかった。私を、探し出してくださった・・・私のすべてを変えた力ある愛の主に出会ったからこそ、今、神様の子どもとして愛される喜びに生かされている・・・そうではなかったでしょうか。

皆さん、神様の力ある愛に信頼しましょう。・・・帰りたいと願っても、帰ることができなかった私を帰らせてくださった、神様の愛には、私だけではなく、家族も帰らせる力があります。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
・・・私たちが帰りたいと願った、その途中で出会ってくださった神様は、同じように、私たちが祈っている、家族、友人に、出会ってくださいます。・・・主にあって、希望を持ちましょう。

家までは遠かったのに神様は、見つけてくださった。
もし、その家族、その友人が、神様に対して、心を開き始めているなら、もう見つけられています。
もし、少しでも、主にある交わりを求めるようになっているなら、もう帰り始めています。

最初は、イエス様、神様と言おうものなら、拒否され、お祈りもさせてくれなかった家族が、そのうち、「いいよ」と言って、ちょっと照れながら、お祈りを受けてくれ、そのうち、お祈りに、「アーメン」というようになる
・・・そんな変化が現れ始めたなら・・・その家族は、神様のもとに帰る途上にいます。そして、帰り始めたなら、イエス様は、必ず、出会ってくださる・・・主にあって、希望を持ってください・・・その希望は失望に終わることはありません。

大切なのは、主にあって、希望と喜びを持って、とにかく、その人を愛することです。
そこまで来たら、その人を愛し、仕えることに心を尽くしましょう。そして、ことあるごとに、祝福を祈ってください。 ・・・祈らせてくれたときには、「祈らせてくれてありがとう。今も祈ったけど、また祈るからね。健康を祝福するね。いつまでも元気でいてね。また会おうね。」
そのように声をかけて、愛を示していきましょう。