【295】2025/6/1 主日礼拝 『多く赦される恵み』 ルカの福音書<7:36~50> 斉田基牧師
47節
ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。
この人は多くの罪を赦されている。彼女は多くを愛したのですから。・・・とありますが、なぜ、彼女は多くの罪を赦されたのでしょうか・・・37節を見ると、彼女について、『その町に一人の罪深い女がいて』と、紹介されているほど、彼女は、その町で、有名な罪人でした。
当然、彼女も、自分が罪深い人間であることを自覚していました。
彼女は、多くの罪を犯して来たと、自分で認めていました。・・・しかし、その多くの罪が、すべて赦された。赦されるはずがないと思っていたのに、赦された。
誰よりも罪深かいと思っていた・・・誰よりも多くの罪を犯して来たと思っていたのに・・・そのすべてが赦された・・・彼女は、ただ涙を流して、感謝するしかありませんでした。
皆さん、罪の赦しは、イエス様を信じるすべての人に与えられる、神様のプレゼントです。
神様の赦しのプレゼントは、完全です。
すべての罪が赦されます。どんなに大きな罪でも、完全に赦されます。
ですから、イエス様を信じる人は、すべての罪が赦されています。
しかし、イエス様を信じるすべての人が、彼女のように、罪赦されたことを、涙を流して、感謝しているわけではありません。・・・何故でしょうか。
それは、彼女のようには、自分の罪を自覚していないからです。
「この女は、罪深いのだから」と、心の中で思っていたパリサイ人は、自分の罪を自覚していませんでした。
いや、私は、そこまで、悪くない。この罪深い女よりも、私は正しい・・・そのように、心の中で思っていたので、自分には罪の赦しが必要だとは思えなかった。
ですから、自分の罪を自覚できない人は、すべての罪が赦されても、少しだけ赦されたと感じ、少しだけ愛します。
それでは、なぜ、自分の罪を自覚することができないのでしょう・・・それは、罪とは、何かが分からないからです。
聖書で言う、罪とは、殺人とか強盗など、いわゆる犯罪のことを言っているのではありません。
罪とは、神様から、心が離れることです。
初めの人アダムが、罪を犯したとき、神様は、「あなたはどこにいるのか。」と言われました。
神様は、いつも、アダムのそばにいましたが、アダムが罪を犯したとき、アダムの心が神様から離れました。
それで、神様は、そばにいたにもかかわらず、アダムの心が離れてしまったので、「あなたはどこにいるのか。あなたの心はどこにあるのか」と、悲痛な叫びを上げたのです。
心が神様から離れること、それが罪です。
神様に造られた人間が、自分をお造りになった神様を無視して、神などいない、神など必要ない・・・そのように、神様から離れた心で、神様と関係なく生きること、それが罪です。
ルカ15章で、放蕩息子が、お父さんから離れたのと同じように、天のお父さんである神様から人間である私たちが、離れること・・・それが、罪です。
放蕩息子は、「お父さんの財産は欲しいけど、お父さんはいらない。」と・・・まだ、元気なお父さんに、「お父さんが死んだときに、私が受け取ることになる、遺産を、今、すぐ、分けてくれ。」・・・そう言って、お父さんから、財産を受け取ると、さっさと荷物をまとめて、遠い国に行きました。
そして、遊女と遊んで、やりたい放題して、財産を使い果たし、落ちぶれて、乞食になりました。
食べるにも困り、いよいよ飢え死にしそうになったとき、彼は、我に返りました。
「そうだ。お父さんの家に帰ろう。私はお父さんに、本当に酷いことをしてしまった・・・もう赦してもらえないだろう・・・それでも、助けてはくれるだろう。」
それでお父さんの家に向かいました・・・家までは、まだ遠かったのに、お父さんは、息子を見つけて、駆け寄り、息子を抱きしめました。服は汚れに汚れ、物凄く臭い・・・それでも、関係なかった・・・何度も何度も、口づけして、そして、お父さんは、言いました。
「急いで、一番いい服を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履物をはかせなさい。肥えた子牛、A5ランクの最上級の牛を屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに、生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」
なぜ、お父さんは、無条件に、息子を赦したのでしょうか・・・愛していたからです・・・この、お父さんの愛は、息子の想像をはるかに越えていました。
絶対に赦してもらえないようなことをしました。まして、愛してもらえるはずがないと思っていました・・・・しかし、自分を抱きしめる、お父さんの腕の中で、息子は、「ああ、私のすべては赦されている。私は本当に愛されている・・・考えられないほど愛されている」・・・実感しました。
この、お父さんの息子に対する限りない愛と赦し・・・これが、私たちに対する神様の限りない愛と赦しです。
放蕩息子が帰って来た時、お父さんは喜びました。息子も喜びました。家のしもべたちもみんな喜びました。その家のすべての人が喜びに満ちました。しかし、一人だけ喜ぶことができなかった人がいました・・・それは、放蕩息子のお兄さんでした。
お兄さんは、弟がやりたい放題している間も、真面目にお父さんの家で働いていました。
真面目なお兄さんは、弟が物凄く悪いことをしたのに、お父さんが、弟のすべてを赦し、愛し、祝福することに、納得できませんでした。
・・・自分が正しいと思っていたお兄さんは、「私は、弟のように悪い人間ではないから、私には、お父さんから赦される必要ない」と思っていました。
多く赦される人は、多く愛するようになります。しかし、少ししか赦されない人は、少ししか愛しません。
お父さんの赦しを必要としなかったお兄さんは、少ししか赦されず、少ししか愛さなかった・・・それで、お兄さんの心は、お父さんから離れました。
弟が出て行った日、お父さんは心を痛め、悲しみました。
その日から、お父さんは、弟の帰りを、ずっと待っていました。しかし、お兄さんは、お父さんと悲しみを共にすることはありませんでした。
弟が帰って来たときも、「死んでいたのが生き返った」と喜ぶ、お父さんと一緒に喜ぶどころか、腹を立てました。・・・何故でしょうか。
・・・お兄さんにとって、お父さんがどう思うかよりも、自分がどう思うかが大切でした。
お父さんが悲しんでいても、自分がハッピーならハッピーでした。お父さんが喜んでいても、自分の気分が悪ければ、当たり散らしました。
お兄さんの心は、お父さんの痛み悲しみを感じることができないほど、遠く離れていたのです。
体は、お父さんのそばにありましたが、心は、お父さんから遠く離れていた。・・・そのように、心が離れることが、罪です。しかし、お兄さんは、それが罪だとは思わなかった。
弟は、心も体も、お父さんから離れたので、自分の罪を認めることができました。
しかし、お兄さんは、心が離れていても、体がそばにいたので、自分よりも弟の方が遥かに悪い・・・いや、むしろ、自分は正しく、弟だけが間違っていると思いました。
しかし、お父さんから、赦される必要があったのは、弟だけではなく、お兄さんもでした。
弟だけではなく、お兄さんも、多くを赦され、多く愛される必要がありました。
もし、お兄さんが、自分がどれほど、お父さんに赦されていて、愛されていたのかを体験したなら、お父さんの家は、お兄さんにとって、居心地のいい場所になっていました。
しかし、お父さんの自分に対する赦しと愛が分からなかった、お兄さんにとって、お父さんの家は、こうしなければならない、ああしなければならない。こうしてはダメ。ああしてはダメ。そのように、居心地の悪い場所になっていました。
それなのに、なぜか、弟は、赦され、愛され、居心地よくしている。
しなければならないことを全くしなかった弟、してはならないことをすべてやり尽くした弟だけが、無条件に赦されて、愛されているように見えました。それが、お兄さんには、我慢ならなかった。
しかし、実は、弟だけではなく、お兄さんも、無条件に、すべてが赦され、愛されていました。
ただ、お父さんから心が離れていたので、お兄さんには、お父さんの赦しと愛が分からなかっただけです。
お父さんの心が分からない、お兄さんは、自分勝手に、こうしなければならない、ああしてはならないと思って、自分を窮屈にしていました。
お父さんの心を知ってさえいたなら、お兄さんにとって、父の家は居心地の良い場所であったにも関わらず、お兄さんは、自分の思いで、居心地の悪い場所にしていたのです。
そして、最終的には、その自分の思いのせいで、喜びに満ちた父の家に入ろうともせず、自分で自分を外に締め出すことになりました。
皆さん、父なる神様の心さえ知るなら、神様の家である教会は、居心地の良い場所になります。それは、教会が、あの人のああいうところが、ダメだ。あの人は、ああいうことをするからダメなんだと、批判したり、裁いたりする場所ではなく、あの人も、この人も、その人さえも、赦してくださった神様は素晴らしいと、神様を賛美する場所だからです。
私のすべてを赦し、愛してくださった神様が、私の人生を、こんなにも変えてくださった。
あの人も、この人も、その人の人生も、神様は、あんなにも変えてくださっている・・・私たちの神様は、最高に良いお方・・・そのように、神様を喜び、感謝する場所、それが教会です。
お兄さんのように、誰かを批判し、裁き始めると、教会は居心地の悪い場所になって行くのです。・・・最終的には、人を批判する思い、裁く思いによって、兄弟姉妹の交わりに入りたくなくなり、自分で自分を外に締め出すことになります。
37-38節
すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
皆さん、イエス様の周りには、取税人、罪人、罪深い女と呼ばれる人たちが集まって来ました。
イエス様は、完全に正しいお方でした・・・その完全に正しいお方の周りが、罪人たちにとって、何故か、居心地の良い場所になっていたのです。
普通なら、罪人は、正しい人の周りには寄りつきません。罪人が、正しいパリサイ人の周りにいようものなら、すぐに、裁かれてしまうからです。
しかし、完全に正しいイエス様は、ご自分の周りにいた罪人を、だれ一人さばきませんでした。
ヨハネの福音書 12章47節
わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
イエス様が来られたのは、私たちの罪をさばくためではなく、私たちを、罪から救うためです。
イエス様は、私たちのすべての罪を、代わりに背負って、十字架で死んでくださいました。
罪を犯した私が、罰を受けて死ななければならなかったのに、イエス様が私の代わりに、すべての罰を受けてくださった。それによって、私の罪は完全に赦された。
私を愛し、私を救うために、死んでくださったイエス様は、その義の行いのゆえに、神のいのちの力によって、よみがえられた。・・・イエス様は、今も生きておられる救い主です。
イエス様は、あなたの罪を裁くためではなく、あなたに罪の赦しと、神様のいのちを与えるために来られました。
だれでも、イエス様を、自分の救い主として、信じ、受け入れるなら、その人のうちに、イエス様が来てくださり、罪の赦しと、神様のいのちを与えてくださり、その人を、永遠のいのちを持つ、神様の子どもにしてくださいます。・・・信じるだけでいいのです。
イエス様を信じて、受け入れるだけで、イエス様は、あなたに、完全な罪の赦しと、神様のいのちを与えてくださり、あなたを神様の子どもにしてくださいます。
イエス様にあって、あなたのすべては赦され、すべてが愛されています。
そのように、多くを赦され、多くを愛する人たちの集まりが教会です。
真面目で、しっかりしていなければ、教会に行けない・・・礼拝を休むと裁かれる・・・そういう場所ではなく、帰って来た放蕩息子を、父なる神様と一緒に喜ぶ場所です。
私たちは、イエス様を信じ、受け入れました。イエス様は、今も私たちのうちに生きておられます。
私たちは、今も、多くを赦され続け、多くを愛されて続けています・・・イエス様が、今も、赦してくださっているように、互いに赦し合う。今も愛してくださっているように、互いに愛し合う・・・それが、教会です。イエス様が真ん中におられる教会です。
イエス様が真ん中におられるので、罪人が集まって来て、人生が変えられ、神様の喜びが満ち溢れます。
皆さん、多くを赦されていますか?愛される喜びを受け取っていますか?・・・だれでも、イエス様を自分の主として、信じ、受け入れるなら、この限りない赦しの恵み、永遠の真実の愛を、受け取ることができます。・・・イエス様を信じるだけで、受け取ることができます。
今日、受け取りましょう。

