【280】2025/2/16 主日礼拝 『みことばについて行く』 ヨハネの福音書<9:1~7> 斉田基牧師
7節
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
イエス様は、生まれつきの盲人の目に泥を塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい」とだけ、言われました。「そうすれば、目が見えるようになるから、シロアムの池で洗って来なさい」とは、言われませんでした。
それにもかかわらず、この盲人は、イエス様のみことばに従いました。なぜでしょうか。
そこから、シロアムの池までは、健康な人が歩いて10分ぐらいの距離ですが、かなり急な坂道を下って行きます。 盲人にとっては、かなり危険で、大変な道のりです。
しかも、この時、盲人は、イエス様と初対面です。この盲人は、イエス様のことを、ほとんど何も知らなかったのに、なぜ、イエス様のみことばに従ったのでしょうか。
それは、彼が、イエス様のみことばを聞いて、恵みを受けたからでした。
1-2節
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
弟子たちは、「この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と言いました。・・・「何て、配慮のないことを言うのか」と思われるかもしれませんが、これが、当時の常識でした。何も、弟子たちだけではなく、みんながそのように言っていたということです。
ですから、盲人は、今まで、さんざん、同じような言葉を聞き続けて来ました。・・・弟子たちのことばを聞いた時も、「ああ、この人たちも、他の人たちと同じように言うんだなぁ。」と思ったことでしょう。・・・しかし、この盲人は、次の瞬間、驚きました。・・・今まで聞いたこともない、驚くべきことばを聞いたからです。
3節
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
彼は驚きました。今まで、「この盲目は、お前やお前の親の罪のせいだ。お前の不幸は、お前のせいだ。親のせいだ。」・・・そんな言葉しか聞いたことがなかったのに、なんと、このイエスと言う人は、「そうではない!この盲目を通して、神様のわざが現わされる。この人を通して、神様が素晴らしいことが、明らかにされる。」
彼にとって、今まで、盲目は、不幸そのものでした。・・・しかし、イエス様のことばが、彼にとっての盲目の意味を変えてしまった。
この盲目は、私を不幸にするためのものではなく、私を通して、神様が素晴らしいことを明らかにされるためのもの。私のようなものでも、神様に栄光をささげることができる。
・・・イエス様のみことばを聞いて、彼は、恵みを受け、感動しました。
彼の素晴らしいところは、ただ、恵みを受けただけで、終わらせなかったところです。
恵みを受けた彼は、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言うイエス様のみことばに、すぐに従いました。
「そうすれば、見えるようになる、とか・・・そうすれば、良いことがある、とか」 聞いたからではなく、ただ、イエス様のみことばから恵み受けたので、すぐに従うことを選んだのです。・・・これが、みことばにとどまるということです。みことばの恵みにとどまるということです。
皆さん、もし、この盲人が、恵みを受けても、みことばに従うことなく、シロアムの池に行っていなかったとしたら、どうなっていたでしょうか。
恵みを受けるだけで、従わなかったとしたら、この盲人は癒されないまま、生き方も、ほとんど変わらないまま、時間が経つとともに、感動も薄れて行き、「ああ、あの時の感動は、何だったのだろうか。そう言えば、イエスという人は、良い人だったなぁ」・・・ぐらいで、終わっていたかもしれません。
しかし、この盲人は、恵みを受けるだけでは終わらせませんでした。すぐに、みことばに従いました。その結果、彼は癒され、生き方が変えられ、彼を通して、神様の栄光が現わされました。
皆さん、神様は、私たちに、聖書のみことばを通して、恵みを与え、聖霊様による感動を与えてくださいます。 聖書を読むとき、みことばのメッセージを聞くとき、何故か涙が出る、何か不思議な恵み、感動が与えられる・・・そういうことがあります・・・しかし、大切なのは、その後です。
みことばから恵みを受けたときは、すぐに、みことばについて行く必要があります。
すぐについて行くなら、受けた恵みの力によって、みことばに従うことができ、みことばの恵みの中にとどまり続けることができます。
そのように、みことばの恵みにとどまるときに、恵みが、私たちを造り変えます。
しかし、恵みを受けても、みことばについて行かなければ、一時的な感動で終わります。私も、私の生き方も変わりません。
人間のうちには、みことばについて行くよりも、みことばについて来させたい思いがあります。
自分を、みことばに合わせるよりも、みことばを自分に合わせたい思いがあります。
たとえば、『わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。』(創世記12:3)・・・ああ、神様、このみことばは、私にぴったり合っています。神様、私を祝福してください。そして、私に酷いことをしたあの人には、呪いを・・・
しかし、別のみことばを読むと、「えっ、何、赦しなさい。敵を愛しなさい!? ああ、神様、このみことばは、私には合っていません。このみことばは、私ではなく、あの人のためのみことばです。」・・・そのように、みことばを自分に合わせたい思いがあるのです。
しかし、その思いを下ろして、「主よ、あの人を赦せない私を、赦してください。主よ、私に恵みを与えて、みことば通りに赦せる私に、造り変えてください。」・・・そのように、祈って来たかもしれません。
しかし、どうでしょうか・・・熱心に祈っても、生き方を変えようと努力しても、ほとんど何も変わらなかったかもしれません。
皆さん、頑張って生き方を変えようとするのは、宗教です。
イエス様を信じるとは、頑張っても、変わらない私を、イエス様が変えてくださったことを信じることです。
一生懸命努力したら、救われる・・・それは、宗教です。
一生懸命、努力しても、救われない私を、イエス様が救ってくださった・・・これが、福音です。
福音とは、救いの良い知らせです。あなたが何かをするなら、救われるというのは、福音ではなく、宗教です。
何をしても変われない、救われないからこそ、あなたのために、イエス様が全部してくださった・・・このことを信じるだけで、救われる・・・これが、救いの良い知らせ、福音です。
ですから、私が救われるために、イエス様が何をしてくださったのかを信じるだけで、救われます。・・・あなたの生き方が変わるために、イエス様が何をしてくださったのかを信じるだけで、あなたの生き方は変わります。信仰によって、救われ、信仰によって変わるのです。
・・・しかし、イエス様が、何をしてくださったのかを知らなければ、信じることができない。
だからこそ、知ることが本当に大切です。イエス様が何をしてくださったのか、どんなお方なのか、本当に、イエス様は、信じるに値するお方なのかを、知ることが本当に大切です。
皆さん、初対面の人と自己紹介を済ませて、名前を知ったからと言って、その人を信じて、銀行のキャッシュカードや暗証番号を教えることができますか?
夫婦のように、よく知り合って、「ああ、この人は、絶対に信頼できる」と、そこまで信じられなければ、教えることはできないでしょう。
皆さん、聖書を読んで、イエス様という名前を知って、ああ、イエス様って、こんなことをして、こういう方なんだぁと、ある程度、知ったからと言って、イエス様を自分の人生の主人とするほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。
イエス様を自分の主人にすることができるほど、信じるためには、イエス様のことを、本当に、よく知る必要があります。私たちは、イエス様を知ることに、心を尽くす必要があります。
イエス様を知るとは、みことばを知ることです。生活の中で、みことばについて行くとき、生活の中で、イエス様を知ることができ、私と一緒に生活してくださるイエス様を信じる信仰が与えられます。
生活の中で、みことばについて行くとき、私の生活に、イエス様がともに働いてくださる、と、信じる信仰が与えられます。・・・ですから、生活の中で、みことばについて行くことによって、みことばを知ること、イエス様を知ることが、本当に大切です。
沖縄の教会に、金城先生という、70代の牧師先生がおられます。
彼は、一昨年、タフロ症候群という非常に珍しい指定難病で末期の状態になりました。
奥様や教会の聖徒たちは、先生の癒しのために、熱心に祈りました。しかし、どんどん悪くなり、みんな諦めかけていました。
そんな時、ついに、奥様が、主治医に呼ばれ・・・「もう何をしても、良くなりません。今は、奥さんだけですが、ご家族の面会も許可しますので、最後のお別れをしてください。」
彼女は、失望に打ちのめされながらも、「いや主人は回復する望みを持って気力を保っています。私も諦めません」と答えました。そう答えたものの、本当に苦しくてたまりませんでした。
それで、彼女は断食して祈り、また、神様に示されたので、病院の周りを、祈り、賛美し、みことばを宣言しながら歩き周りました。
また、彼女は、できる限りの人に、「祈ってください」と、とりなしの祈りを要請しました。
その祈りの要請が、義喜先生のところにも届きました。彼女のために祈ると、預言が与えられたので、そのまま、彼女に、メールで伝えました。 「この4つのみことばを毎日、思い巡らし、ご主人に聞かせてください。主が3日以内に、ご主人を癒されると言われました。」
そのメールを受け取った彼女は、みことばから恵み受け、励ましを受け、すぐにみことばに従いました。彼女は、本当に、忠実に、みことばについて行きました。
自分では動くことも、声も出すこともできなくなっていたご主人のために、彼女は、毎日、面会して、その四つのみことばを宣言して、ご主人に聞かせ、それだけではなく、そのみことばで祈り、そのみことばで賛美したりしました。
また、そのように、みことばを宣言し、祈り、賛美したYouTube動画を作り、ご主人が毎日、聞けるようにセットしました。
三日目の朝、自分では動けない、声も出せないはずの、ご主人から電話がかかって来ました。
「和子さん、癒されたよ。今朝、午前3時頃、体中が温かくなったんだ。そして力を感じた。神様が癒してくださったという確信が与えられた。」
二人は泣きながら、感謝の祈りを主にささげました。
ご主人が退院され、教会に帰って来る時の動画を見ました。本当に、感動的でした。
教会で、祈っていた人たちが涙を流しがら、「良かったね。良かったね。お帰り。お帰り。」と泣きながら、再会を喜んでいました。
皆さん、みことばについて行くことは、時に、簡単ではありません。
みことばについていくためには、今までの生活を変えたり、犠牲を払わなければならないこともあります。・・・しかし、それだけの価値が、みことばについて行くことにはあります。
みことばについて行くことは、イエス様について行くことです。生活の中で、みことばについて行き、生活の中で働いてくださるイエス様を体験すること、もっともっと、イエス様を知って、イエス様を信じる恵みを受けます。
生活の中で、イエス様について行き、イエス様を知るなら、人生は変わります。・・・みことばについて行き、みことばを知るなら、みことばなるイエス様を、本当に信じる信仰が与えられます。
義喜先生も、最初から、みことばをよく知っていたわけではありません。
今から約8年前、結婚2年目で、義喜先生は、14歳の男の子を里子として迎えました。
父子家庭であった彼のお父さんが、ガンで天に召されたからでした。
・・・当時、義喜先生は、今のようには、みことばの真理を知らなかったと言います。
先生も、教会も、彼のお父さんの癌が癒されるようにと激しく祈りました。
しかし、結局、癒されずに、天に召されました。
医者が死亡を確認した病室で、14歳の彼は泣いていました。その横で、先生は、それでも、生き返るように祈っていました。
彼を慰めてあげたいという思い半分、彼のために、お父さんを生き返らせたい・・・慰めることを 横に置いて、死人の生き返りの祈りを始めました。しかし、お葬式になり、火葬場で焼かれ、最後まで祈り続けたにもかかわらず、生き返りませんでした。
彼は、「聖書は、いつも癒しが起こると教えているのに、なぜ、僕のお父さんは癒されなかったのか。僕は神様に愛されていないんだ。」・・・そのような思いに、悩み苦しむようになりました。
先生が里子として迎えた後も、彼は学校にも行けないまま、部屋に引きこもり、朝から晩まで1日中スマホゲームをしていたそうです。
そのとき、先生は、二度と、このような思いを、14歳の子にさせたくない・・・心からそう思ったそうです。・・・それで祈りました。
神様、もう二度と、このような辛い思いをさせたくありません。大切な家族に、神様の家族に、もう二度と、こんな思いをさせたくありません。
神様、もし、あなたが生きておられるなら。もし、私たちが、聖書のみことば通りに、主よ、力ある神である、あなたと共に生きることができるなら、
私たちが、みことば通りに生きるために 必要なことを、みことばから教えてください。
切に、切に、祈り求めました。
そして、ついに、主が教えてくださった。主がみことばを悟らせてくださった。
その日から、みことば通りの癒し、しるしが起こるようになり、人々がイエス様を信じ、生き方が変えられ、家庭が回復し、リバイバルが始まったと言います。
皆さん、すべては、みことばです。すべては、みことばなるイエス様です。
みことばを知ることです。主から、みことばを教えてもらうことです。
主から、みことばを悟らせてもらうことが大切です。
日々の生活の中で、主からみことばを教えてもらうことが大切です。だからこそ、日々の生活の中で、みことばについて行かなければなりません・・・もし、私たちが、みことば通りに生きたいと願うならです。
もし、キリスト教という宗教ではなく、本当に生きておられるイエス様と一緒に生きていきたいと願うなら、私たちは、日々の生活の中で、みことばについて行きましょう。
みことばを知ることを追い求めましょう。
今日、私たちと共におられるイエス様が、皆さんに、イエス様を知る恵み、みことばを知る恵みを豊かに与えてくださることを主イエスの御名によって、祝福します。

