【278】2025/2/2 主日礼拝 『救いの良い知らせ』 マタイの福音書<7:15~23> 斉田基牧師

 

21-23節
 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言って、主イエスの名によって、多くの奇跡や力あるわざを行った人たちとは、ある意味、良い行いという実を結んだ人たちです。
彼らに向かって、なぜ、イエス様は、「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」と言われたのでしょうか。

良い実を結んだかどうかは、その人が救われるか、どうかを、決めるためのものではありません。それらの実によって、私たちが、その人がどういう人なのかを、見分けるためのものです。
16-19節
 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。

皆さん、茨が、ぶどうの実を結ぶことはできますか?・・・できません。
それでは、茨に、ぶどうの実を括り付けることはできますか・・・できます。
私たちには、茨にぶどうの実を結ばせることはできませんが、茨にぶどうの実を括り付けることはできます・・・しかし、それは、物凄く不自然です。

まあ、物凄く精巧なぶどうの木の模型を作ることはできるでしょう。
しかし、まるで生きている本物のぶどうの木のような模型を作ることはできても、模型にいのちを与えることはできません。模型の木に、本物のぶどうの実を結ばせることはできません。

宗教は、模型のようなものです。・・・宗教は、本物のように見せかけることはできます。
律法学者、パリサイ人たちの外側の行いは、正しく良い行いに見えました。まるで、本物の良い実を結んでいるように見えました。しかし、彼らの内側、彼らの心は、罪と汚れで、いっぱいでした。
心が悪くても、行いにおいては、まるで本物に見える良い行いを行うことができます。・・・しかし、それは、偽善です。
偽善は、善の偽物なので、本物の善を知っている人には、それが本物か、偽物かを見分けることができる・・・だから、イエス様は、本物の善であるイエス様を知っている人たちに、「実によって見分けなさい」と言われました。

ですから、行いの実は、見分けるためのものであり、それによって、救われるためのものではありません。・・・救われるために必要なのは、私たちが、良い木にされることです。悪い木は滅ぼされ、良い木は、救われます。

良い実を結ばない悪い木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
茨に、どんなに良い肥料をやって、良い環境を整えても、ぶどうの実を結ぶようにはなりません。・・・ですから、まず、茨から、ぶどうの木にされる必要があります。

ぶどうの木は、苗を植えてから、実を結ぶまで、二、三年はかかるので、すぐには、ぶどうの実を結ばなくても、ぶどうの木にさえなるならば、いつかは、良い実を結びます。
ですから、たとえ、まだ、良い実が結ばれていなかったとしても、良い木にされたならば、私たちは救われています。
ヨハネの福音書 15章4-5節
 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

罪人であった私たち、すなわち、悪い木であった私たちに、イエス様は、「良い木になりなさい」とは言われず、ただ、「わたしにとどまりなさい。」とだけ言われました。・・・何故でしょうか。

もうすでに、イエス様が、悪い木であった私たちを良い木にしてくださったからです。
唯一まことの良い木であるイエス様に、私たちをつなぎ合わせることによって、イエス様が、私たちを、イエス様と一つにされた良い木にしてくださいました。

だから、私たちは、頑張って、悪い木から良い木になろうとしたり、頑張って、良い実を結ぼうとしたり、頑張って、良い木であるイエス様のところまで来て、つながろうとしたりする必要はありません。

主イエスは、ただ、「わたしにとどまりなさい」と言われました。
すなわち、わたしが、もうすでに、あなたを、わたしにつなげた、もうすでに、あなたは、わたしと一つの良い木になった。わたしが、あなたに良い実を結ばせる・・・だから、あなたは、「わたしにとどまりなさい。わたしにとどまっているなら、時が来ると、あなたは多くの実を結ぶ。」と言われたのです。
皆さん、罪人であった私たち、悪い木であった私たちが、どんなに頑張ったところで、良い木になることはできませんでした。しかし、私たちが良い木になるために必要だったことを、すべて、イエス様が、してくださいました。・・・この良い知らせを信じるだけで、私たちは救われます・・・これが救いの良い知らせ・・・すなわち、福音です。

私たちは、私たちの行いによって、救われたのではなく、私たちのためにイエス様がしてくださったイエス様の行いによって救われました。・・・それにもかかわらず、イエス様を信じて、「主よ、主よ」と言う、多くの人が、自分の行いを主張します。
22節
 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』

彼らは、言います。主よ、私はあなたの名によって、あんな良いこともしました。こんな正しいことも行いました。・・・なぜ、彼らは、自分の行いを主張しているのでしょうか・・・福音を知らないからです。彼らの行いは、彼らを救いません。彼らを救うのは、イエス様の行いだけです。

イエス様の十字架だけが誇りです。・・・しかし、彼らは、「イエス様、主よ、私は、あなたの十字架によって、救われました。感謝します。」とは言わず、「主よ、私は良いことをしました。私には、こんな良い行いがあります。」と主張しました。・・・それは、彼らが、福音を知らなかったから、すなわち、彼らは、福音を、心で、信じていなかったのです。
もちろん、彼らも、福音は聞いていました。頭で理解もしていたでしょう。しかし、彼らは、心で福音を知ってはいなかったのです。
ローマ人への手紙 1章16節
私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力・・・すなわち、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、ベトナム人でも、何人であっても、信じるすべての人に救いをもたらす神様の力・・・
あなたが誰であろうが、どんな人であろうが、関係ありません。・・・本当に、福音を信じるなら、あなたは救われます。・・・福音とは、何でしょうか・・・あなたを救うために、イエス様が、あなたのためにしてくださったイエス様の行いを信じるなら、あなたは救われるという良い知らせです。

しかし、この福音は、口で信じるというだけではなく、心で信じて、口で告白して、救われます。だからこそ、心で信じる必要があります。
ローマ人への手紙 10章10節
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
福音を心で信じるためには、福音を、心で知らなければなりません。イエス様が、あなたのために、何をしてくださったのかを、心で知るとき、心で信じることができます。
悪い木は滅ぼされ、良い木は、救われました。
イエス様は、悪い木であった私たちを良い木にしてくださった・・・すなわち、罪人であった私たちを、神様の子どもにしてくださいました。

イエス様が、私たちの罪のために、十字架で死んでくださったのは、罪を赦すだけのためではありませんでした。
Ⅰペテロの手紙 2章24節
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため (直訳:罪に死んで、義に生きるため)。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

イエス様の十字架は、私の罪を赦すだけではなく、それ以上のことをしてくださいました。
イエス様の十字架は、私が、罪に死んで、義に生きるようにしてくださいました。・・・もはや、罪人として罪の実を結ぶ人生ではなく、神の子どもとして義の実を結ぶ人生に、イエス様が、私の人生を変えてくださった・・・これが、福音です。

私は何もしていません。しかし、私のために、イエス様がすべてをしてくださいました。
イエス様が、私のために、十字架で死んでくださったことのゆえに、私はイエス様と一つにされ、イエス様と共に死んで、共によみがえらされた。今や、私は、神様の子どもとされた・・・これが、救いの良い知らせ、福音です。

この福音を、心で信じ、口で告白するなら、だれでも、救われます。どんな罪人でも関係ありません。・・・ただ一つ、福音を心で信じて、口で告白するなら、イエス様が、その人を新しく造り変えてくださる。・・・これが、救いの良い知らせ、福音です。
ですから、私たちは、救われるために良い行いをしません。救われたから、良い行いをします。

罪人は、罪を犯します・・・それが罪人の性質です。罪人のままでも、頑張れば、良い行いをすることはできます。しかし、自分の性質に反して、良い行いをしているので、疲れます、苦痛です、続きません。
また、罪人がどんなに頑張って、良い行いをし続けも、それで、罪人が神の子どもになれるわけではありません。

私たち罪人の良い行いではなく、神の御子イエス様の良い行いによって、私たちは神様の子どもにされました。・・・イエス様が、私たちを、神様の子どもにしてくださったので、私たちは喜んで、良い行いをします。・・・神の子どもとされた私たちにとって、良い行いは、喜びです。生きがいです。
エペソ人への手紙 2章10節
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

皆さん、福音のみことばは、頭で信じるのではなく、心で信じます。頭で信じても、心で信じなければ、心が変りません。心が変らなければ、生き方も変わりません。

信仰は、キリストのことばを、聞くことによって、始まります。どこに、聞かせなければならないでしょうか。頭ではなく、心です。心で、みことばを聞くときに、心で信じることができる。

思いや考えが、心の入口です。
自分から、みことばを聞いて、イエス様のことを思う度に、心にみことばを聞かせています。
自分から、イエス様のことを考える度に、心にみことばを聞かせています。

ですから、自分から、何度も、何度も、みことばを聞き、イエス様を思い、イエス様を考えることを通して、心にみことばを聞かせ続ける・・・その時、心で信じる信仰が実現するのです。
ですから、私たちは、みことばを心に聞かせ続けましょう。

今週も、先週に引き続き、次のみことばを口ずさみ、私のうちに生きておられるイエス様を思い、イエス様を考え、心で信じる恵みを受け取りましょう。
ガラテヤ2:19-20
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

イエス様が、私のうちに生きておられる・・・この恵み、この信仰が、皆さんに実現することを、主イエスの御名によって、祝福します。