【277】2025/1/26 主日礼拝 『聞いていることに注意しなさい』 マルコの福音書<4:23~25> 斉田基牧師
23-24節
聞く耳があるなら、聞きなさい。」 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。
イエス様は、「聞いていることに注意しなさい。」と言われました。
聞いていることに注意するとは、具体的には、どうすることでしょうか。
イエス様が話していたみことばを聞いていた人々に対して、イエス様は、今、あなたがたが聞いていることに注意しなさいと言われました。・・・すなわち、今、聞いた、みことばに注意しなさい。
皆さん、聖書を読んで、聞いたみことばに注意すること、メッセージを通して、聞いたみことばに注意するとは、大切です。
イエス様は、聞いたみことばに注意しなさいと命じられました。それでは、聞いたみことばに注意するとは、具体的に、どうすることでしょうか。
チャレンジして見たと言う方はおられるでしょうか。
みことばを聞き流してしまわないように、聞いたみことばが心にとどまるように、私は、このような方法で、聞いたみことばに、注意しています、と言う方はおられるでしょうか。
・・・その方は、みことばを聞くだけではなく、行っている方です。
ある兄弟は、イエス様が命じられた通りに、聞いたみことばに注意するために、聖書を読むときに、ノートとペンを用意することにしました。
聖書を読むときに、イエス様が何かを教えてくださると、信じて、期待して、せっかく、イエス様が教えてくださったことを忘れることがないように・・・ノートとペンを用意したときから、不思議に、聖書から多くのことが教えられるようになりました。
それまで、聖書を読んでいても、家庭の問題、職場の問題、人間関係の問題など、自分が直面している問題について、具体的に何かを教えられたことは、ほとんどなかったのですが、
イエス様が命じられた通りに、聞いたみことばに注意するために、ノートとペンを用意すると言った、具体的な信仰の一歩を踏み出した時から、
様々な問題の解決について、聖書から教えられるようになり、また、どちらを選べばいいか分からない時にも、心にとどまったみことばから導きを受けるようになり、彼を通して、救われる人が起こされるようになりました。
皆さん、今日の箇所で、イエス様が、「聞いていることに注意しなさい。」と言われたのは、群衆と弟子たちに対して、でした。しかし、イエス様が命じた通り、聞いていることに注意したのは、弟子たちだけでした。
弟子たちは、聞いたみことばに注意していたので、意味が分からないときには、イエス様のところに行って、聞きました。
一方、群衆は、聞いたみことばに注意していなかったので、意味が分からなくても、イエス様のところにまで行って、聞こうとはしませんでした。
イエス様は、ご自分のところに来て、みことばの意味を聞いた弟子たちには、すべてを教えてくださいました。
イエス様が、みことばの意味を、具体的に分かりやすく教えてくださったので、弟子たちは、みことばを行うことができたのです。
皆さん、弟子たちが、みことばを聞くだけではなく、行うことができたのは、イエス様がみことばの意味を具体的に分かりやすく教えてくださったからです。
今の私の生活で、どうすれば、このみことばを行うことができるのか、イエス様に直接、教えてもらうときに、私たちは、みことばを行うことができます。
群衆でも、イエス様から直接、教えてもらいさえしていたなら、みことばを行うことができました。
ただ、問題は、群衆は、聞いたみことばに注意していなかったので、意味が分からなくても、イエス様のところにまで行って、聞こうとはしなかった。
主イエスは、言われました。「聞く耳があるなら、聞きなさい。」
イエス様が言われた聞く耳とは、群衆のように聞く耳ではなく、弟子たちのように聞く耳です。聞いたみことばに注意する耳です。
イザヤ書50章4節-5節前半
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。
神である主は私の耳を開いてくださった。
イエス様は、私たちの耳を開きたいと願っています。
イエス様は、私たちに弟子の耳を与えたいと願っています。
イエス様は、私たちが群衆のようにではなく、弟子として聞くようになって欲しいと願っています。何故でしょうか?
群衆として聞くだけなら、祝福されないからでしょうか?そうではありません。
群衆も祝福されました。群衆は、困ったときにイエス様のところに来て、助けてもらいました。
イエス様のところに来た群衆は、癒され、満たされ、祝福されました。
しかし、群衆は、自分の願いが叶うと、イエス様のところから離れて行きました。
群衆は、イエス様を求める時もあれば、拒む時もありました。
「イエス様、素晴らしい、最高です」とイエス様を大歓迎した同じ群衆が、数日後には、「十字架につけろ」と叫びました。
群衆は、イエス様から一時的な祝福を受けようとはしましたが、自分の都合によって、イエス様から離れてしまうのです。
皆さん、たとえ、この世で、どんなに祝福されても、永遠の祝福、永遠のいのちであるイエス様から離れるなら、何の意味があるでしょうか。
イエス様は、行ってあらゆる国の人々を、イエス様を信じる群衆にしなさいと命じませんでした。イエス様は、あらゆる国の人々を、イエス様の弟子としなさいと命じられました。
イエス様の弟子になることの始まりが、イエス様のみことばを聞くことなのです。ただ聞くのではなく、聞いていることに注意することです。
イエス様は、どうしても必要なことは、ただ一つだ、と言われました。それは、へりくだって、主が話されることばに、耳を傾けることでした・・・
ローマ人への手紙 10章17節
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
信仰は聞くことから始まります。しかし、聖書のみことばを聞いた、すべての人に信仰が始まるわけではありません。・・・何故でしょうか・・・聞くことが実現していないからです。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現します・・・キリストについてのことばを通してでなければ、聞くことが実現しない・・・すなわち、聞くことが始まらない・・・聞くことが始まらなければ、信仰も始まりません。・・・だからこそ、キリストについてのことばを通して、聞くことが実現していなければ、どんなに聖書のみことばを聞き続けても、信仰が始まらないのです。
事実、聖書のみことばを聞き続けるだけなら、律法学者、パリサイ人は、聖書を丸暗記するほどに聞き続けていました。しかし、彼らには、信仰が始まらなかったのです。・・・それは、彼らが、キリストについてのことばを聞こうとしなかったから・・・彼らは、主ご自身の口から出る、一つ一つのみことばを聞いて、そのみことばに注意しようとしませんでした。
日本語では、キリストについてのことばと訳されていますが、原文では、レーマ セオス 直訳するなら、神の口から出る一つ一つのことばです。
主イエスは、言われました。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』・・・神の口から出る一つ一つのことばとは、聖書に書かれている文字のみことばを意味していません。
書かれている文字のみことばではなく、神様の口から出る、みことば・・・すなわち、神様の口からことばが出て来るのを私が見る・・・神様と顔と顔を合わせて、直接、神様から、他の誰でもなく、私に語られた、みことば、それがレーマのみことばです。
弟子たちは、そのレーマのみことばをいつも聞いていました。イエス様と顔と顔を合わせて、イエス様が直接、弟子たちに語られた、みことばを聞き続けました。それで、弟子たちには、聞くことが実現し、信仰が始まりました。
弟子たちも群衆も、イエス様の口から出る一つ一つのみことばを聞いてはいました。しかし、群衆は、まさか、イエス様が神の御子であるとは信じてはいませんでした。
群衆は、イエス様の口から出る一つ一つのみことばを聞きながら、まさか、今、聞いているみことばが、神様の口から出る一つ一つのみことばだとは、思っていなかったのです。
しかし、弟子たちは、イエス様こそ、生ける神の御子キリストと信じました。
弟子たちは、イエス様の口から出る一つ一つのみことばを、神の口から出る一つ一つのみことばとして聞きました。だからこそ、弟子たちは、聞いたみことばに注意したのです。
私たちも、もし、物凄い奇跡やしるし、天変地異などによって、神様が現れてくださって、神様が直接、語りかけてくださったなら、さすがに、私たちも、自分に直接、語りかけてくださる神様のみことばには、注意して、耳を傾けるでしょう。
神様とまで言わなかったとしても、有名人やスーパースターなど、本当に尊敬している人、本当に凄いと思っている人が、直接、私に語りかけてくれるなら、注意して、聞こうとします。熱心に聞きます。そして、聞いた言葉を大切にします。
同じように、神様が、今、聖書のみことばによって、直接、私に語りかけてくださる、と、心から信じるとき、私たちは、注意して、みことばを聞こうとします。熱心に聞きます。聞いたみことばを心にとどめて、大切にします。
しかし、問題は、神様が、みことばによって、今、私に語りかけてくださる、と、心から信じる恵みを受け取ろうとしないことです。・・・だからこそ、聖書のみことばが、イエス・キリストご自身であることを、心から信じる恵みを受け取ろうとしてください。イエス様に心を開くように、みことばに心を開いて、恵みを受け取ろうとしてください。
ヨハネの福音書 1章1節
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ことばは神であった。聖書のみことばは、イエス様です。
聖書の前に立つことは、イエス様の前に立つこと・・・
聖書のみことばを聞くことは、イエス様から直接、みことばを聞くこと・・・
聖書のみことばを心に受け入れることは、イエス様を心に受け入れること・・・そのように思うことが、私の思いとなり、そのように考えることが、私の考えになるまで、みことばを思い巡らし、みことばを口ずさみ、みことばを心にとどめるとき・・・ああ、イエス様は、今も、本当に私のうちにおられる・・・恵みを体験します・・・そして、信仰が与えられます。
イエス様が、私のうちに生きておられるという信仰・・・全世界を造られた神様が、私のうちに生きておられる。
私を義とするために、私の罪を背負って、ご自分が罪となって、死んでくださった方、よみがえられたイエス・キリストが、今も、私のうちに生きておられる。
どんなに苦しみ、犠牲を払い、いのちを捨ててまで、私を愛し、私を救うことを選んでくださったイエス・キリストが、今も、私のうちに生きておられる。・・・この恵みを受け取ろうとしてください。
・・・この恵み、この信仰は、みことばを聞くことから始まります。
イエス様が私のうちに生きておられるという信仰が始まるとき、人生の問題の解決は、私のうちに生きておられるイエス・キリストにあることが分かります。
家庭の問題、職場の問題、人間関係の問題、すべての解決が、私のうちにおられるイエス・キリストにあります。
天においても、地においてもすべての権威が与えられているイエス・キリストが、すべての問題を解決してくださるお方です。
イエス様が私のうちに生きておられることが分からないとき、自分が何とかしなければならないと思って、不安、ストレス、心配で、押し潰されそうになります。
どうしたらいいか分からなくなって、・・・ただ焦ったり、イライラしたりします。
しかし、イエス様が私のうちに生きておられる、この恵みを体験するとき、自分や人の知恵や力、お金、権力、この世の力に頼るよりも先に、この世のすべてに勝って偉大なお方、力と知恵と愛に満ちたお方、イエス様に信頼して、平安のうちに、一つ一つの問題に向き合うことができます。
ですから、大切なことは、あなたのうちに、イエス・キリストが生きておられることを、あなた自身が、信仰によって、自覚することです。
皆さん、あなたのうちに、イエス・キリストが生きておられるという信仰は始まっていますか。
この信仰は、みことばを聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばを通して実現します。・・・ですから、今週は、次のみことばを聞いて、イエス様が命じられた通りに、聞いたみことばに注意することを選びましょう。
ガラテヤ2:19-20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
キリストが私のうちに生きておられる・・・この恵み、この信仰が、皆さんに実現することを、主イエスの御名によって、祝福します。

