【259】2024/9/22 主日礼拝 『救いの喜び』 詩篇 <51:10~17> 斉田 基 牧師

 

12節
  あなたの救いの喜びを私に戻し 仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。

この詩篇を書いたイスラエルの王様、ダビデは、罪を犯したことによって、救いの喜びを失いました。ダビデは、失ってしまった救いの喜びの回復を切実に求めました。・・・どれほど切実だったでしょうか。すべてを失っても、救いの喜びを取り戻したいと、切に願い求めました。

この時、ダビデが犯した罪とは、忠実な家来であったウリヤの妻と姦淫し、さらには、ウリヤを危険な戦場に送り、敵の手によって殺すという、神様を敬う王様としての尊敬も地位もすべてを失わせるような酷い罪でした。

やろうと思えば、ダビデは、王の力で、自分が犯したその罪を、もみ消すこともできました。しかし、ダビデは、そうしませんでした。・・・なぜですか・・・尊敬、地位、すべてを失ったとしても、救いの喜びを回復することを願い求めたからです。
たとえ、すべてを犠牲にしたとしても、どうしても回復したいと願うほどに、ダビデは、救いの喜びを求めました。

ダビデが、そこまで求めた、救いの喜びとは、どんな喜びでしょうか。・・・それは、救われているという事実のゆえに、一年間365日、変わらない喜び、だれも奪うことができない喜びです。
目が覚めただけで喜びがあり、食事をするだけで喜びがあり、誰かと会うだけで喜びがあり、その日の1日を終えただけで喜びが溢れる。
たとえ、祈りに答えられなかったとしても、苦しみ、痛みがあったとしても、主が私を愛し、救われた、この救いの事実のゆえに、変わらない喜びがある。

この救いの喜びのゆえに、かつて、ダビデは、サウル王にいのちを狙われて、何もない荒野で、いつ殺されてもおかしくない状況でも、喜びに満ちていました。
普通なら、恐れ、絶望するしかない状況で、ダビデは、救いの喜びに満たされ、神様を賛美しました。そのように神様を賛美しながら、神様の素晴らしさを味わう恵みを、自分のいのちにもまさる恵みと告白しました。

しかし、その救いの喜びが、自分の罪のせいで、失われてしまった。・・・ですから、「主よ、どうか、あなたの救いの喜びを、もう1度、私に戻してください。」 求めました。
富、栄光、権力、そんなものよりも、主よ、どうか、あの救いの喜びを、もう1度、私に戻してください。どんなものにも比べることなどできない、あなたの救いの喜びを、もう1度、私に戻してください。・・・ダビデは、切に願い求めました。

皆さん、どんなものよりも素晴らしい喜び、だれも奪うことができない喜びがあるなら、欲しいと思いませんか。その喜びは、主イエスを信じて救われた人なら、だれでも、持つことができます。
Ⅰペテロの手紙 1章8-9節
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

イエス・キリストを信じる信仰の結果であるたましいの救いを得ている人なら、誰でも、この救いの喜びを持つことができます。
もし、救いの喜びを失ったとしても、私たちは、ダビデのように、その喜びを回復することができます。・・・ダビデは、どのようにして、その喜びを回復したのでしょうか。
16-17節
 まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。
 神へのいけにえは 砕かれた霊。 打たれ 砕かれた心。 神よ あなたはそれを蔑まれません。

神様は、いけにえ、すなわち、犠牲を喜ばれません。・・・もちろん、神様を愛する心で、私たちが、神様のために、何かをしたり、ささげたり、犠牲を払うことは、神様も喜んでくださいます。
しかし、ここで、神様が犠牲を喜ばれないと言われた意味は、私たちが罪赦されるため、救われるために、私たちが犠牲を払うことを、神様は喜ばれない。その犠牲は必要がないからです。

もうすでに、神の御子イエス・キリストが私たちの代わりに犠牲を払ってくださった。
イエス様が、私たちのすべての罪を背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださった。ご自分のいのちをささげたイエス様の犠牲によって、私たちは罪赦され、救われました。

もう救われるために、私たちがささげるべき犠牲はありません。
今、私たちがささげて、神様が喜んで受け入れてくださるもの・・・それは、砕かれた心・・・すなわち、悔い改める心です。
悔い改める心とは、自分の罪を認めて、イエス様だけが、私の罪を赦し、私を救う救い主であることを信じる心です。
へりくだって自分の罪を認めて、その罪の赦しのために、イエス様の十字架によって、私は救われた、このことを信じる心、それが、悔い改める心です。

ある男性の救いの証を分かち合います。彼は、鬱になり、仕事もできなくなって、約一年引きこもっていたときに、友人に誘われ、教会に通うようになりました。

彼は、自分のような人間が死んだら、地獄に落ちて当然だと思っていました。
教会に通う中で、自分には神様が必要なことが分かり、また、罪の赦しが必要なことも分かりました。イエス・キリストのことも、知識として知るようになりました。しかし、彼には、イエス様と自分との関係が分かりませんでした。
なぜ、教会の人たちは、見たことも、聞いたこともない、イエス様を信じることができるのか、不思議でした。
しかし、イエス様を信じて喜んでいる教会の人たちのように、彼も、イエス様を信じたいと思って、彼なりに努力して、信じよう、信じようともがきました。しかし、どうしても信じることができなかった。 どうしても、自分とイエス様の関係が分からなかった。

ついにギブアップしました。もう、どんなに頑張っても、会ったこともないイエス様を信じることなど、自分にはできない。力尽きて、自分で何とかしようとすることを諦めたとき、彼は、初めてこう祈りました。
「神様、あの教会で、あなたを信じている人たちが集まっていましたけど・・・もし、あなたが本当に生きているなら、あの人たちが、あなたを信じることができたように、私にも信じる心を与えてください。もう、私にはできません。助けてください。」
その瞬間、不思議なことが起こりました。その瞬間、彼の心が砕かれた。

その瞬間、開かれていた聖書のみことばが彼の目に飛び込んで来ました。その瞬間、聖書の言葉が彼の心に吸い込まれるように入って来るのを感じました。
それまでは、どんなに読んでも、全く、自分の中に入って来なかった神のことばが、心が砕かれた瞬間、生ける神のことばとなって、彼の内側に入って来ました。

その時のことを、彼は、こう話しています。
その時の感覚は、今でも忘れられません。
その時、全身につながれていた鎖が、一瞬にして、解け落ちたような感覚になりました。
それまでは、何をしても、心も体も重かった。布団から出るだけでも重かった。息をしているだけでも、重かった。
しかし、神のことばが内側に入って来た瞬間、すべての鎖が解け落ち、全てが軽くなりました。

彼は、その時、まだ、聖書のことをよく理解しておらず、自分に何が起こっているのか、分かりませんでした。しかし、不思議な平安と喜びが沸き上がって来ました。
それまでは、何を見ても聞いても、何を思い描いても、苦しく、息をしているだけで辛かったのに、その瞬間から、内側から平安と喜が湧き上がるようになり・・・その日、彼は鬱から完全に癒されました。
それだけではありません。その日から、彼は、自分を救ってくださった神様と一緒に生きることを選びました。その瞬間から神様に仕えることが、彼の喜びになりました。
彼にとって、彼を愛し、救ってくださったイエス様と一緒に生きること自体が喜びとなり、イエス様を証しすること、祈ること、賛美すること、全てが喜びになりました。他に何にもいらなくなりました。・・・彼は、今も、そのように主とともに生き、主に仕え、そして、主は、彼を通して、何百もの教会が生み出してくださいました。
12節
  あなたの救いの喜びを私に戻し 仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。

救いの喜びが回復されるとき、彼のように、いつもそばにいてくださるイエス様に仕えることを喜ぶ霊に支えられ、イエス様と一緒に生きること自体が喜びになります。
皆さん、救いの喜びを回復しましょう。そのために、心が砕かれる必要があります。
どうすれば、心は砕かれるのでしょうか・・・へりくだって、罪を認めることです・・・自分の罪を認めるとき、心が砕かれます。
私の罪のために、イエス様が代わりに打ち砕かれた・・・十字架で、いのちを捨ててまで、私を愛してくださったイエス様が、私のこの罪のために打ち砕かれたことを、認めるときに、私の心は砕かれます。
自分の罪を認めて、砕かれた心に、十字架の愛がしみ込み、救いの喜びが沸き上がります。

皆さん、罪を認めるとは、自分が罪だと思うことを、罪だと認めることではありません。
たとえ、自分が罪だと思えなくても、神様が罪だと言うなら、それは私の罪ですと、へりくだって認めるとき、心が砕かれます。
私たちがへりくだって、認めるべき罪とは、何でしょうか。・・・罪とは、的外れと言う意味です。
神様は、私たちを、神様の一つ一つのみことばによって生きる存在としてお造りになりました。
ですから、神様のみことば通りに生きること、それが、的を得た生き方であり、神様のみことばから外れて生きること、それが的外れの罪です。
そして、神様のすべてのみことばを、主イエスは、次のようにまとめました。
ヨハネの福音書 15章12節
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様が愛してくださったように、私も愛に生きること・・・それが、的を得た生き方です。・・・イエス様が愛してくださったように愛するとは、敵をも愛することです。
罪によって神様の敵となっていた私たちの罪を赦し、救うために、イエス様は、いのちまで与えて、私たちを愛してくださいました。
イエス様のように、敵をも愛する・・・そんなことを言われても、とても、できないと思うかもしれません。しかし、神のことばは、あなたにも、できると断言しています。
申命記 30章14節
まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

神様は、できると断言されたのに、私にはできないと思う、神のことばを否定してまで、私にはできないと思う、この自分の思いが、罪に捕らわれた、的外れな思いです。
なぜ、できないと思うのでしょうか・・・今まで、ずっと、できなかったからです。

ノミは、通常2mぐらいジャンプする力があります。しかし、30㎝ぐらいの箱の中に入れておくと、箱から出しても、30cmしかジャンプしなくなります。

また、象使いに飼育されている象は、片足を細い鎖につながれています。その鎖は、象が、その気になれば、簡単に引きちぎることができますが、何故か、象は、鎖を引きちぎろうともせず、鎖につながれた狭い範囲だけを、歩き回ります。
・・・それは、その象が、幼かった時からその鎖につながれていて、かつて、どんなに引きちぎろうとしても、できなかったから・・・成長し、鎖を引きちぎる力を持つようになっても、この鎖を引きちぎることなどできないと思い込んでいるからです。

皆さん、確かに、まだ罪人であった時、私たちは罪の鎖につながれていました。罪の鎖につながれたまま、どんなに頑張ったとしても、みことば通りに生きることなどできませんでした。
しかし、イエス様の十字架によって、罪赦された私たちは、もはや罪の鎖につながれてはいません。今や、イエス様と一緒に、みことば通りに生きることができる・・・私たちは、神様の子どもです。
すなわち、もし、本当にイエス様を信じるなら、私たちは、イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うことができる・・・この信仰によって生きるとき、私たちも、初代教会の聖徒たちのように、信仰の結果である、たましいの救いを得て、救いの喜びに満たされます。
彼らの生き方には、神様の愛が溢れていました。・・・彼らの生き方を見て、ローマ帝国中の人々が、イエス様を信じるようになりました。
イエス様を信じるなら、財産を奪われ、拷問され、十字架につけられ、ライオンの餌にされ、虐殺される・・・それにも関わらず、何故か、彼らは、絶望しない、恐れない、死に至るまでも、互いにかばい合い、助け合い、愛し合い、永遠のいのちの希望を告白しながら、死んで行く。
まさに、みことば通りに神の愛に生きる彼らの生き方を見て、ローマ帝国中の人々が、次々にイエス様を信じました。
イエス様を信じて、彼らのように生きることができるなら、私も、イエス様を信じたい。
イエス様を信じて、彼らのように、救いの喜び、神の愛、永遠のいのちの希望を持つことができるなら、たとえ、殺されることになったとしても、私も、イエス様を信じたい・・・そのように、ローマ帝国が、どんなに激しく迫害しても、イエス様を信じる人は、減るどころか、ますます、増え広がりました。
皆さん、なぜ、彼らは、みことば通りに神の愛に生きることができたのでしょうか・・・それは、彼らが、みことば通りに生きることなどできないという自分の思いよりも、みことばを信じることを選んだからです。
彼らは、みことば通りに生きることができると信じました。イエス様のように、神の愛に生きることができると信じました。
だからこそ、イエス様のように、敵を愛することができないことは、私の罪だと、認めて、その私の罪のために、イエス様が打ち砕かれたことを認め、心が砕かれました。
へりくだって、自分の罪を認め、砕かれた心に、十字架の愛がしみ込み、救いの喜びが沸き上がったのです。
申命記 30章14節
まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

神を信じてください。神のことばを信じてください。みことば通りに生きることができる、イエス様のように愛に生きることができると信じる信仰によって、へりくだって自分の罪を認める、その砕かれた心に、救いの喜びが沸き上がることを、主イエスの御名によって、祝福します。