【256】2024/9/1 主日礼拝 『主とともに歩む』ミカ書<6:6~8> 斉田 基 牧師

 

6節
 何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

この言葉は、神様に近づいて、神様に喜ばれたい、と、願う人が、「私が何をすれば、神様は喜んでくださるだろうか」と自分に問いかけている言葉です。
7節
 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。

幾千の雄羊、幾万の油・・・これは、礼拝を意味しています。すなわち、私が、何千回、何万回もの礼拝をささげるなら、神様は喜んでくださるだろうか。
あるいは、私にとって、息子のように大切なものを主にささげるなら、私が、何か大きな犠牲を払うなら、主は喜ばれるだろうか。・・・しかし、主は、そうではない、と言われます。
8節
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

主が、あなたに求めているのは、あなたが、何か大きなことをすることではありません・・・あなたが、主に多くのものをささげることでも、主のために大きな犠牲を払うことでもありません。
主が求めているのは、あなたが主とともに歩むこと・・・あなたのお金や力、あなたの何かが欲しいのではなく、あなたそのものが欲しい、と、・・・
あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ、あなたの存在そのものを、わたしは喜ぶと、主は言われます。

今日、主が、私に、あなたに求めていることも同じです。主は、あなたに、「わたしとともに歩んで欲しい」と、願っておられます。
公正を行うこと、誠実を愛すること、へりくだること、すべてが、主とともに歩むということばに、かかっています。
すなわち、公正な主とともに歩むために、公正を行いなさい。
誠実な主とともに歩むために、誠実を愛しなさい。
最もへりくだられた主、神であったにもかかわらず、あなたを罪から救うため、神の栄光も力もすべてを捨てて、あなたと同じ人となり、あなたのすべての罪を背負って、十字架で死んでくださり、最も低い、よみにまで下って、へりくだられた主とともに歩むために、へりくだりなさい。
へりくだること、誠実を愛すること、公正を行うこと、すべてのことを、主とともに歩むために、しなさい・・・ですから、主が、求めていることは、あなたが主とともに歩むことです。
皆さん、主とともに歩むとは、どうすることでしょうか。
それは、私たちが、自分から、主とともに生きることを選ぶことです。
主が私を愛してくださっていること、主が私を喜んでくださっていることを信じて、主が私とともに歩みたいと願っているように、私も主とともに歩むことを願うことです。

私を救うために、十字架で死んで、よみがえられた主が、私を愛し、喜んでくださっていることを信じて、毎日、主の私に対する愛を認めて、私も、主を愛し、主を喜ぶことを選んで、今日と言う日を、主と一緒に生きるために、主の導きと恵みを祈り求めることです。
・・・皆さん、主を愛し、主を喜んで、主とともに生きるために、毎日、主の導きと恵みを祈り求めてください。

神様を信じることは、ただ神様が存在していることを信じることではありません。
神様を信じることは、聖書に書かれている通りに、神様が、どれほど、あなたを愛しておられるのかを、信じることから始まります。
最愛のひとり息子、イエス・キリストを与えるほどに、神様が、私を愛していることを信じることから、神様とともに生きる喜びが始まります。・・・神様とともに生きることが、私にとって喜びになるのは、私に対する神様の愛を信じることから始まります。

私を救うために、神のひとり子イエス様さえも犠牲にされた神様は、もはや、私のために犠牲にできないもの・・・私に与えることができないものなど、何もない。もし、それが、本当に良いものなら、神様は、必ず、与えてくださる。・・・このことを信じることから、主とともに生きる喜びの人生が始まります。
ローマ人への手紙 8章32節
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

皆さん、神様の愛を信じてください。神様の愛を追い求めてください。
神様が、どれほど、私を愛してくださっているのか、その愛をもっと知りたい、その愛をもっと体験したい・・・神様の愛を求めて、祈るなら、神様は、必ず、満たしてくださる・・・そして、満たされるとき、あなたも、神様を愛するようになり、そして、神様と一緒に人を愛するようになります。

主よ、私を救ったあなたの愛、今も、私を生かし、満たすあなたの愛の素晴らしさを、みんなに伝えたいです。どうか、主よ、私を、もっと、あなたの愛で満たし、あなたの愛を証しすることができるようにしてください・・・飢え渇いて、もっと神様の愛を、祈り求めるようになります。
・・・すべての始まりは、神様の愛を信じることです。かつての愛ではなく、今も、あなたのそばで、あなたを愛してくださる神様の愛を、今、信じることから、神様とともに生きる喜びが、今、始まる。

しかし、多くの人は、自分の生活で忙しくて、いつもそばにいてくださる神様のことを考えません。神様のことを考えないので、今、神様が私を愛し、私を助けてくださる、祝福してくださると、信じて、祈り求めることができません。
神様を無視するつもりはないのですが、自分のことで一生懸命になることによって、そばにいてくださる神様を無視してしまう。・・・自分のことばかりを考えて、まるで、神様がいないかのように、まるで、神様が助けてくださらないかのように、全部、自分で何とかしなければならないと、一生懸命になる。
それでも、クリスチャンは、きっと、神様は、私が神様のために、何かをし、何かをささげることを喜んでくださる、と信じて、神様に、礼拝、奉仕、献金などをささげます。

・・・もちろん、神様のために何かしたい、ささげたい、という思いは、素晴らしい・・・しかし、問題は、私たちは、受けなければ、喜んで与えることができない、愛される喜びに満たされなければ、喜んで愛することができない・・・そばにいてくださる神様から受け取らないまま、ささげようとするので、喜んで、ささげることができなくなって、嫌々ながら、仕方なくささげるようになる。

皆さん、神様は、私たちから何かを受ける以上に、私たちに与えることを喜ばれます。事実、神様は、神様にとって最も大切なイエス・キリストと一緒に、すべての恵みを、私たちに与えることを喜ばれました。

神様が、まず、私たちに願われることは、神様が大きな愛をもって、私たちを救ってくださったことを、私たちが本当に信じることです。
神様が、ひとり子イエス・キリストという、何よりも大きな犠牲を払うことによって、与えてくださった救いの恵みを、私たちが、感謝をもって、しっかりと受け取ること、この素晴らしい救いの恵みを喜び楽しむこと・・・それが、まず、第一に、神様が私たちに求めておられることです。

神様の自分に対する永遠の真実の愛を受け取らないまま、自分の愛で、仕えようとするから、疲れ果てる・・・しかし、神様の愛を受け取るなら、喜んで仕えずにはいられません。

神様の愛を受け取った弟子たちは、主のために苦しみに会うことさえも、喜びました。・・・ああ、主は、私を、愛する主のために苦難を受けるにふさわしい者としてくださったと言って、喜びました。主の愛に満たされたとき、主のためにすることすべて、主のために受ける苦しむすらも、喜びとなったのです。

皆さん、神様が与えてくださった救いの恵みを、毎日、感謝をもって、受け取り直してください。あなたに対する神様の愛を信じて、毎日、喜んでください。
Ⅰペテロの手紙 1章8-9節
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

もし、私たちが信仰の結果であるたましいの救いを得るなら、私たちにはことばに尽くせない、栄に満ちた喜びがあります。・・・しかし、もし、その喜びを失っているなら、その原因は、私たちを喜びで満たしてくださる主とともに、私たちが歩んでいないからです。
主が、いつもそばで、私を喜びで満たしてくださろうとしているのに、私は、自分のことで忙しくて、主を無視してしまっている・・・私の生活、私の願い、心配、悩み、この世のことばかり考えて、心の扉を、主に対して閉ざしてしまっている。

黙示録 3:20
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

今も、主は、あなたに語りかけています。あなたは、今、主の声を聞いています。
みことばは、主の声です。主の羊は、みことばを通して語られる、主の御声を聞き分けます。
人が信じようが、信じまいが、聖書は、神様のことばです。
しかし、神様のことばは、信じて受け入れる人のうちに、働きます。・・・それでは、信じない人には、神のことばは働くことができないのでしょうか。・・・信じない人のうちには働きませんが、信じない人の上にも、神のことばは、正しい裁きを下します。
ヨハネの福音書 12章47-48節
だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

もし、あなたが、今も、あなたのそばにいてくださる、イエス様のみことばを、信じ受け入れるなら、神の力が、あなたのうちに働き、あなたを救いの喜びで満たします。
しかし、自分の忙しさ、心配、願いなど、いろんな理由で、そばにいてくださるイエス様を無視し、イエス様のみことばを心に受け入れなければ、神の力は、あなたのうちに働くことができません。
もし、神のことばを拒むなら、私たちは、救いの喜びの代わりに、裁きを受けることになる。

ですから、私たちを救うために来てくださった救い主イエス・キリストを、絶対に、拒んではいけません。・・・イエス様を拒むとは、イエス様のことばを受け入れないことです。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って、ともに食事をする」

このイエス様の申し出を、毎日、受け入れてください。
あなたの家庭で、職場で、あらゆる生活の場所で、いつもそばにいて、「わたしは、あなたとともに食事をしたい、素晴らしい時間をあなたとともに過ごしたい、わたしの声を聞いて、戸を開けて、わたしを受け入れてほしい」 この申し出を受け入れ、毎日、イエス様との交わりを喜ぶこと・・・それが、主とともに歩むことです。・・・そのことを、主は、今も、あなたに求めています。

今まで、自分では、喜んで、できなかったことも、主とともに歩むとき、主と一緒に喜んでするようになります。

なぜ、私がしなければならないのか・・・不満に満ちていた心が、主とともに歩み始めるとき、ああ、主と一緒なら、こんなこともできる、あんなことまでさせてもらえる、主よ、感謝します。喜びと感謝の心で、主と一緒にするようになります。

迫害のある国の、あるクリスチャン女性の証を分かち合います。
彼女は、日々、主とともに歩む中で、一つの志が与えられました。
それは、貧しい子どもたちに教育を受けさせたいという志でした。
しかし、その志が与えられた彼女が持っていたのは、チョークと黒板だけでした。

皆さん、チョークと黒板だけで、一体、何ができるでしょうか。
子どもたちに教育を受けさせたいと願うなら、最低でも、教室が必要でしょう。
その他、プロジェクター、パソコンなど、いろんな設備が必要だと、普通は考えるでしょう。

しかし、彼女は、そうは、考えませんでした・・・なぜでしょうか・・・彼女は、現実を見るよりも、その現実の中で、彼女とともに歩んでくださる主を見つめることを選んだからです。
彼女は、自分にできること以上に、ともにいてくださる主と一緒にできることを考えました。
毎日、祈りとみことばによって、主と交わり、主とともに一つ一つのことをしていきました。
そして、彼女は、主に導かれるまま、黒板とチョークをもって、一本の木の下で、子どもたちに読み書きを教え始めました。

黒板とチョークだけで、一体、何ができるのか、そのように考えるのではなく、「主よ、今日も、私を導いてください」と、祈りをもって、今日、成すべきことを、一つ一つ、主とともに行うことを選び続けました。

彼女は、今日と言う日に、主と一緒に、自分にさせてもらえる、一つ一つの小さなことを、喜びをもって、忠実に行っていきました。・・・そのように、小さなことに忠実だった彼女に、主は、多くのものを任せてくださるようになりました。

今や、その州の一等地に、8階建ての校舎が建ち、別の校舎も建ち、グランドも与えられました。・・・何よりも素晴らしいことは、約800人の生徒たちのほとんどが、クリスチャンを迫害する異教徒の子どもたちであるにもかかわらず、その学校では、毎朝、800人の子どもたちが、主の祈りを祈って、始めます。また、その学校で、教える歌や踊りは、すべて、ワーシップソングです。
クリスチャンを迫害する異教徒の子どもたちが、イエス・キリストをほめたたえる賛美の歌を歌い、踊っています。・・・しかし、そこまでの道のりは、簡単ではありませんでした。

彼女は、校舎を建てるために、5つの土地を取得するために、5回の裁判に勝たなければなりませんでした。
また、ミッションスクールであることを知った上で、入学したはずなのに、子どもたちが、主の祈りや賛美を歌うことについて、特に宗教指導者の親が腹を立て、校舎に火をつけようとしたり、殺害予告をしたりなど、何度も警察が出動しました。

また、彼女自身、何度も宗教指導者の親と、1対1で対決しなければなりませんでした。
しかし、何と、彼女は、対話だけで、宗教指導者を追い返してしまった。
宗教指導者を言葉で打ち負かした、そのことが、その地域全体の評判になり、さらに多くの生徒が集まるようになりました。
そのように聞くと、彼女は、とても強い女性に聞こえるかもしれません・・・しかし、彼女は、多くの涙を流しました。彼女を通して成された多くのことの背後には、多くの涙の祈りがありました。しかし、彼女の一つ一つの涙を、主は、いつも拭ってくださいました。
彼女は、彼女の強さによって、多くのことを成し遂げたのではなく、いつも彼女と共にいて、彼女を強くしてくださる主と一緒に成し遂げました。・・・毎日、一つ一つのことを主とともにしていく、彼女の小さな従順を通して、主が、多くのことを成し遂げてくださいました。

皆さん、想像してみてください。
もし、主があなたと一緒にしてくださるなら、あなたの家庭は、どのように変わるでしょうか。
もし、主があなたと一緒に働いてくださるなら、あなたの職場は、どのように変わるでしょうか。
もし、あなたの悩みを、主が一緒に悩んでくださるなら、
もし、あなたの問題を、主が一緒に解決してくださるなら、
もし、あなたが、今まで、自分でして来たことを、今から、主と一緒にすることを選ぶなら、どのように変わるかを、想像してみてください。
・・・このキリストにある希望、信仰、愛によって、主とともに生きることを、毎日、忠実に選ぶのです。
主があなたに求めておられることは、あなたが主とともに歩むことです。
私たちが主とともに歩むために、必要なのは、毎日の小さな従順です。
主は、あなたの、今日と言う日に、小さなものを与えてくださいます。
今日、あなたが、主と一緒にできる、小さなことを、主があなたに見せてくださいます。

主は、小さな恵みを、あなたに与えて、それに対して、あなたが、どれほど忠実であるのか、
あなたが、主を愛し、主と一緒にすることを喜びとして、忠実に従うことを選ぶのか見て、
主は、もっと大きな恵み、もっと多くのたましいの救い、もっと素晴らしい神様の栄光の働きを任せたいと願っておられます。
小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実だからです。

ですから、私たちは、今日、この時間に、主の御前で、もう一度、主を愛し、主と一緒に一つ一つのことをしていくことを選びましょう。
まず、今、主の御前で、私を救った神様の大きな愛を信じること、そして、神のひとり子イエス様を与えてくださった恵みを、もう一度、感謝をもって、受け取りましょう。
そして、その愛と恵によって、主とともに歩むことを、もう一度、決心しましょう。
それを、毎日、続けていくのです。
毎日、自分から、祈りとみことばによって、主を求め、主に近づくことを通して、毎日、主の愛と恵みを受け取って、主とともに歩みましょう。