【322】2025/12/7 主日礼拝 『信仰のことば』 Ⅱコリント人への手紙<2:12-17> 斉田基牧師

 

14節
 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

ここで、パウロは、「しかし、神に感謝します」と言いました。
しかし、ということは、感謝できないような、難しい状況だけれども、「しかし、神に感謝します」という意味です。・・・あのパウロが、感謝することが難しい状況・・・どんな状況だったのでしょうか。

パウロは、あらゆる教会で、教えていました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。御霊を消してはいけません。むしろ、御霊に満たされて、いつでも、すべてのことについて、主イエスの名において、父である神に感謝しなさい」・・・・そのように教えていた、パウロが、感謝することが難しい・・・一体、何があったのでしょうか。
12-13節
 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

パウロが、トロアスで、福音を伝えたとき、主がリバイバルを起こしてくださり、多くの人が救われ始めました・・・これは感謝することが難しいというよりは、簡単な状況ではないでしょうか。
パウロ自身、私は 『キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでい』る。(Ⅰコリント9:12) 『私は福音のためにあらゆることをしています。』 (Ⅰコリント9:23) と言って、
福音のために、苦しくても、辛くても、すべてのことを耐え忍んで、福音を伝え続けました。
福音のための忍耐と労力が報われ、トロアスで、大成功し始めている・・・もう感謝するしかない状況のはずでしたが、何と、パウロは、兄弟テトスに会えなくて、心に安らぎがなくなってしまい、トロアスの人々に別れを告げて、出発した、と言うのです。

えっ、と思いませんか?・・・あのパウロが、テトスに会えなくて、心の平安を失い、トロアスでの福音伝道を、一旦やめて、出発した・・・考えられますか。

パウロと言う人は、かつて、ピリピの町で、無実の罪で捕まり、鞭で酷く打たれ、激しい痛みで、身をよじろうにも、手枷足枷で、身動きすら取れない・・・そんな状況でも、真夜中まで、主を賛美し、ついには、看守とその家族に福音を伝えて、救いに導きました。
そのように、パウロは、悲惨な状況でも、福音を伝え続けた人でした。
そのパウロが、なんと、トロアスでは、まさに、主が、救われる人々を起こしてくださっている真っ最中に、平安を失ったから、と言って、人々に別れを告げ、出発した・・・
えっ、パウロさん、どうしちゃったんですか、と思われるかもしれません・・・しかし、それは、もしかすると、パウロのことを誤解しているから、そう思うのかもしれません。

皆さん、パウロの手紙を読むと、
キリスト・イエスにある神の愛から私を引き離すものは、何もない。どんな状況でも、キリスト・イエスによって、私は圧倒的な勝利者・・・私は私を強くしてくださるイエス様によって、どんなことでもできる・・・物凄い信仰のことばを語っているので、「ああ、パウロと言う人は、物凄く強い人なんだ・・・私のように弱い人間とは、全く別の人間なんだ」と、感じるかもしれません。
しかし、実際にパウロに会ってみた人たちは、違った感じ方をしました。
Ⅱコリント人への手紙 10章10節
 「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」と言う人たちがいるからです。

パウロは、信仰の人です。神のみことばをそのまま信じて、神のみことば通りに生きた信仰の人です。しかし、それほど信仰が成長して強くなっても、弱さがなくなるわけではありません。
むしろ、信仰が強くなれば、なるほど、パウロは、ますます弱さを担いました。
ローマ人への手紙 15章1節
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

Ⅱコリント人への手紙 11章28-30節
 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

パウロは、あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈る人でした。
パウロは、特に、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りました。
だからこそ、パウロは、だれかが弱くなっているとき、パウロも弱さを感じました。だれかがつまずいているとき、パウロの心は激しく痛みました。

パウロの弱さは、人を大切に思うゆえの弱さでした。人を愛することを選んだからこその弱さでした・・・パウロは、その弱さを誇りました・・・その弱さこそ、イエス・キリストと同じ弱さだったからです。
Ⅱコリント人への手紙 13章4節
キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。

イエス様は、私たちを思う弱さのゆえに、十字架にかかってくださった・・・私たちが、私たちの罪のせいで、死んで、地獄に落ちるのを、黙って見ていられるほど、イエス様は強くなかった・・・イエス様は、愛する私たちのために、何もしないでいることなどできなかった・・・イエス様は、私たちを愛する弱さのゆえに、ご自分のいのちを捨てました。

イエス様は、私たちのすべての弱さを引き受けて、十字架で死なれました。
私たちを愛するゆえに、私たちの弱さを受け入れてくださったイエス様の、十字架の弱さのうちに、神様は、復活の力を働かせてくださった・・・パウロの弱さも、イエス様と同じ弱さでした・・・その弱さのうちに、神の力が働いたのです。
Ⅱコリント人への手紙 12章9-10節
  しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

私が弱いときにこそ、私は強い・・・パウロという人に、実際に会ってみると、パウロの弱さが見えました・・・しかし、それと同時に、強さも見える・・・しかし、その強さは、パウロの強さではなく、パウロのうちに働く、神様の強さでした。

しかし、それは、パウロに会ってみなければ、なかなか分からない・・・パウロの手紙を読むだけでは、パウロの弱さが見えなくて、パウロは、ただ強い人だと勘違いする人が多かった。
多くの人は思いました。「パウロが、みことば通りに生きることができるのは、パウロが強い人だからだ。私たちのように弱い人間には無理だ」と

・・・しかし、実際にパウロに会って、パウロの生き方を見たときに、
パウロは、強い人などではなかった。それどころか、多くの人のことを思って、共に痛み悲しみ、共に苦しんで、誰よりも弱さを感じている人だった。

しかし、パウロのその弱さのうちに、神の力が働いている・・・私たちと同じ弱さを抱えているパウロ・・・いや、私たち以上に弱さを抱えているパウロのうちに、神の力が働いている。

神様は、きっと、私の弱さのうちにも、力を働かせてくださる・・・励ましを受けたのです。・・・実際にパウロに会って、パウロの生き方を見たとき、多くの人が、信仰の励ましを受けました。

だからこそ、パウロは、みことばを伝えるだけではなく、みことば通りに生きる私の生き方を見なさい。私の生き方を見て、私に倣いなさいと教えました。
Ⅰコリント人への手紙11章1章
私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

Ⅰコリント人への手紙 4章17節
そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

パウロは、あらゆる教会で、キリスト・イエスにあるパウロの生き方を教えていました。
パウロは、聖書のみことばの情報や、知識だけを教えていたのではなく、
聖書のみことばを信じて、みことば通りに生きるとは、こういう生き方であるということを、自分の生き方を見せることによって、教えていました。

この教え方は、まさに、イエス様と同じ、教え方でした。
イエス様が、人となって来られる前までは、私たち人間には、どのように生きることが、神のことば通りに生きることができるのかが、分かりませんでした。神のことば通りに生きることができる人間が、一人もいなかったからです。

・・・人間にはできなかったからこそ、神の御子イエス様が、私たちと全く同じ人間になって、神のことば通りに生きる生き方を見せてくださった。
イエス様が、わたしが道であると言われた意味は、あなたと全く同じ人間となった、わたしの生き方こそ、人間であるあなたが、神のことば通りに生きる生き方であるという意味です。

・・・パウロは、神のことばである、イエス様を信じる、信仰によって、イエス様と同じ生き方をするための神の力を受けました。
パウロは、神のことば、そのまま信じる信仰によって、神の力を受けました。
神のことばに、つけ加えることも、省くこともなく、そのまま、素直に、信じる信仰が、パウロの弱さのうちに、神の力を働かせました。
・・・だからこそ、パウロは、神のことばに混ぜ物することなく、まっすぐ語ることにいのちをかけました。神のことばに混ぜ物をした時点で、神のことばでなくなってしまうからです。

神のことばであるイエス様に、罪、汚れ、偽りなど、少しでも、つけ加えるなら、もはや、イエス様ではなくなります。逆に、神のことばであるイエス様から、完全な愛、平安、喜びなど、少しでも差し引くなら、それも、イエス様ではなくなります。・・・混ぜ物をしたイエス様、混ぜ物をした神のことばを信じる信仰では、神の力は働くことができません。

私たちのうちに、神の力を働かせる、唯一の道は、イエス・キリストです。混ぜ物なしの、純粋な神のことば・・・イエス・キリストを信じる信仰こそ、神の力が私たちに働く、唯一の道です。
だからこそ、パウロは、神のことばを、まっすぐ語ることにいのちをかけました。
Ⅱコリント人への手紙 2章17節
 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

神のことばに混ぜ物することなく、純粋な神のことばを、忠実に語り続けたパウロは、次のように語っています。
14節
 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

「しかし、神に感謝します」・・・しかし、とは、自分のうちに、感謝できない弱さがあることを認めた上で、しかし、それでも、私は、自分の意志で、感謝することを選ぶという意味です。

感謝できない私の弱さのうちにも、神の力が働く・・・そのように、神のことばを、信じることを、選んだ・・・パウロが、自分の弱さを認める以上に、神のことばを認めることを選んだので、神様も、パウロの弱さのうちに、神の力を働かせることができました。

実際、パウロが、自分の弱さしか認めることができなかったときには、神様は、パウロのうちに、神の力を働かせることはできなかったのです。
Ⅱコリント人への手紙 12章7-9節
 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

パウロは、自分の弱さを、私を打つためのサタンの使いと呼んでいました。サタンの使いです。あってはならないものです。パウロは、この弱さは、自分のうちにあってはならないものだと思っていたので・・・主よ、どうか、この弱さを取り除いてください。この弱さは、私にとって、悪でしかありませんから、どうか、取り除いてください」、と、主に三度も願い求めました。

そのように、パウロが、自分の弱しか認めず、実は、その弱さのうちに神の力が働くことを認めることができなかった間は、神様も、パウロに力を働かせることができませんでした。

それでは、何がきっかけで、パウロは、弱さのうちに働く神の力に気づかされ、認めることができたのでしょうか?・・・神のことばです。神のことばを聞いたときでした。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と、自分に語りかけてくださった、神様のことばを聞いたとき・・・初めて、「ああ、この弱さは、悪いものではなく、神の恵みであった」と、信仰によって認めることができました。
パウロは、神のことばを聞くことによって、弱さのうちに働く、神の力を認める信仰を受け取りました。・・・信仰は、神のことばを聞くことから始まります。混ぜ物をした神のことばではなく、純粋な神のことばを聞くことから始まります。
神のことばを聞くまでは、パウロにとって、弱さは、悪でしかありませんでした。
しかし、神のことばを信じ、受け入れたとき、悪でしかなかった弱さが、誇らずにはいられない神様の恵みになりました。
・・・私のこの弱さを通して、神の力が働き、イエス・キリストによる勝利が明らかにされる・・・私ではなく、イエス・キリストが素晴らしいことが、私の弱さを通して、すべての人に明らかにされる・・・確信する信仰が、神のことばを信じ、受け入れることによって、与えられました。

そのように、神のことばを受け入れることができたのは、それまで、受け入れることができなかった自分の弱さ・・・絶対に取り除いて欲しかった自分の弱さについて、祈って、祈って、祈った結果、神様が答えてくださった、神のことばを聞く恵みを受けたからでした。

ですから、私たちも、パウロのように、正直に祈りましょう。
神様が答えてくださるまで、祈って、祈って、祈って、私が祈っていることについて、神のことばで答えてくださり、神のことばを聞く恵みを受け取るまで、祈りましょう。

神のことばを聞いたなら、自分の意志で、受け入れることを選びましょう。
神のことばを受け入れる人に、キリストによる勝利が与えられます。
キリストによる勝利とは、神のことばが、私の人生に実現するという勝利です。

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。恐れるな。わたしがあなたを贖った。あなたはわたしのもの。わたしがあなたとともにいて、あなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

神のことばに約束された恵みが、私の人生に実現する勝利・・・それが、イエス・キリストによる勝利です。
パウロが、自分の意志で、神のことばを信じ、受け入れることを選んだとき、パウロの人生に神のことばが実現しました。
同じように、あなたが、自分の意志で、神のことばを信じ、受け入れるとき、あなたの人生に神のことばは実現します・・・混ぜ物無しの純粋な神のことばを信じ、受け入れるとき、神様は、神のことばを選ぶあなたに、キリストによる勝利を与えてくださいます。

今、この時間、神様が、神のことばで、私に答えてくださることを信じて、祈りましょう。
神様の前に、自分の弱さを正直に告白しましょう。
正直に言って、神のことばを受け入れたくない弱さ、受け入れることが難しい弱さがあるかもしれません。
現実が、神のことばとは、あまりにもかけ離れている・・・失望し、傷ついて、疲れ果て、素直に信じようとさえ思えない、弱さがあるかもしれません。
神のことばを受け入れることを邪魔している、弱さについて、主に打ち明けて、祈りましょう。主が、この弱さのうちに恵みを満たしてくださることを、信じ、期待して、祈りましょう。
私の祈りに、神のことばで、答えてくださることを信じ、期待して、祈りましょう。