【320】2025/11/23 主日礼拝 『私に目を留めてくださるイエス様』 ヨハネの福音書<9:1-5> 斉田基牧師

 

 

1節
 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。

イエス様は、生まれつきの盲人をご覧になりました。この盲人に、一番、最初に目を留められたのは、弟子たちではなく、イエス様でした。

イエス様は、何のために、この盲人に、目を留められたのでしょうか。
この盲人に、イエス様は、何をしたかったのでしょうか。
イエス様は、この盲人に神のわざを現わしたかった。

この盲人に、神様のわざを現わすことによって、
「あなたは神に見捨てられてなどいない。神は、今も、あなたのことを見ておられる。神は、あなたを大切に思い、あなたの苦しみを知り、その苦しみから救ってくださった。あなたは、神様に愛されている。」・・・それを、この盲人に伝えるために、
神にしかできないわざを現わしたかった・・・生まれつきの盲人の目を開けるという、神のわざを、この盲人に現わしたかった・・・それで、イエス様は、この盲人に目を留められました。

かつて、この盲人に目を留めてくださったイエス様は、今日、あなたに目を留めてくださいます。
イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも変わらないお方・・・人を差別したり、えこひいきしたりは、絶対にしないお方です。

この盲人を愛して、神のわざを現わしてくださったイエス様は、今日、あなたを愛して、神のわざを現わすために、あなたに目を留めてくださいます。

しかし、多くの場合、私たちは、イエス様が私に目を留めてくださっていることに気がつきません。この盲人がそうでした。
この盲人が、誰かが、自分に注目していると、気づいたのは、自分について話している、弟子たちの声を聞いたからでした。盲人が、最初に、聞いたのは、イエス様の声ではなく、弟子たちの声でした。
2節
  弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
・・・これは、酷いことばではないでしょうか?
盲目で生まれた・・・つまり、この盲人は、まだ、お母さんのお腹の中にいて、良いことも悪いことも何もできないときから、盲人でした・・・誰が罪を犯して、誰のせいで、盲目になったのか・・・そんな、犯人探しをすることに、どんな意味があるでしょうか。
たとえ、誰が罪を犯したかが、分かったとしても、それで、盲目が癒されるわけではありません。
盲目の原因である、罪の問題が解決されなければ、盲目は癒されません。

皆さん、神様は、もともと人間を、罪のない存在としてお造りになりました。罪のなかった人間は、死ぬこともなく、病気になることもなく、祝福に満ちた存在でした。

しかし、人間が罪を犯した瞬間に、死が人間に入りました。それだけではなく、病気、争い、貧困、恥など、悪いものすべては、罪によって、人間に入って来ました。
ローマ人への手紙 3章23節
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

詩篇 51篇5節
ご覧ください。私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました。

初めの人が罪を犯して以来、すべての人が罪ある者として生まれ、すべての人は罪を犯したので、死、病、苦しみなど、悪いものが、私たちに入って来ました。

ですから、罪が原因で、この人は、盲目に生まれたと言うことはできても、「誰が罪を犯したから、盲目になったのか」と、犯人探しをしても、何の解決にもなりません。・・・犯人探しをする人も、罪を犯しているからです。罪人には、罪の問題を解決することはできない。

罪の問題を解決することができるのは、ただひとり、罪のないお方イエス・キリストだけです。
罪のないイエス様、神の義なるイエス様だけが、罪の問題を解決することができます。
罪のない、神の義なるイエス様だけが、盲目の原因である罪の問題を解決して、盲目をも癒すことができる。

しかし、イエス様は、犯人探しはしませんでした。・・・イエス様は、犯人探して、罪人を裁くために来られたのではなく、罪の奴隷にされて苦しんでいる罪人を、救うために来られました。
3節
  イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

イエス様は、この人が罪を犯したのではないと言われました・・・本当に、この人は罪を犯していなかったのでしょうか・・・すべての人が罪を犯したとあるので、この人も罪を犯してはいます・・・しかし、イエス様だけは、「この人が罪を犯したのではない」と言うことができるのです・・・なぜなら・・・罪のないイエス様は、この人の代わりに罪となってくださったからです。
Ⅱコリント人への手紙 5章21節
神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

神は、罪を知らない方、イエス様を、私たちのために、また、この盲人のために罪とされました。・・・それは、私たちが、また、この盲人が、イエス様にあって、神の義となるためでした。

これが、イエス様が、私たちに、現わしてくださる神のわざです。
イエス様が、この盲人に現わしてくださった神のわざとは、単に盲目の癒しではありません。

もちろん、生まれつきの盲目が癒されるという、奇跡は素晴らしいです。感謝なことです・・・しかし、癒されても、また、今まで通り、罪人として生きるなら、いつかは、死んで、地獄です。
たとえ、癒されて、健康になったとしても、人は、必ず、死にます。癒されても、罪の問題が解決しなければ、地獄です。

イエス様がこの盲人に現わしてくださった神のわざとは、この盲目の原因である罪の問題を解決する神のわざでした。
すなわち、罪のない、神の義なるイエス様が、この盲人の代わりに、罪となってくださったことによって、イエス様は、この盲人を、イエス様にある者、神の義としてくださった。

そのように、盲目の原因であった罪の問題を、イエス様が解決してくださったので、この盲人は癒されました。そして、癒され後は、今まで通り、罪人として生きるのではなく、イエス様にあって、神の義に生きる者、すなわち、イエス様のように神の愛に生きる者にしてくださった。

イエス様が、私たちに現わしてくださる神様のわざも同じです。私たちの苦しみの原因である罪の問題を解決してくださる、神のわざです。
罪のない、神の義なるイエス様が、私たちの代わりに、罪となって十字架で死んでくださり、よみがえってくださった・・・イエス・キリストを自分の救い主として、信じて、受け入れる私たちは、イエス様にあって、神の義に生きる者、イエス様のように神の愛に生きる者にしてくださいます。

私たちを罪から救う神様のわざ、私たちをイエス様のように神の愛に生きる者としてくださる神様のわざを現わしてくださるために、イエス様は、今日も、私たちに目を留めてくださいます。

しかし、このことを覚えてください。生まれつきの盲人が、最初は、イエス様が、自分に目を留めてくださっていることに、気づかなかったように、私たちも、気づかないことがあります。

この盲人を愛して、この盲人に神の愛のわざを現わしてくださったイエス様が、今日も、あなたを愛して、神様の愛のわざを現わそうとして、あなたに目を留めてくださっていても、気づかないことがあります。
むしろ、聞こえて来るのは、「この人が、こんなに不幸なのは、誰のせいですか。」・・・そのように、酷い言葉かもしれません。

しかし、このことを覚えてください。そのように酷い声が聞こえて来るときこそ、イエス様が、あなたに、神様のわざを現わそうとしてくださっている時です。
この盲人に、一番、最初に、目を留められたのは、イエス様でした。
イエス様が、この盲人に目を留められたので、それまで、盲人を見ていなかった弟子たちも、盲人に注目して、「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。」・・・と、聞いたのです。

今日も、イエス様は、あなたを愛して、神様のわざを現わそうとして、あなたに目を留めてくださいます。・・・しかし、二つの声が聞こえてきます。
一つは、「この人が、こんなに不幸なのは、誰のせいですか。」
そして、もう一つは、「それは、この人に神のわざが現れるため」
この、どちらのことばを、受け入れるか、によって、人生が変わるのです。

今日も、イエス様は、あなたを愛して、神様が、あなたのために立ててくださった素晴らしい計画を実現するために、今日も、イエス様は、あなたに目を留めてくださいます。
神様の素晴らしい計画に歩むためには、あなたを傷つける人の言葉ではなく、あなたを癒すイエス様のことばを信じて、受け入れる必要があります。

この盲人は、自分を傷つける人の言葉ではなく、「それは、この人に神のわざが現れるため」と言われたイエス様のことばに聞き従って、シロアムの池に行き、目に塗られた泥を洗ったとき、癒されて、イエス様について行く人生を歩みました。

私たちも、神様が私たちのために立ててくださった素晴らしい神の計画に生きるために、神のことばに聞き従うことを選びましょう。
エレミヤ書29:11-14
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

神様が立ててくださった神の計画を、私たちに教えてくださるのは、神様です。
神の計画の実現のために、今日、何をすべきかを、具体的に教えてくださるのも、神様です。
そして、今日と言う日に、神の計画を私たちに実現させてくださるのも、神様です。
だからこそ、神様に出会う必要があります。神様に出会うとき、教えてもらうことができ、神様に助けられながら、私に行わせてもらうことができます。

だからこそ、神様は、わたしを呼べ、わたしに向かって叫べ・・・そうすれば、わたしはあなたの祈りに答えて、教えることができる。
わたしを捜し求めなさい。心を尽くして、わたしを求めなさい。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができ、あなたに見つけられたわたしは、あなたに、わたしの計画を実現させることができる・・・だから、わたしを呼び求めなさい。心を尽くして、わたしを求めて祈りなさい。

そして、神様が、神様を求めなさいと命じられたのは・・・私のためだけではなく、私を通して多くの人が、救われるためです。
4-5節
 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。

イエス様は、わたしが世にいる間は、わたしが世の光です・・・と言われました。ですから、今や、天の神の右の座におられるイエス様、もはや、この世にはいないイエス様は、世の光ではありません。
かつて、イエス様が、この世におられた間は、イエス様が世の光でした・・・しかし、今や、イエス様は、私たちに、「あなたがたは世の光です。」と言われます。イエス様を信じ、受け入れた私たちが、世の光です。

イエス様は、このみことばで、「わたし」は、ではなく、「わたしたち」は、わたしを遣わされた神様のわざを、昼のうちに行わなければならないと言われました。

神様のわざは、昼のうちに・・・すなわち、この世で生かされている間に行わなければなりません。誰も働くことができない夜・・・すなわち、私たちが死んで、この世から去った後には、私たちは、世の光としての神のわざを行うことはできません。

この世で生かされている、今日と言う日に、私に神のわざを現わすために、私に目を留めてくださるイエス様の声について行くとき、イエス様は、私たちに、神のわざを行わせてくださる。

ですから、あなたを傷つける人の言葉ではなく、あなたを愛し、あなたを罪から救うイエス様のことばを心に受け入れてください。
イエス様のことばは、あなたを生かし、あなたを神の義に生きる者、神の愛に生きる者にしてくださいます。

イエス様のことばを受け入れるとき、あなたのうちにイエス様がおられることを、イエス様が教えてくださいます。
ヨハネの福音書 17章26節
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。

あなたのうちにおられるイエス様が、神の愛であなたを満たしてくださるから、あなたは、神の愛に生きることができます。あなたではなく、あなたのうちにおられるイエス様が、あなたを神の愛に生きるようにしてくださる・・・
ですから、私たちは、今日と言う日に、私に目を留め、私に神の愛のわざを現わそうとしてくださっている、イエス様のことばを受け入れ、心にとどめましょう。