【315】2025/10/19 主日礼拝 『今、持っているもので』 Ⅱコリント人への手紙<8:11-15> 斉田基牧師
今日は、コンパッションの働きを通して、聖霊様が働かれていることを分かち合い、そして、みことばを分かち合います。
コンパッションの働きは、主イエスの御名のために、子どもたちを貧困から救う働きです。
タイのコンパッションは、大きく二つの働きをしています。
一つは、地域の教会とともに働いて、子どもたちに必要な、教育、健康、社会生活などを与え、地域の教会で、子どもたちが大人になるまで成長を助けることを通して、子どもたちを、イエス様との出会いに導き、教会につなげる働きです。
そして、もう一つは、一人のスポンサーが、一人の子どもを支援する働きです。
タイは、経済的に豊かになって来ていますが、貧しい地域では、子どもたちの半分以上が栄養失調になり、10人に一人は、5歳まで生きることができません。
また、極度の貧困が人間性を奪っています。貧困のゆえに、親は、子どもを、子どもとして見ることができなくなり、児童ポルノなど、お金を稼ぐ道具として見る親も少なくありません。
親に愛されることを知らずに育った子どもたちは、ドラッグ、ギャンブル、早過ぎる結婚など、あらゆる問題に、傷つき、捕らわれ、抜け出すことができない貧困の現実に苦しんでいます。
そのように、貧困という現実は、子どもたちを苦しめる、悪いもの、マイナスでしかないはずです。しかし、コンパッションの支援を受けた、ある卒業生は、「あなたにとって、貧困とは、何ですか?」という質問に、こう答えました。
貧困は、祝福でした。 貧困でなければ、イエス様に出会うことができなかった。貧困を通してイエス様に会うことができたから、私にとって、貧困は、神様の祝福でした。
その人を苦しめていた、貧困という、マイナスを、神様は、プラスに変えてくださった。
そのように、主イエスの御名のために、貧困から子どもたちを救う、コンパッションの働きを通して、聖霊様が力強く働き、子どもたちの人生を変え、家族を変え、地域を変えています。
集まった数百人の子どもたちを見て、驚きました。きっと、皆さんも驚くと思います。
子どもたちの笑顔に驚きます。まさに、輝く笑顔です。
日本で生活する私たちから見れば、彼らは、必要なものを何も持っていないように思います。しかし、何か必要なものはありますかと聞くと、何もないよ・・・輝く笑顔で答えます。心が満たされている。
・・・しかし、そんな笑顔の中にも、一人、笑顔がない子どもがいました。声をかけても、反応できない子どももいました。どれほど、傷ついていたのか・・・
しかし、そのように、傷ついた子どもたちが、コンパッションの支援によって、実際的にも、霊的にも具体的な助けを受けて、成長し、卒業します。卒業生たちは、コンパッションの主にある働きによって結ばれた実です。その卒業生たちの証しを聞きました。
主イエスの御名によって、貧困から救われた彼らはみな、今も、主の御名のために人々を救う働きに携わっています。
この方は、両親を亡くし、孤児院に入れられましたが、栄養失調になっていたときに、コンパッションの支援を受けました。
基本的に支援者は、支援する子どもと、手紙で文通します。
子どもは、その手紙を通して、支援者の思いや生活を知って、支援者を思いながら、祈ります。
支援者も子どもの思いや生活を知って、子どものために祈ります。
子どもたちは、肉体的な支援だけではなく、精神的にも、霊的にも支援を受けます。
支援を受けている子どもたちにとって、支援者は、私たちが想像する以上に大切で、心の支えとなるような存在です。
ある子どもは、家が洪水になって、逃げなければならなくなったとき、唯一、その子が家に戻ってまで、取って来た唯一のものは、支援者の写真だったそうです。
この彼にとっても、支援者は大切な存在で、本当に感謝していました。
彼は、8歳から高校を卒業するまで、支援を受けましたが、その後、医者になって、クリスチャン病院の医院長を務め、さらには、貧しい地域の貧困者を支援する働きを立ち上げ、今も、何百人もの人々を助ける働きをしています。
通常、一人のスポンサーが、一人の子どもを支援しますが、彼の場合は、オーストラリアの貧しい教会の年配のご婦人たちがみんなで、彼を支援していました。・・・彼は、支援をしてくれたご婦人たちの写真を、宝物のようにして、見せながら、話してくれました。
「この方々は、もういません。
彼らは、彼らの支援のおかげで、私が医者になったことさえ知りません。
彼らが私にしてくれたことが、どんな実を結んでいるのかを、彼らは知りません。
と、涙ながらに話してくれました。
それで、ある方が、こう質問しました。
もし、あなたを支援してくれた方に会ったら、あなたは何を伝えたいですか?
すると、彼は、次のみことばを読みました。
マタイの福音書 25章40節
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
彼は、このみことばを読んで、私は、私を支援してくれた方々に、
彼らが小さい私にしてくれたことは、彼らにとっては、小さなことに思えたかもしれません。しかし、私は救われました。そして、今、主の御名のために、人々を救う働きになっています。
ですから、
「あなたがたが私にしてくれたことは、小さなことではなかった。」と伝えたい。
どれほど感謝しているのか、どれほど多くの感謝が生まれたかを、伝えたい。
皆さん、私たちが、主にあって、人を愛して行う小さな行いさえも、主は用いて、豊かな実を結ばせてくださいます。
13-15節
ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。
「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。
神様は、今、あなたが持っているもので、あなたは人を助けることができると言われました。
今、持っていないものを、借金したり、働いたりして・・・何かこう、もっと頑張らなければ、人を助けることはできない、とは、言われませんでした。
今、持っているもので、あなたは喜んで人を助けることができると、言われました。
これが、平等を実現する神様の方法です。
たとえば、三人の子どもがいて、三つのお菓子があったとしたら、一人に一つずつお菓子を与えることが、平等を実現する方法だと、私たちは思うかもしれません。
しかし、神様は、一人だけ3つのお菓子を持っていて、二人が何も持っていないとき、
三つ持っている子に、愛をもって分かち合いなさいと命じて、その子が、みんなに分かち合うことによって・・・たくさん集めた人も余ることなく、少しだけ集めた人にもたりないことはない・・・平等を実現しようとされます。
しかし、神様が命じられたみことばに、人が従うことを選ばず、多くの人が、愛をもって、分かち合おうとしないとき、不平等が蔓延するのです。
私たちは、ゆとりの中から、喜んで、彼らの不足を補うことができると、神様は言われます。
不足に、不足を重ねて、ああ、つらい、苦しい、なぜ、私が、彼らを助けなければならないのか、と、我慢しながら、彼らを助けなさい、とは、言われませんでした。
今持っているもので、人を助けるという神様の働きの一つが、コンパッションの働きです。
月々約五千円の支援をすることは、人によっては、大きな犠牲になるかもしれません。
しかし、その犠牲を通して、一人の子どもの人生が変えられ、家庭が変えられ、地域が変えられるなら、その犠牲は、喜びの犠牲になります。
コンパッションの支援は、ただ、支援するだけではなく、支援する子どもを思って祈ります。手紙を通して、支援する子どもの生活を知り、支援する子どもを思って祈ります。・・・主の御名によって祈る、その祈りと共に聖霊様は、働かれます。
そのように、主の御名によって救われた子どもたちが、人々を救う働きを担うようになります。
ですから、コンパッションでなくても、大切なのは、主の御名よって祈ることです。
もちろん、誰かに、ただ良くすることも良いことです。しかし、主の御名によって、誰かに良くするなら、聖霊様が共に働いてくださいます。
コロサイ人への手紙 3章17節
ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
ただ、人に良くするのではなく、主イエスの御名によって祈りながら、その人に良くするとき、聖霊様は、その人に働くだけではなく、主イエスの御名によって祈る、私たちのうちにも働いてくださり、私たちに、喜んでする思いを与えてくださいます。
喜んでする思いがあれば、受け入れられ、喜んでする思いがあれば、成し遂げることができます。・・・喜んでする思いさえあれば、持っていないものではなく、今、持っているもので、その人に対する神様の働きを成し遂げることができます。
11-12節
ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
喜んでする思いがあるなら、主に受け入れられます。喜んでする思いがあるなら、最後まで、やり遂げることができます。大切なのは、喜んでする思いを、いつも、持つことです。
しかし、いつも、が、難しい。・・・喜んでする思いがある時もあれば、ない時もあります。
それが、ない時には、新しく受け取る必要があります。
喜んでする思いは、誰かに喜んでしてもらう時に、与えられる思いです。
ああ、大変なのに、私がしなければならないなんて、不満たっぷりで何かをしてもらっても、ああ、私も、人に何かをしてあげたいとは思えないしょう。
しかし、なぜ、この人は、私に、こんなにも良くしてくれるのか、なぜ、この人は、喜んで惜しみなく、与えてくれるのか・・ああ、私も、この人がしてくれたように、人にも、してあげたい・・・そのように、喜んでする思いが与えられます。
・・・皆さん、私たちは、主イエスを信じたとき、その思いを受け取ったはずです。
Ⅰヨハネの手紙 4章10節
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神は、実に、最愛のひとり息子イエス様を、私に与えてくださったほどに、私を愛してくださった。
罪人である私を救うために、イエス様さえも、喜んで惜しみなく、私に与えてくださった神様の愛を知ったから、喜んでする思いを受け取りました。
・・・神様の愛、十字架の愛を知るとき、喜んでする思いが与えられます。
ですから、私たちは、何をするにも、主の十字架の愛を覚えて、感謝しましょう。
何をするにも、十字架の主の御名によって祈り、喜んでする思いを受け取りましょう。
このことを覚えましょう。私たちが、今日と言う日に、出会う最も小さい人に対してすることは、イエス様に対してすることであることを覚えましょう。
マタイの福音書 25章40節
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
神様は、今日も、私たちに、最も小さい人を遣わしてくださいます。
今週も、神様が遣わされた最も小さい人に、私たちは出会います。
そして、その人にした小さなことは、私たちの目には小さくても、主の目には、大きな喜びと感謝をもたらします。
主は言われます。
「その人にしたことは、わたしにしたことだ」 と・・・
ですから、私たちは覚えましょう。
私たちは、持っていないものではなく、今持っているもので、喜んで、やり遂げることができます。
主よ、今週、あなたが私のために用意された良い働きは何ですか。
今、私が持っているもので、喜んで成し遂げることができる良い働きは何ですか・・・主よ、教えてください。喜んでする思いをください。十字架の愛で私を満たしてください。
ともに祈りましょう。

