【313】2025/10/5 主日礼拝 『家庭の回復』 マラキ書<4:5-6> 斉田基牧師

 

5節
  見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

主の大いなる恐るべき日、この日は、神様が全世界に裁きを下される、世の終わりの日です。
その終わりの日が来る前とは、ちょうど、今の時代です。
まだ、世の終わりの日ではないけれども、今日、イエス様が来られてもおかしくない・・・ですから、目を覚まして祈り、「ハレルヤ!主イエスよ、来てください」と、主をお迎えする準備を整えて、毎日、主を待ち望む時代、それが、世の終わりの今の時代です。

世の終わりの今の時代に、主は、預言者エリヤを私たちに遣わされ・・・彼は、ある神様の計画を実現すると約束されました。
6節
 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。

神様が、世の終わりの今の時代に、実現される計画とは、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせるという、計画です。・・・父の心が子に向き、子の心が父に向くなら、この地が打ち滅ぼされることはない・・・これは、どうい意味でしょうか。

父なる神様の心が、子である私たちに向き、また、私たちの心が神様に向けられ、私たちは救われる・・・そういう意味もありますが・・・原文を見ると、父たちの心を子たちに向けさせ、子たちの心を、父たちに向けさせる・・・これが意味するのは、それぞれの家庭の回復です。壊れてしまった親子関係の回復・・・主にある家庭の回復です。
主イエスは、世の終わりには、人の愛が冷えていく、と、預言された通り、今の時代、親の心が子から離れ、子の心が親から離れ、多くの家庭が傷つき、壊れています。

ある子は、お母さんがフィリピンの方で、お父さんには、ほぼあったことがありませんでした。
ある時から、家に男の人が来るようになりました。しかし、一年ぐらいすると、別の男の人が来るようになり、また、しばらくすると、また別の男の人が来る・・・そして、その一人、一人を、パパと呼ぶように、教えられたそうです。

パパが来ると、自分が好きなものを食べられない。部屋の端っこで静かにしていなければならない。それで、余った食べ物を、お腹が空いた時に一人で食べる・・・そんな生活だったそうです。
ですから、彼女にとって、お母さんは、いつも家にいるけれど、お父さんは、コロコロ変わる男の人で、たまに一緒にご飯を食べたり、家に泊まったりする人でした。
しかし、その人が来ると、自分は隅に追いやられ・・・ああ、自分は、この家の中では、そこまで大切な存在ではなく、おまけのような存在なんだ・・・そんなイメージを受けました。

彼女は、小学生になると、人間関係が上手く行かなくなり、仲間外れにされ、保健室にずっといたり、不登校になったりしました。
しかし、そんな彼女が、毎週のように、いつも喜んで通った場所がありました。・・・教会でした。
教会には、神様の愛で互いに愛し合う神様の家族がいました。主にあって回復された家庭がありました。・・・そこに、彼女の居場所もあったのです。・・・彼女のことを、尊敬と愛をもって受け入れてくれる神様の家族を通して、彼女は、自分はおまけなんかではない・・・価値ある、愛されている存在だったんだと、実感することができ、真っすぐに育ちました。

皆さん、子どもたちが真っすぐに育つためには、親の愛が必要です。もちろん、お金を稼いで、家族を養うことも、大切な親の役割です。
しかし、食べ物、着る物、住む場所など、生活に必要なものを与えて、子ども養うだけなら、親でなくても、できはします。しかし、子どもを養うことと、子どもを育てることは違います。
親にしかできない、育て方があります。・・・それは、子として愛して、愛して、育てることです。十分に愛されて、育った子どもは、本当に幸いです。
一流の塾に通い、一流の大学、一流の会社に入って、成功し、富や名誉を手に入れれば、必ず、幸せになるわけではありません。
富、権力、名誉、すべてがあり、幸せそうな家庭の子どもが自殺する・・・自分で自分のいのちを断つほど、苦しみ、絶望する・・・何故でしょうか・・・愛が必要です・・・愛されること、愛することが必要です。

皆さん、教会は、この世の中では、体験することが難しい2つのことを体験する場所です。
一つは、無条件の愛です。何か良いところがあるから、愛されるのではなく、頑張ったから、褒められるようなことをしたから、愛されるのでもなく、ありのままで愛される・・・無条件の愛。

そして、もう一つは、権威あることばです。権威あることばとは、自分が従うべきことばです。
例えば、子どもに、テーブルの上に足を乗せたらダメだよと、注意しても、聞かない子がいます。
その子が、聞こうとしないのは、自分が従うべき権威のことば、というものがあることを、知らないからです。だから、「別に、従わなくても大丈夫。それで、やり過ごせる」と思うのです。

ですから、聞こうとしない子には、目と目を合わせて、「ちょっと待って。足には、ばい菌がついていて汚いから・・・テーブルは、みんなで食べるところで、綺麗にしておかなければいけないから、ここに足を乗せたら、だめだよ。」・・・そのように、ちゃんと教えれば、きっと、従ってくれる、と、その子を、信じて、教えます。その子を信じる愛の忍耐をもって、教えます。
子どもがなかなか言うことを聞かなくても、「もういい加減にして!」とは言いません。
「いい加減にして!」と言う言葉は、その子を信じる愛から出る言葉というよりは、
「もう我慢できない」という、感情から出る言葉です。
ですから、「どうせ、言っても聞かないから、無駄だ。」と、諦めるのではなく、目と目を合わせて真剣に教えるなら、きっと、その子は従ってくれると信じ、期待して、教えます。・・・それでも聞かなければ、どうするでしょうか。
「ちょっと、待って。さっき、教えたでしょう・・・こうこうこういう理由があるから、そうしないで、こうしてね。」と、何度でも、愛の忍耐をもって、教えます・・・このように教えることは、祈りなしでは、できません。
私たちの心に神の愛を注ぎ満たしてくださる聖霊様の助けを受けなければ、できません。
神の愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ愛を・・・聖霊様との祈りの交わりを通して、心に受けなければ、私たちは、感情的になってしまいます。
ともすると、感情的な言葉、人を傷つける言葉を言ってしまいます。

私も何度も失敗しました。また、失敗してしまうこともあるでしょう。しかし、それでも、主に立ち返るなら、諦めないで祈るなら、主は、失敗さえも、すべてのことを働かせて益としてくださる。
だからこそ、何度つまずいても、主に立ち返って、祈ります。主のあわれみと恵みによって与えられた愛の忍耐をもって、教えます。聖霊様の導きに従って、権威あることばを教えます。

・・・そのように、愛の忍耐をもって教えるとき、多くの場合、子どもたちの目の色が変わって来ます。・・・悲しいことに、今の子どもたちは、誰かから、真剣に、愛の忍耐をもって、教えてもらった、という経験が、あまりありません。
しかし、「ああ、この人は、今、真剣に、私に向き合って、愛をもって教えてくれている」と感じると、子どもたちも、真剣に聞き始めます。
・・・これが、権威のことばの教え方です。主の教育と訓戒によって、育てる、教え方です。
エペソ人への手紙 6章4節
 父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

主の教育と訓戒によって育てられなければ、子どもたちは、権威のことばが、どういう、ことばなのかが、分かりません。

権威のことばとは、自分が従うべきことばです・・・なぜ、従うべきなのか、従うなら、本当に幸せになるからです・・・皆さん、誤解して欲しくないのは、聖書が言う幸せとは、神様の祝福です。幸いなことよ、と聖書に書かれている幸せは、いわゆるご利益宗教のご利益とは違います。

主のみことばに従うことこそが最高の生きがいであり、幸せであることを悟らされます。主のみことばに従うとき、神の愛にとどまり、考えられないほど満たされる喜び・・・主だけで十分です・・・心の底から湧き上がる幸い・・・この幸いを、権威のことば従うとき、私たちは受けるのです。

聖書のことばは、すべて権威のことば、なのですが、実際に、従って見なければ、権威のことばが、本当に従うべき恵みのことばだと、実感することができません。だからこそ、実際に従ってみることが必要です。
イエス様が、私に語ってくださったみことばに従って、恵みを体験するとき、「ああ、みことばは、本当に、私が従うべき権威あることばだ」と実感し、みことばに従うことに、大きな価値を見出すことができます。ですから、従うことを励まされながら、教えてもらう必要があるのです。
シモン・ペテロもそうでした。「わたしについて来なさい」というイエス様のことばに、シモン・ペテロが、財産も、仕事も捨てて、すぐに従うことができたのは、財産や仕事よりも、イエス様のことばに従うことに、大きな価値を見出したからです。
ペテロが、イエス様のことばに従うことに、大きな価値を見出すことができたのは、イエス様が、ペテロに、従順の恵みを体験させてくださったからです。
ルカの福音書 5章4-6節
話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。

「深みに漕ぎ出し、網を下ろしなさい」と言われたこの時点では、まだ、シモン・ペテロは、イエス様のことばが、権威のことばだとは、実感していませんでした。・・・イエス様のことばに従うことに大きな価値があることが、まだ、よく分からなかった時でした。

しかし、ペテロは、それでも、「おことばですので、網を下ろしてみましょう」と言って、従ってみたとき、大きな恵みを体験しました。その恵みを体験したので、ペテロは、イエス様に従うことに、財産や仕事よりも大きな価値を見出すことができました。
だからこそ、主のみことばに従う価値が、まだ、よく分からない時でも、従うことを励まされながら、教えてもらうことが必要です。よく分からなくても、従って見て、恵みを体験する必要があります。

ペテロのように、実際に、主のみことばに従うことによって恵みを体験し、従順の価値を知った人が、他の人にも従順の恵みを教えることができます。
エステルを教えたモルデカイも、そうでした。モルデカイは、主の教育と訓戒によって教えることによって、エステルを育てましたが、モルデカイ自身が、主のみことばに従う価値を、誰よりもよく知っていました。

モルデカイは、主のみことばに従うことを選んで、ハマンにはひれ伏しませんでした。ハマンにひれ伏さなければ、殺されるとしても、モルデカイは、主のみことばに従うことを選びました。
モルデカイにとっては、いのちよりも、主のみことばに従うことに価値があったのです。
そのように、モルデカイは、従順の価値を知っていたので、エステルにも、従順を教えることができました。モルデカイから教えられた、エステルの従順には、感動させられます。
エステル記 2章20節
エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。

エステルは、育ての親であったモルデカイから、自立して生活するようになっても、モルデカイの命令に従っていました。・・・エステルは、考えられないほど、従順な子どもに育っていたのです。
皆さん、親もとを離れても、親の言うことを守る・・・それは、本当に、親を尊敬し、愛していなければ、できないことです。
エステルが、そこまで、モルデカイを尊敬し、愛して、従うようになったのは、まず最初に、モルデカイが、エステルを、尊敬と愛をもって、教え、育てたからです。

真剣に向き合い、愛をもって教えるなら、きっと、従ってくれると、信頼し、期待して、教えました。すぐに従うことができなくても、諦めずに、愛の忍耐をもって、教え続けました。
そのように、尊敬と愛をもって、モルデカイが教えてくれたので、エステルも、尊敬と愛をもって、従うようになりました。
ですから、尊敬と愛をもって、互いに愛し合う関係の中で、教えることが大切です。

親が、愛と尊敬をもって、教えるとき、子どもは、教えられた内容よりも、自分に対する親の愛と信頼を実感します。・・・私は、親にとって、高価で尊い・・・私は本当に愛されている・・・そのように、親の愛と信頼を実感することが大切です・・・愛と信頼の関係を通して、教えられるときに、「ああ、本当に、私は、このことばに、従うべきなんだ」ということが、よく分かります。
ヨハネの福音書 1章12節
  しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

イエス様を信じ、受け入れた私たちは、神様の子どもです。
罪人であった私たちを救うために、神様は、最愛のひとり息子イエス・キリストを与えてくださるほどに、私たちを愛してくださいました。

皆さん、物の価値は、その物のために、支払った対価の大きさで、決まります。
例えば、十万円以上する、最新式のスマートフォンを買う人とって、スマートフォンは、十万円以上価値があります。

病気の癒しや健康のために、何十万、何百万とお金をかける人にとっては、癒しと健康が、それほどの価値があります。

愛するわが子のためなら、自分の臓器も、いのちまでも犠牲にしても惜しくないという親にとっては、子どもは、自分のいのちにもまさる価値があります。

皆さん、あなたにとって、一番、価値があるものとは、どんなものでしょうか・・・今までの人生で、あなたが、もっとも大きな対価、大きな犠牲を払って、手に入れたものは何だったでしょうか。

神様にとって、一番、価値があるもの・・・神様が、もっとも大きな犠牲を払ってでも、ご自分の愛する子として買い取った・・・それが、あなたです。神様にとって、あなたは、何よりも高価で尊い、イエス・キリストと同じ価値がある、神様に愛されている神様の子どもです。

この神様の愛を実感する場所・・・それが、教会です。・・・尊敬と愛をもって、権威のことばを教えてもらえる場所、主にある家庭が回復されていく場所、それが家の教会です。

主のみことばに従う恵みを体験できるように、互いに、従うことを励まし合いながら、従順の価値を知って、ますます、喜んで従うようになり、そして、主のみことばに従う恵みを教えることができるようになる、それが、主イエスを信じた私たち、イエス・キリストの弟子です。

大切なのは、日々、主のみことばに従う恵みを体験することです。ますます、従順の価値を知って行くことです。従順の価値を知れば、知るほど、喜んで従う恵みを、人にも分かち合うことができます。

ですから、私たちは、互いに励まし合って、ディボーションの時間を持ちましょう。
祈りとみことばによって、今日、私が従うべき権威のことばを、主から教えてもらいましょう。

皆さん、天のお父さんが、私たちを教える準備は、いつでも、できています。
神様は、最高の尊敬と愛をもって、私たちにみことばを教えようとして、待っておられます。

いつも、私たちに教えてくださろうとして、待っていてくださる神様に、時間をささげて、神様から直接、教えてもらう時間が、ディボーションの時間です。

神様に信頼して、ディボーションの時間を持つことが大切です。
神様が、今、聖書のみことばから、私に教えてくださる・・・神様は、今、私の祈りを聞いてくださっていて、必ず、何かしらの答えを与えてくださると、神様に信頼して、ディボーションの時間を持つことが大切です。

主に愛される時間、主を愛する時間として、ディボーションの時間を、主にささげましょう。
今週、一週間、ディボーションの時間を持つことによって、主が、直接、権威のことばを教えてくださる恵みが、溢れるばかりに与えられることを、主イエスの御名によって、祝福します。